E - ❸ 倒れた魔獣に止めを刺す
◆ ❸《倒れた魔獣に止めを刺す》
ガルラル・ハウンドが片膝をつき、巨体の震えが石床に伝わる。
エルドは剣を構えたまま、静かに歩を進めた。
弱っているとはいえ、守護獣が完全に沈黙することなどあり得ない。
倒れる前に息を整えられれば、再び立ちはだかるだろう。それを許す余裕はなかった。
迷いも逡巡も排した足取りで、エルドは魔獣の目前へと踏み込んだ。
表面を焦がした黒い甲殻の隙間から赤光が脈打つたび、広間の空気が微かに震える。
その光は弱まっているようでありながら、逆に深みを増した血のような色合いへ変化していた。
エルドは剣を振りかざし、刃先を魔獣の心核へと向けた。
――終わらせる。
そう思った時だった。
魔獣の身体がふいに波紋のように揺れ、甲殻の影がほどける。
視覚の奥で、景色がひずむ。
実体が砂のように崩れ、その隙間から赤黒い光が噴き上がった。
エルドは直感的に一歩退いた。
その光は暴発ではなく、“転化”だった。
ガルラル・ハウンドの肉体は霧のように散り、跡には巨大な影だけが残った。
闇そのものが凝固したような、輪郭の曖昧な影。
それが人の形を取るでもなく、獣にもなりきらず、ただ歪んだまま立ち上がる。
影には目がなかった。
表情も、意志も、感情もない。
ただ、エルドの動きを“知っている”だけの存在。
魔獣を倒そうとした者に対し、祠が生み出す過程の幻影――
力を持たず、実体も伴わない。
だが、心へ触れることだけはできる。
影がふわりと揺れ、エルドの胸奥へ冷たい刃のような気配が流れ込んだ。
――失われた声。
――叶わなかった願い。
――守れなかった手。
胸の奥で封じていた記憶が、赤黒い霧とともに浮かび上がる。
祠が“心の底”へ指を伸ばしているのがわかった。
影がエルドに寄り添うように伸びた時、一つの囁きが耳の奥をかすめた。
「戻れないものほど、人は追う」
それは声というより、記憶の反響。
誰のものかはわからない。
しかし、影はエルドの心を確かに覗き込んでいた。
エルドは歯を食いしばり、剣を横へ払った。
刃は影を裂いたが、抵抗も手応えもない。
ただ切り裂かれた部分が霧散し、すぐに元へ戻るだけだった。
その時、床石の中央で導きの欠片が光を強めた。
蒼ではない。紅でもない。
翠――深く、静かで、森を思わせる柔らかな輝き。
広間を満たしていた赤黒い霧がゆっくり晴れ、代わりに風の気配が流れ込んだ。
まるで祠そのものが、エルドに次の“道”を提示しているかのようだった。
影は役目を終えたように揺らぎ、低く溶け込むように床へ沈む。
最後に一度だけ、輪郭が揺れ、かすかに形を変えた。
――幼い小さな影。
――失った誰かの面影。
エルドの喉がわずかに震えた。
「……違う。あれは……もういない」
そのひと言で、影は音もなく消えた。
残されたのは静寂と、翠の輝きだけ。
エルドが歩み寄ると、床に刻まれた紋章が静かに回転し、まるで門のように開き始めた。
風の香り。花の匂い。温度の変化。
それは外界のものではなく、内部へ向かう“別の現実”の兆しだった。
紅の道が試したのは勇気。
次に待つのは――心の調和。
翠の光が強く脈打ち、道がひらけた。
エルドは剣を握り直し、一歩踏み込んだ。
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③《翠の道 》へ




