「忘」―《自我希薄 ― 記憶を手放す道》
◆「忘」ルート
霧は、もはや道と呼べる形を保っていなかった。
白衡の導杖が発していた淡光も、いつしか輪郭を失い、周囲の靄と溶け合っている。進んでいるという実感だけが、かろうじて残っていた。
「忘」の層では、過去は静かに剥離していく。
名、目的、理由、誓い。
それらは破壊されるのではなく、意味を失う。大切だったという感覚だけが、最後まで薄く残り、それすらも霧に吸われていった。
足取りは軽くなっていく。
迷いも、後悔も、重さを持たない。
選ばなかった道を思い出すことも、選び続けてきた理由を確かめることも、ここでは不要だった。世界はただ、呼吸のように揺れ、同じ調子で存在し続けている。
霧の奥に、かつて幾度も見たであろう光景が浮かぶ。
剣の軌跡。
燃え上がる王枝。
名を呼ぶ声。
だがそれらは、感情を伴わない映像として、ゆっくりと崩れ落ちていく。意味を失った記憶は、物語ではなく、単なる現象へと還元される。
白衡の導杖は、やがて“道具”であることをやめた。
導く機能も、象徴としての役割も、必要とされなくなる。
握っていたはずの感触が消え、存在していたという確信すら薄れる。
進む者は、もはや「誰か」ではない。
名を持たず、役割を持たず、物語の中心にも属さない。
だが、消滅したわけではなかった。
忘却は、空白ではない。
それは、世界と同じ密度で存在するための形だった。
霧は次第に境界を失い、内と外の区別が曖昧になっていく。
歩いているのか、漂っているのか、その差すら意味を持たない。
時間もまた、層として解け、過去と未来は同じ濃度で周囲に満ちていた。
かつて、選択が世界を変えた。
かつて、名が運命を縛った。
だが今、それらは歴史の外側へと静かに押し出されていく。
残るのは、ただ在るという状態。
霧の最深部で、揺曖の環は完全に閉じた。
円は終点を持たず、始点も示さない。
内側と外側は区別されず、そこに立つ存在は、境界そのものとなる。
記憶が消えたあとに残ったものは、虚無ではなかった。
それは、世界と摩擦を起こさない静かな実在。
語られず、記録されず、だが確かに“ここにある”という在り方。
物語は、そこで終わる。
英雄も、王も、継承も、意味を持たない場所で。
だが終章とは、消失ではない。
それは、語られない形へと変質しただけだった。
霧の中に、かすかな揺れが残る。
それは、かつて選び続けた痕跡でも、選ばなかった可能性でもない。
ただ、世界が世界であるために必要な、最小限の存在。
名を持たない者は、もう振り返らない。
進む理由も、戻る理由も持たないまま、揺曖の環と同化していく。
そして、忘却は完成する。
物語は静かに閉じ、
世界は、何事もなかったかのように、次の揺れを待ち始めた。
《アナザーエンド》




