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エルド奇譚:迷宮の祠と真名の石  作者: VIKASH
第八の試練

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「闃」―《Beyond the Shrine》

◆「闃」ルート《Beyond the Shrine》




 白銀は静かだった。



 静寂という言葉では足りない。



 音が存在しないのではなく、“音が意味を持てない”空間だった。



 足音も、呼吸も、衣擦れすら発生しているはずなのに、それらは空間へ記録されない。発せられた瞬間、何かに回収され、痕跡だけを残して消えていく。



 エルドは歩いていた。



 銀の床に刻まれた裂痕を踏み越えながら、一定の速度で前進を続ける。



 だが、どれほど歩いても景色は変わらない。



 いや、変化していないわけではない。



 変化に意味づけが存在しなかった。



 柱の位置は入れ替わっている。



 裂け目の数も増減している。



 遠方に見えていた壁は、いつの間にか天井へ変わっていた。



 しかしそのどれもが、空間の異常として認識されない。



 修正されるべき誤差ではなく、初めから許容された状態として存在していた。



 祠の気配が消えている。



 それだけは、明確に理解できた。



 これまで感じ続けていた微細な観測。



 どこか遠くから向けられていた意志。



 試練としての構造。



 選別の圧力。



 それらが、完全に途絶えていた。



 見られていない。



 その事実は、奇妙な浮遊感を伴ってエルドの内部へ沈殿する。



 解放感ではない。



 安心でもない。



 むしろ逆だった。



 観測されない存在は、定義が曖昧になる。



 誰にも測定されず、評価されず、記録されないものは、存在の輪郭を維持できなくなる。



 祠とはつまり、境界だった。



 世界を固定するための観測装置。



 意味を与え、役割を割り振り、進行方向を定義するための基準点。

 


 だが、ここにはそれがない。



 エルドは立ち止まる。



 すると、周囲の銀が微かに波打った。



 鏡面が水面のように揺れ、彼自身の姿を歪ませていく。



 映し出された像は、一つではなかった。



 王冠を戴く姿。



 血に濡れた姿。



 幼少の姿。



 空白だけが立つ無人の像。



 輪郭の崩れた影。

 


 どれもエルドであり、どれも決定されていない。

 


 祠が存在する空間ならば、その中から一つが選ばれていた。



 役割として。



 物語として。



 あるいは、試練を通過した結果として。



 だが、ここでは選定が行われない。



 像は重なったまま固定されず、互いを侵食し続けている。



 エルドは再び歩き出す。



 歩かなければ、自我の境界が曖昧になる気がした。



 銀の裂け目は増えている。



 だが、その欠損はもはや異常には見えなかった。



 むしろ、この空間において完全性の方が異物だった。



 不完全であること。



 定義されきらないこと。



 役割へ固定されないこと。



 それらが、この層の前提になっている。



 やがて、遠方に巨大な影が見え始める。



 建造物だった。



 だが、祠ではない。



 祭壇も紋章も存在しない。



 信仰を前提とした形状ではなかった。



 それは都市に近い。



 無数の塔が乱雑に接続され、橋とも根ともつかない構造が空間中へ伸びている。



 材質は一定しない。



 白銀、黒鉄、石、骨、生体組織。



 複数の文明が途中で融合し、そのまま放置されたような構造体だった。



 しかし奇妙なことに、崩壊していない。



 整合性を欠いているにもかかわらず、成立している。



 エルドは理解する。



 ここは“統治されていない”。



 祠とは違う。



 管理者がいない。



 観測者もいない。



 修正機構すら存在しない。



 にもかかわらず、この世界は存続している。



 都市の入口には門がなかった。



 拒絶も、歓迎もない。



 通行許可すら要求されない。



 ただ、存在している者だけが通過できる。



 エルドが内部へ踏み込むと、空気が変質した。



 音が戻ってくる。



 遠くで何かが軋む音。



 金属の擦過音。



 微かな話し声。



 しかしそのどれも、発生源が判別できない。



 都市そのものが、独立した生態系のように脈動していた。



 通路の脇には人影があった。



 だが、彼らはエルドを見ない。



 正確には、“他者を認識する機構”が希薄だった。



 片腕のない者。



 顔の輪郭が曖昧な者。



 身体の一部が銀へ変質した者。



 誰もが不完全だった。



 しかし彼らは、それを問題として扱っていない。



 修復しようとしない。



 隠そうともしない。



 欠損を前提として行動している。



 エルドはその異様さに気づく。



 ここには、“正常”という概念が存在しない。



 だから異常も存在できない。



 祠の世界では、常に基準が存在した。



 正解。

 適合。

 資格。

 価値。



 そこから外れたものは修正され、排除され、あるいは試練として再構築される。



 だがここでは違う。



 定義する者がいない。



 だから、何者にもなりきれなかった存在たちが、そのまま残存している。



 都市の奥へ進むにつれ、構造はさらに混沌を増していく。



 天井と床の区別が消え、建造物は重力を無視して接続されている。



 ある区域では空間が折り畳まれ、通路の途中に別時間帯の景色が混在していた。



 崩壊寸前にも見える。



 だが崩れない。



 均衡ではない。



 放置による安定。



 管理されないまま、無数の矛盾が互いを支え合っている。



 エルドはふと、広場のような空間へ辿り着く。



 中央には巨大な穴が空いていた。



 底が見えない。



 暗闇ではない。



 “定義不能”な深度だった。



 その縁に、一人の人物が座っている。



 老齢の男。



 だが年齢を判別できない。



 輪郭が不安定で、視線を向けるたび細部が変化する。



 男はエルドを見た。



 そして、初めてこの空間で、明確な言葉が発せられる。




「祠の匂いが薄いな」




 声は静かだった。



 感情も敵意もない。



 エルドは答えない。



 男は構わず続ける。




「完全に切り離されたわけではない。

 だが、戻ればお前は再び定義される」



「……ここは何だ」




 男は穴の底を見下ろす。




「失敗作の墓場。あるいは、完成を拒否した者たちの残響だ」




 淡々とした口調だった。



 自虐も誇張もない。




「祠は世界を固定する。定義し、整理し、進行を管理する。そうでなければ、世界は増えすぎるからだ」




 男の背後で、都市の構造が微かに脈動する。




「だが、切り捨てられなかったものもある。分類不能。修正不能。あるいは、修正を拒絶した構造」



「それがここだ」




 エルドは周囲を見る。



 欠損した都市。



 矛盾を抱えた構造。



 完成しないまま存在し続ける者たち。



 男は静かに笑った。




「自由だと思うか?」




 その問いに、エルドは答えられない。



 自由。



 その言葉はあまりにも曖昧だった。



 祠は窮屈だ。



 役割を与えられる。



 観測される。



 評価される。



 だが、ここには何もない。



 だからこそ、自らを定義できなければ、存在は輪郭を失っていく。



 男の身体が微かに崩れる。



 輪郭が銀の粒子となって空間へ散っていく。




「ここでは、自分で自分を観測し続けなければならない」




 それが最後の言葉だった。



 男は完全には消えない。



 だが、一人の人格として維持されることもなく、都市の構造へと溶け込んでいく。



 エルドは穴を見下ろす。



 底は見えない。



 だが、その奥から何かが脈動している。



 祠ではない。



 王でもない。



 試練でもない。



 もっと曖昧で、巨大な何か。



 世界そのものが、定義を拒絶しているような感覚。



 都市の遠方で、鐘が鳴る。



 しかし誰も反応しない。



 規律が存在しないからだ。



 命令も、義務も、意味づけも存在しない。



 それでも都市は動いている。



 誰にも統治されないまま。



 エルドは静かに歩き出す。



 戻る道は、もう判別できなかった。



 だが不思議と、恐怖はなかった。



 管理されない空間は不安定だ。



 保証もない。



 救済もない。



 しかし同時に、ここには“決められた終着点”も存在しない。



 祠の外側。



 観測の届かない領域。



 定義されないまま存続する、無数の構造群。



 その深部へ向かって、エルドは歩いていく。



 白銀の裂け目を、その身に抱えたまま。
































《―― Beyond the Shrine END》

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