手を伸ばせばそこに
「……もう、限界やわ」
カラスバは先程まで叩いていたパソコンを閉じ、
疲れ切ったその眼を解すように鼻の根を指で掴み上げた。
冷えきった指先が痛みを伴い始めていた瞳をじんわりと冷やし、先程よりは幾分か楽にはなったが腰の疲労はそうもいかない。
「なあ、ジプソぉ、腰揉んでや」
先程から此方も忙しそうに事務処理に追われていた部下へと声を掛ける。
チラリと窓を見遣れば、薄曇りからはちらほらと白い雪が降り始めていた。
「致しかねます、私はそういった資格を持ち合わせていないですから」
自分なりに幾分か甘えた声を出したつもりが、部下は変わらずピシャリと冷静にも此方を窘める。
(相も変わらず、お堅いやっちゃ)
毎度のこと、この部下は仕事中は一切仕事の顔を崩そうとはしない。
だからこそ夜に、その最中に、鋼のようなその精神を毒で溶かすのが愉しいのだけれども。
年末を間近に控えたサビ組は、毎年の事ながら大量の事務処理に追われていた。
とは言え下っ端では重要書類に目を通す事すら叶わず、大抵はこうしてジプソと2人、カラスバは事務所に篭もりっきりになるのだ。
パソコンのデータに目を通し電子サインをしつつ、紙の書類には認め印を押す、そんな作業をここ3日は続けていてロクに眠れてもいない。
事務所の仮眠室が唯一の寝床で、数時間程の睡眠が取れている程度で体の疲労は最早限界値を達していた。
「なあジプソ、仕事締めしたら二人で温泉でも行こか?」
再びとパソコンに向き直したカラスバは、データに目を通しつつも部下に問いかける。
今すぐ身体の接触を促すような事をしなければ、その提案も跳ね除けられる事も無いだろう。
「オンセン……とは、どういったものですか?」
「あ〜、…お前は知らんのか」
しかし帰ってきた答えは承諾ではなく問いかけだった。
そうか、この男と温泉について話した事は無かったか、とカラスバは脳裏にその光景を思い浮かべる。
とは言え、幼い頃に見ただけのその光景はカラスバにとっても朧気で、必死に記憶の糸を辿ってはみるが、とにかくデカイ風呂、としか思い浮かびはしなかった。
「あ〜、なんや、外にでっかい風呂があるんや、それが温泉や」
「お風呂……でしたら事務所にもありますが」
「ちゃうねん、デカイからええねん、それに外にあるから景色も見えて気持ちええんや」
「海、みたいなものでしょうか?」
「ちゃうねんなー、海は疲れるだけやろ、けど温泉は疲れが取れんねん」
……多分、と付け加えてカラスバは口を閉じた。
結局の所、自分も温泉については見聞きしただけで実際には入った事が無かったからだ。
しかし、いい物には違いないだろう、富豪たちが挙って温泉に出向いていたのだから……そう例えばゆっくりと温泉に浸かって身体を温めた後、浴衣姿に着替えて晩酌をする、火照った身体をバルコニーで冷やしそれから、それから……
「カラスバ様?」
妄想に耽っていたカラスバは突如の頭上からの問いかけにハッと我に返り顔を上げた。
妄想の中で温泉を楽しんでいた自分の隣には今し方見上げた先の男が居た。
温泉を一頻り楽しんだ後、浴衣姿をはだけさせた自身を組み敷く男の姿が……
「はあああああ」
仕事中には有るまじき行為。
部下に組み敷かれる痴態を脳裏に浮かべてしまった自己嫌悪にカラスバは深々とため息を吐き出した。
(有り得へんやろ、ほんま……)
ここ最近は忙しさも相まって、最近恋仲となったばかりの部下との行為はゼロに等しい。
それどころか顔を合わせれば仕事の話ばかりで、触れ合いといった触れ合いも全く無くなってしまっていた。
だからと言って、大の大人が、しかもサビ組ボスの冠を背負っている自身が、目の前の男に抱かれたいと切望していた事実にカラスバはもう1度深くため息を吐く。
(オレ、疲れてるんやろか)
そうだ、仕事を終えたら1人温泉に行こう、そう決めたカラスバはふと、自身がすっぽりとデカイ影に覆われている事に気がついた。
「……何や?」
「いえ、先程から思い耽っていますし、溜め息も……体調がお悪いのかと……」
近い。
見上げればすぐそこに図体にしては可愛らしい双眸が此方をひたと見下ろしている。
手を伸ばせば直ぐにでも届く距離
……ああ、アカン。
ぐらりと理性が崩れ落ちるのを食い止める術なく、カラスバはぐい、とその男のスーツの襟を掴み引き寄せた。
ちゅ、と軽く触れ合うだけのキスをして直ぐにペロリと舌を這わせる。
「なあ、ジプソ、頼むわ、もう限界やねん」
言いながらも自身が首に締めていたネクタイを外しボタンを1つ、2つと外す。
ここまで分かりやすく誘ってダメならもう、自分で自分を慰めるしかないだろう。
そう思った矢先
「失礼します」
一言、言われるなりカラスバの体は軽々と宙を舞った。
座っていたソファーから急に抱き上げられて、その勢いで履いていた革靴がゴトリと音を立て床に落ちる。
「なん、やねんな、いきなし」
問いかけてもその先の男は応えない。
見上げた先の表情はまさに荒々しいといった表現が似合う程に眉は顰められ唇はギュッと固く閉じられている。
ガチャリ、と仮眠室のドアが荒々しく開かれて同時にカチリと鍵がかけられた。
そのままどさりとソファーに身体が投げ出されて、カラスバの2倍はあろう巨体が身体の上に伸し掛かってきた。
「なんや……お前も、大概、限界やったんやな」
ふー、ふー、と荒々しく息を吐き出しながらも自身の首筋にと唇を寄せた男を抱き寄せて、カラスバはこれから待ち受けるだろう快楽に思い馳せ眼を固く閉じたのだった。
END




