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消えない線

作者: 零七

人生の中で、私たちは数えきれないほどの「線」を刻んでいきます。それは、過去の選択や経験、心の中に刻まれた思い出の痕跡。どんなに時間が経っても、それらの「線」は消えず、私たちの一部として存在し続けます。「消えない線」は、ひとつの入れ墨が象徴する過去と現在、そして未来への思いを描いた物語です。主人公が抱える「線」に対する複雑な感情と、それに向き合いながら生きる力強さを通して、私たちもまた、自分自身の過去と向き合う勇気を与えられることでしょう。

短編小説 「消えない線」  

                 

 1:消えない線

 朝の光が薄いカーテンを透かして、アパートのキッチンに差し込んでいた。

私はコーヒーをカップに注ぎ、立ちのぼる湯気にそっと顔を寄せる。

ほのかな苦味が鼻をくすぐり、胸のざわめきが一瞬、静まった。

 視線を落とすと、腕に色あせた線が残っている。

五十年の時を刻んだ皺やたるみの中に、若さの衝動の痕跡――入れ墨が、今も消えずにあった。

 通勤ラッシュの足音、自転車のベル、子どもたちの声が、窓の外から入り混じって聞こえる。

そのざわめきに紛れるように、記憶の中の幼い声がふいに蘇った。

 湯気の立ちこめる浴室。小さな手が、私の腕を指差した。

「ママ、なんでお絵かきしてるの? 消してあげるね」

 タオルでごしごしと一生懸命に擦る仕草。

「消えないねー、消えないねー」

 胸の奥に鋭い痛みが走る。

恥ずかしさと後悔がいっぺんに押し寄せ、言葉にならない涙が込み上げた。――ごめんね。声に出せず、心の中で繰り返す。

 それからの私は、子供を守るために生きた。

仕事に追われながらも、笑顔に支えられる日々。腕の線を隠しつつ、罪悪感を抱えたまま前へ進んだ。

 夜、子どもが眠った静かな部屋で、腕の線を見つめる。

「これは私の過去。でも、消せない以上、私の人生そのものなんだ」

 朝の光が少しずつ部屋を満たす。

私はコーヒーを口に運び、静かに心に誓った。


2:若き日の線

 二十代の私は、ただ自由でありたかった。

大学を出たばかりの頃は、昼は仕事に追われ、夜は街のネオンに吸い込まれるように出かけていた。

ある晩、友人と入ったバーの壁に、鮮やかなアートが描かれていた。

光を受けて線がゆらぎ、まるで呼吸しているようだった。

「すごいね、まるで生きているみたい」そうつぶやく私に、友人が笑った。

「そんなに気に入ったなら、自分の身体に描いちゃえば?」

 その言葉が胸に刺さり、私はタトゥースタジオの扉を開けた。

針が肌を刺すたびに鋭い痛みが走ったが、不思議と怖くはなかった。

「これで私は、誰のものでもない」腕に刻まれた線を見た瞬間、胸が高鳴った。

若さの証、反抗心、自由――すべてがその線に凝縮されている気がした。

恋人も友人も、最初は戸惑ったが、やがてそれを私の一部として受け入れてくれた。

 しかし、時は流れる。

結婚し、子どもを授かり、日々の暮らしは責任と現実に塗りつぶされていく。

 夏のプールでは長袖を着て、銭湯ではそっと腕を隠す。――あの線は、かつて自由の証だったはずなのに。

 夜、眠る子どもの隣で、静かに腕を撫でながら思う。

「この線は、過去の私。でも、消せないからこそ、母である今の私も――すべてが繋がっている」


3:家族の線

 結婚生活は、静けさの中で荒れる嵐のようだった。

夫は優しい人だったが、仕事に追われ、家庭に目を向ける余裕はほとんどなかった。

朝は弁当を作り、昼は仕事に追われ、夜は洗濯と子どもの寝かしつけ。台所の音、子どもの寝息、家の隅々に広がる孤独――その中で、私は何度も、自分の腕の「線」に目を落とした。

入れ墨は、いつも心の片隅にあった。

 海水浴では長袖のラッシュガードを着せ、銭湯では腕を隠した。

けれど、日々の中で、その「線」の意味は少しずつ変わっていった。

 恥や後悔の象徴だったそれは、やがて私と子どもが歩んできた軌跡を映し出すものへと変わっていった。


4:断絶の線

夜、ベッドに横たわりながら、天井を見つめる。隣では夫の寝息が聞こえるが、心は遠く、ただ孤独だけが重くのしかかっていた。

「これ以上、子どもと自分を犠牲にしてまで、一緒にいる意味はあるのだろうか」布団を握りしめる手に力がこもり、頬を伝う涙が静かに落ちる。そのとき、決断は確かに訪れた。

――離婚。胸が痛むと同時に、新たな覚悟が芽生えた。

それからの日々は、容赦なく過酷だった。昼はパート、夜はバイト。家事、買い物、子どもの世話に追われ、ひと息つく暇もない。

 孤独は重くのしかかるが、それでも子どもの笑顔が何よりの支えだった。

ふと、自分の腕の線に目を落とす。

かつては過去の恥の象徴だったその痕も、今では、私と子どもの歩みを刻むものになっていた。

「これも、私の人生。受け入れて、前へ進もう。」


5:日常の線

アパレル店での仕事は、最初こそ戸惑うことも多かったが、同僚の笑顔や励ましに支えられ、少しずつ慣れていった。

棚を整え、鏡の前で微笑むお客様の姿を眺めていると、小さな達成感が孤独感を和らげてくれる。

休日には子どもと公園へ行き、砂場で手をつないで笑い合う。

友人とランチに出かければ、昔話に花が咲き、時間があっという間に過ぎていく。

腕の線を指でなぞると、子どもの笑顔、仕事での喜び、友人との笑い声が次々と浮かんでくる。

過去の痛みや後悔も、今の私を支える大切な一部だと感じられる。

「この線も、私の人生の一部。」

静かに、そう思えた。


6:記憶の線

夏の日、子供と海へ出かけた。太陽はまぶしく、砂浜は熱を帯びている。

波打ち際では水しぶきが跳ね、光を反射して、まるで宝石が散らばったようだった。

「ママ、見て! 潜れたよ!」笑顔がはじける子供に、私も手を振る。

「すごいね、上手だよ!」子供は満足そうに抱きついてきて、「ねえママ、どうしていつも長袖なの?」と尋ねた。

 純粋な問いに、私は「日焼けしたくないからよ」と答え、苦笑いする。

そっと腕の線に手をやる

これは、過去の私の証であり、母としての今を支える線。胸がじんと熱くなる。

小さな出来事の積み重ねが、私のこの線を太く、確かなものにしてきた。


7:未来への線

 ある日、思い切って子供に聞いた。

「ねえ、お母さんの入れ墨、どう思う?ごめんね」

子供は少し戸惑ったが、すぐに笑って言った。

「そんなこと、しょうがないじゃん」

その言葉に胸がいっぱいになり、涙があふれた。

「ママ、大丈夫だよ」

 小さな声が、心の奥にあたたかな光を灯す。


8:心の誓い

季節は巡り、子供は成人し、結婚式を迎えた。

アルバムをめくると、幼い頃の笑顔が鮮やかによみがえる。

子供の幸せそうな姿を見つめながら、私はそっとつぶやく。

「消せない線も、抱きしめて生きていこう」

入れ墨の線は、過去・現在・未来をつなぐ、母としての証。どんな線も、愛と共に生きていける――私は、心の奥で静かにそう誓った。

 





誰の心にも「消えない線」があると思います。それは過去の衝動かもしれないし、後悔、傷、あるいは大切な誰かとの記憶かもしれません。

この物語は、ある一人の女性が、自分の人生に刻まれた「消えない線」と向き合い、受け入れていく過程を描いたものです。

子を想い、葛藤し、時に立ち止まりながらも、前を向いて歩き続ける――そんな姿が、誰かの心にそっと寄り添えたなら幸いです。

過去も今も、すべてを抱きしめて生きていく。

この物語が、あなた自身の「線」と向き合うきっかけになれたら嬉しく思います。


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