A - ❶ 観察の光
◆《観察の光》ルート:万物の姿を映す道
蒼の膜をくぐり抜けると、空気が変わった。
温度はほとんど感じられず、音も消えている。
ただ、薄く白い霧が地面を覆い、足音すら吸い込んでいくような静けさだった。
エルドが進むごとに、霧は揺れ、淡い光を散らした。
その光が床の石に触れるたび、石面に走る紋様が浮かび上がる。
紋様はまるで脈動する心臓のように淡く明滅し、方向を指し示すようでありながら、どこか曖昧でもあった。
これが《観察の光》の道なのだろう。
隠されたものを照らし、真実を映すはずの試練。
だが、エルドはすぐに奇妙な違和感を覚えた。
光が示すはずの“道”が、複数に分岐して見える。
どれも同じように淡く、いずれも確かなようで曖昧。
選ぶべき線が、霧の動きに応じて揺らいでしまうのだ。
試練にしては雑すぎる。
本来の迷宮の精度とは異なる。
そんな思いが胸中で静かに膨らんだ。
視界の端で光がまた散る。
紋様が地を這うように伸び、同時に別の紋様が収縮する。
まるで複数の意志が干渉し合い、方向性を争っているようだった。
正しい道は一つのはずだ。
けれど、ここにはその“明確さ”がない。
知識を試すにしては、情報が不安定すぎる。
エルドは霧の中で立ち止まった。
静寂の中、自分の呼吸だけが頼りになる。
胸元の《識導の紋》は微かに淡く光を帯びているが、これは指針ではない。
あくまで“思考を澄ませる補助”であって、道そのものを選んではくれない。
そして、次の瞬間――エルドは気づく。
霧が、紋様が、光が、すべて“観察”によって形を変えている。
見ようとするほどに揺らぎ、意識の向きが結果を変えてしまう。
これは“観察者の存在”が干渉を生む構造だ。
真実を見抜く試練ではなく、“見ようとする意志”が逆に道を曇らせる。
この矛盾は、まるで試練そのものが成立していないかのようだった。
迷宮はもっと精密なはずだ。
意志を持ち、選択を読み、解へ導く。
だが今のこの空間は、迷宮の意志とは別の、不純な何かに引かれているように思えた。
エルドは、薄く一歩後ずさる。
その瞬間、霧がわずかに引いた。
何かが見えたわけではない。
ただ、この一歩が“正しくない場所から離れる”行動のように感じられた。
胸の奥が微かに軋む。
選んだはずの道が、正しいと思って進んだはずの試練が、どこか根本から違う。
そう思わせるような、不穏な静けさが空間に広がっている。
霧が濃くなる。
紋様が揺らぐ。
光が淡く、そして消える。
足元の石がわずかに下がり、空間全体が沈み込むような感覚に襲われる。
道ではない。
ここは、選ばれていない。
そう理解した瞬間、空気が裂けた。
冷たい風が頬を撫で、霧が左右に割れていく。
それは迷宮が本来の流れへ戻ろうとしているようでもあり、あるいは試練そのものを入れ替えるようでもあった。
霧の向こうに、ほのかな翠の光が差す。
風が温度を取り戻し、草の匂いが混じる。
蒼の道の冷たい静寂とは違う、柔らかな緑の気配。
迷宮が示すべき“次”が、そこにあった。
エルドの足が自然とそちらへ向かう。
退くようでいて、進むようでもある奇妙な歩み。
だが、迷宮はもう異を唱えない。
むしろ、蒼の道の霧は静かに閉ざされ、二度と開く気配を見せなかった。
翠の光が広がる。
草の香りが鮮やかに混じり、空気が揺らぐ。
記憶の底から呼ばれるような温かみが、視界の奥で微かに差した。
次の瞬間――
光が弾け、世界が開ける。
蔦の揺れる壁。
春の匂い。
ひろがる草原。
空をつくったような穏やかな青。
そして、その中央に――
ひとりの少年が佇んでいた。
翠の試練が、始まる。
③《翠の道》へ




