第二章【深淵の始まり】
白銀ユウが目を開けたとき、彼はすぐに理解した――もう東京ではない。
つい先ほどまで、彼は雑踏に満ちた街を歩き、頭の中はブラックホールの方程式や星々の軌道でいっぱいだった。
大学での深夜の勉強を終え、疲れ果てて帰る途中、宇宙重力の謎を考えていた瞬間――突如、眩い光に呑み込まれた。まるでアニメのように、唐突に異世界へと飛ばされるシーンのごとく。
今、彼は湿った歪んだ大地に倒れていた。
金属のような鋭い匂いが漂い、頭上の空は紫色に裂け、そこには繋がった「月」と「太陽」が浮かんでいた。
ユウはゆっくりと頭を上げた。脆い体は震え、記憶が鮮烈によみがえる。――家族を殺した女神。ミサキの叫び。母の涙。父の流れ落ちる血。
「……ミサキ……父さん……母さん……」
掠れた声で呟くと、傷だらけの頬を涙が伝った。あの嘲笑う女神に立てた誓いはいまも胸を焼き続ける。
「……奴らを楽しませてやる。そして必ず取り戻す。七柱の神を斬り伏せる……たとえ闇に呑まれても! たとえ、この世界で“悪役”を演じることになっても!」
胸中の嵐を押し殺し、ユウは苦々しい笑みを浮かべた。まるで地獄から帰還したアニメ主人公のように。
「……本当に異世界かよ。魔法、魔物、マナ……全部揃ってやがる。こんな呪われた森までお出ましか。もしこれがアニメなら、今頃ナレーターがこう言うんだろ?『これは新たな冒険の始まりか?』ってな。でも俺は勇者じゃねぇ。ただの物理オタクで天文マニア、体育すらまともにできない落ちこぼれだ。……もしかして、あのクソ女神は俺に“人類史のまた一つの失敗”を証明させたくてここに送り込んだのか? いいぜ……必ず後悔させてやる!」
恐怖が腹の底を食い破ろうとするが、ユウは押し殺す。最後に交わした約束を思い出しながら。
「心配するな……俺がいるから……」
ユウは選ばれし勇者でも、伝説の剣を授かった者でもない。
ただの二十歳の青年。夜を徹して宇宙の謎を追い、成績すら危うい物理学生。
だが彼は悟っていた――この世界にも“法則”はある。そしてそれを暴くのは自分だ。たとえ素手で地獄に挑もうとも。
女神の言葉が甦る。
「異世界で我らを楽しませよ。さすれば、家族を返してやろう。」
震える手を空へ伸ばす。期待半分、諦め半分。
すると、蒼く輝くフレームが虚空に浮かび上がった。デジタルの亡霊のように。
【ステータス】
名前:白銀ユウ
レベル:1
HP:100
MP:5
力:1
耐久:1
速さ:1
知力:?(測定不能)
意思:4
加護:なし
スキル:なし
ユウは読み取った瞬間、顎が外れそうになった。そして、次の瞬間、大声で笑い出した。その声は呪われた森に響き渡った。
「スキルなし? 加護なし!? 俺の取り柄は“無限知力”だけで、他は全部ゼロだと!? こんなの安っぽい異世界アニメ以下じゃねぇか! 普通なら主人公が伝説の剣とかチートスキルを授かるんだろ!? 俺は……“何もなし”!? 神々のメッセージかよ……『脳みそだけで生き延びろ』ってな! ははっ、なら物理の教科書でも探して核爆弾でも作るか? 小惑星の軌道を計算してダンジョンにぶつけてやるか? ――はっ、完全にギャグアニメじゃねぇか!」
だが、その笑いはすぐに消えた。胸を押し潰すような現実がのしかかる。家族の叫び。女神の冷たい約束。
ユウは険しい表情で呟いた。
「……俺は勇者じゃない。世界なんて救うつもりはねぇ。もし世界そのものが敵になるなら、全部ぶっ壊してやる……必ず強くなって、この両手で家族の仇を討つ!」
彼はあまりに弱かった。今のままでは、ただの魔物一体にすら殺される。生き延びること自体が奇跡。だが、それでも――ユウは諦めなかった。
拳を強く握りしめ、燃える決意を胸に。ミサキの小さな手を思い浮かべながら。
「神が力をくれないなら……俺が自分で創り出す。この世界の法則を必ず見抜いてみせる。たとえ命を賭けてもな。見てろよ、クソ女神……舞台を楽しめ。俺はお前と六柱を斬り伏せ、家族を取り戻す。たとえ闇に呑まれても!」
日々は生存のための霧のように流れていった。
無限の知力は呪われた森を実験室へと変える。黒い葉は毒を持ち、皮膚を焼いて剥がす。根元に蠢く黒いスライムは電子のように動き、焼けば食える。火で毒を飛ばせば、幻覚を起こす成分も消える。
「……日本のサバイバル番組みたいだな。でもカメラも賞金もなし。あるのは毒と飢え、そして俺がアニメの主人公を気取るだけ……か。」
ユウは焚き木を拾いながら呟いた。震える手、母が作ってくれた温かい食事の記憶。
道は避け、根の間を虫のように這い、歩幅は小惑星の軌道のように計算された。観察した魔物――円を描くスライム。巣に近づけば毒を放つ光る尾を持つ虫。
すべてを記憶し、法則を解く。
「……この世界の動きも軌道だ。サイクルを読めば、生き延びられる。」
夜。岩陰に潜みながらスライムを見つめ、囁いた。
「この世界……全部が魔力と魔術の方程式だ。小さきものの影には必ず大きな存在がある。今戦えば死ぬ。俺は避ける。強くなるまではな……。」
知力こそ唯一の武器。
「スライムの動きが円なら、それは楕円軌道。中心を割り出せば死角ができる……星の軌道を解くのと同じだ。」
――毎日が授業。傷は教科書。恐怖は意志を燃やす炎となった。
やがて辿り着いた場所は、古の死の臭いを放っていた。散乱する骨。朽ちた衣服。突き立つ錆びた剣。地に埋もれた地図。
ユウは骨を払いながら呟く。
「冒険者たちか……挑んで、そして敗れた。ここで死んだなら、俺はどうなる……? 俺はただの脇役なのか? ――違う……生き延びる。必ず家族を取り戻す!」
指先が光る革の本に触れた。
開かれたページには「この世界のシステム」と記されていた。
「……運がいいな。こんな本を拾うなんて。……読めるか?」
不思議なことに、文字は理解できた。
「……よし、読める。」
そこには古代の符号とランクが記されていた。F(弱者)──「まるで異世界アニメやビデオゲームのランクそのものだな…ん?待てよ…、SSS(伝説級──山をも破壊する者たち)、そして X(神位)──彼らを倒せるのは悪魔か、選ばれし者だけである。」
「……ふざけんな。魔物ですら神に匹敵する力だと!? 七柱の神に創られた悪魔……限界を超えた人間……。道は険しい。だが分かった。人間は“レベル上げ”で極限まで強くなれる。なら俺にもチャンスはある……この世界の法則を超えることさえ可能だ!」
ページを読みながら皮肉げに笑う。
「……スキルは想像で創れる。物理学に狂った俺には簡単なことだ。この世界は物理も天文学も知らない。なら俺が作る……誰も知らない力を!」
錆びた剣を掴む。重く鈍いが、始まりには十分。骨を見下ろし、呟いた。
「……お前たちはここで死んだ。でも俺は違う。俺は生きる。無から力を創り出してでもな。」
数日後、森の奥に巨大な門が姿を現した。逆さの大聖堂。石の天使が血の涙を流し、死の旋律を奏でる。赤い霧が潮のように押し寄せる。近づくだけで膝が折れそうなオーラと圧。
胸を押し潰すような魔力。だがユウの頭脳は方程式のように解析を始める。
「ただの門じゃない……生きている……これが“ダンジョン”ってやつか。」
一歩ごとに砂に沈むような感覚。
「物理は通用しない……だがマナは思考に応える。なら形を与えればいい。星じゃない……そう、“ブラックホール”だ。」
宇宙の捕食者をイメージし、指を伸ばす。
「――喰らえ。」
【ブラックホール誕生】
空気が歪む。
珠ほどの渦が生まれる。だがその飢えは無限。
マナを吸い込み、光すら曲げた。霧が怯えて退き、森が震える。
システムが浮かぶ。
【オリジナルスキル生成:ブラックホール】
レベル:1
効果:敵のマナを吸収し、弱体化させる。スキルも吸収・獲得可能。
警告:過度の使用は肉体を蝕む。
胸を焼く痛み。魂を喰われるような苦しみ。だがユウは笑った。
「……チート無し? なら俺が作るさ……俺だけのチートを。これが俺の最初の武器、俺だけの始まりだ!」
森は沈黙し、風さえ止まる。
ユウは門の前に立つ。震える体。だが瞳は赤い星雲のように燃えていた。
「これが俺の最初の武器……次はもっと上手く。」
荒く息を吐き、歪んだ木に背を預ける。
「ブラックホール……名に恥じねぇ。まるで悪魔との契約だな……『使え、だがいずれお前を喰らう』ってか。……なら俺が喰らう前に従わせる……!」
顔を上げ、門を睨み、挑発的に笑う。
「隠してるんだろ、もっとヤバい試練を。……上等だ。俺は準備できてる。全てを、飲み込む。」