❷ - γ 《撤退、しかし……》
◆ 《γ:影の道》 — 欠片が暴走し、撤退を余儀なくされた分岐
黒い無紋の通路に足を踏み入れた瞬間、空気は世界から切り離されたように変質した。光はすべて押し返され、影が濃密な流体となって足元に絡みつく。祠の奥へと伸びるこの道は、何かを選ぶ道ではなく、何かを保留するためにつくられた“間の領域”だった。選択を避けた者が通るべき余白。だがその余白には、迷宮自身の意思が沈殿していた。
エルドの胸元で導きの欠片が微かに震える。宝玉の前では警告のように光ったが、今はまるで呼吸を乱したように不規則に明滅している。祠は選択を記録するという。しかし退いたことすらも、祠にとっては一つの“反応”であり、道を進むほどにその反応が欠片へ圧し掛かってきた。
通路は細く、曲がりくねり、壁は黒い膜のような層を重ねている。どこを見ても輪郭が曖昧で、距離の感覚が崩れていく。歩いても歩いても同じような影が揺れ、時間が伸びきった細糸のように感じられた。足元の影は時折ふくらみ、足を引き留めようとする。エルドはその度に慎重に重心を移し、影の抵抗を振りほどきながら前へ進んだ。
しかし、影の圧力が強まるにつれ、欠片の明滅が急速に不穏な色へと変わり始めた。光は赤と青の中間で裂けるように揺れ、内部で何かがうごめく感触が伝わる。導きの欠片は最奥の“真名の石”へ辿り着くための道標であり、本来は迷宮の構造を読み取り、危険を緩和する役割を果たすはずのものだった。しかし今は祠そのものの意志と干渉し合い、制御を失いつつあった。
影の奥で脈動するような音が響き、通路全体が呼吸に合わせて膨張と収縮を繰り返す。影は壁から剥がれ、空中を泳ぎ、気配としてエルドの周囲に収束していく。祠は退いた選択を“弱さ”と捉えているのか、それとも“未完の意志”と判断しているのか。理由はわからない。ただ、迷宮はエルドを試している。それだけは確かだった。
欠片はついに光を噴き出した。胸元が焼けつくように熱を帯び、エルドの視界が光と影の境界で激しく揺れる。欠片は祠から押し寄せる影の情報を無理に読み取ろうとし、処理しきれない奔流に呑まれていた。光は細い糸のように裂け、やがて暴走の兆しとして周囲へ飛び散る。
通路は振動し、影の層が崩れ、通路全体が不規則な脈動を始めた。足元を支えていた黒い膜が波立つ。まるで迷宮そのものが怒りを覚えたように、重く、深く、容赦のない圧が迫る。進むべき道はまだある。しかし、暴走した欠片を抱えて奥に踏み込むことは無謀としか言えなかった。
胸元の熱は痛みへ変わり、制御を失った光が皮膚越しに狂った拍動を伝える。このまま進めば、欠片は破損する。あるいは自分の精神が先に崩壊する。理性の奥底で、撤退という選択が唯一の生存手段であることを理解した。
エルドは影の抵抗を押し返し、来た道を引き返す。通路は拒むようにねじれ、影が再び足元を捕らえようとする。しかし欠片の残光がかろうじてそれを弾き、狂った拍動を放ちながらも退路だけは維持していた。まるで暴走しながらも、最後の理性を振り絞ってエルドの命を守ろうとしているかのようだった。
ようやく紅の広間の光が見えたとき、欠片の暴走は限界に達した。光は急速にしぼみ、波打つような鼓動だけを残して沈黙する。宝玉の前に戻った瞬間、黒い道の影気配が嗄れた呻きのように退き、霧の向こうへと流れて消えていった。
祠は沈黙したままだったが、確かに記録していた。退いたという選択を。欠片が暴走したという結果を。そして、この先で必ず支払うことになる“後の試練”の形を。
ここから先の階層は、もはや同じ道ではない。
祠は変貌し、エルドの選択を基に“未来の光”への導線を描き直している。
影の道を退いた者が進むべき次の領域――
それが、星粒の舞う《未来の光》であった。
A - ❸ 未来の光へ




