E - ❶ 番獣の影を調べる
◆ Eルート《紅の道》
選択:❶《番獣の影》を調べる
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ガルラル・ハウンドが倒れ込んだ広間には、焦げた石の匂いと、生々しい熱の残滓だけが漂っていた。エルドはゆっくりと剣を下ろし、荒い呼吸を整えつつ、番獣の背後に落ちている黒い影へと視線を移した。それは、ただの影ではなかった。肉塊でも器物でもなく、周囲の光を吸い込むように形を変え、時折ゆらりと波のように揺れている。
導きの欠片が足元で脈打ち、淡い赤光を揺らす。先ほどまで弱点を示した温度を持った輝きとは違う。今はまるで「触れてはならない」と告げる冷たさが宿っていた。
エルドは慎重に歩み寄った。ガルラル・ハウンドの巨体が横たわる影の向こう。その黒い揺らぎは、近づくほどに輪郭をあいまいに変え、見る角度によってまるで別の存在のように像を結んだ。獣のように見える瞬間があり、人影のようにも見える刹那があり、またただの裂け目のように平らな面へと戻る。
熱が引きつつある広間で、その影だけが凍てついた空気をまとっていた。
エルドは膝をつき、さらに近くへ目を凝らす。影の中心には、砕けた黒曜石の欠片のような結晶が埋まっていた。それは番獣の胸部に宿っていた赤い核とはまるで異質の、冷たい闇を孕む物質だった。欠片の周囲には、細い筋のような紋章が蜘蛛の巣のように広がり、広間の石床をむしばんでいる。
その紋章は、祠に刻まれていたものとも、帝国の古き紋章とも違った。より古く、より原始的で、血脈でも歴史でも括れない種類の“起源”の響きを持つものだった。
エルドの背筋を、ひやりとした感覚が走った。それは魔獣との戦闘の疲労によるものではなく、もっと根本的な恐怖に近い。今までの戦いのすべてが、入口にすぎなかったという直感が心臓をつかむ。
影の奥では、何かがゆっくりと息づいていた。脈動は弱く、しかし確実に存在している。それは番獣が守っていたものではなく、むしろ番獣自身が、その存在によって縛られていたのだと理解できた。まるでこの影こそが本当の“番”であり、祠に侵入した者がここに辿り着くたび、その者を試すように番獣を操っていたかのようだった。
導きの欠片が足元で震えた。まるでこの場から離れるべきだと訴えるかのように、明滅を早めていく。
影が、わずかに広がった。
床の紋章が広間へ滲むように伸び、赤黒い脈が鼓動を打つ。祠全体が呼吸するように、空気がわずかに押し上げられた。影は意志を持って形を変え、広間の中央に立つエルドへ静かに近づいてくる。
その瞬間、エルドは“理解してしまった”。
これは紅の道の試練ではない。祠の守護者でもない。紅の道そのものが、何かもっと深い闇を封じるための外殻であり、今触れているものはその最も外側の“兆候”にすぎなかった。
祠の奥に進めば、たしかに道は続くだろう。だがその先には、試練ではなく“侵蝕”が待っている。魔獣は倒しても、道は開かれても、その先へ踏み込んだ者が帰還した痕跡は一つとして残っていないという古文書の記述が、脳裏に浮かんだ。
影が再び震え、広間の灯火が一斉に揺れた。石壁が軋む音が微かに響き、空気はひどく重たくなる。
エルドは剣を握り直したが、振り返った先の通路に見えたのは“帰還の光”だった。祠の入口から伸びる微弱な光が、かすかに広間の縁へ差し込んでいる。そこだけが影の侵食を受けていない。
進むべきではない――その確信は疑いようもなかった。
導きの欠片が赤光を静かに収め、淡く彼の足を照らした。それは祝福ではなく、決断を促す最後の灯火のようだった。
エルドは背を向けた。影は追わない。ただ漂い、静かに世界の隙間へと退いていく。まるで本当に、祠から出るという選択を許すかのように。
広間を離れ、祠の通路へ戻るたびに、背後の気配は遠のいた。紅の道は、騙すように美しく、しかし本質は底知れぬ深淵へと続く道だった。その真相を知ったからこそ、エルドは引き返すことができた。
祠の出口へ向かいながら、彼は胸の鼓動を聞いた。敗北ではない。逃避でもない。これは、生き延びるための正しき退路だった。
背後で祠の扉が静かに閉ざされた。
紅の道の“本当の試練”は、二度と彼の前に姿を現すことはないだろう。
《アナザーエンド》




