後編:またごはんを作る日まで
さてさて、皆様お立ち会い。
この世には、腹が減ると力も出ぬ神様がおるって話、信じられますかい?
狐の神様と若きまかない人の、ちと風変わりな縁の物語。
今宵はその結び、最後の一膳と参ります。
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琥珀が現れてから4ヶ月。時々小さな穢れを祓いながらも、一人と一匹?は比較的平穏な日々を過ごしていた。
異変は、春の終わりの夕暮れにやって来た。
社の空気が、音を立ててひび割れたようだった。境内の木々がざわめき、風もないのに葉が千切れて舞った。
湊は2カ月後に行われる、神事に使用する茅の輪を点検していた手を止める。
森の奥からねっとりとした瘴気が、じわりじわりと滲み出していた。
「……来たか」
社殿の屋根で昼寝をしていた琥珀が、ひと声うなる。耳がぴんと立ち、金の尾が膨らむ。
すとん、と湊の隣に降り立ち、静かに話す。
「あれが『穢れの核』じゃ。信仰が薄れ、忘れ去られた神域の、最後の毒……」
湊はうなずいた。これが終われば、本当に平穏が戻るかもしれない。
「しかし、今度の穢れはかなり強大な気配がするのう」
琥珀が鼻筋に皺を寄せながら低く唸る
「だ、大丈夫だよな?負けるとかそんな…」
湊が不安げに琥珀に尋ねる。
「ハン!わらわをなんじゃと思うておる?負けることなど万が一、いや兆が一にも無いわ!」
湊はほっと息を吐く
「ただ…」
「た、ただ?」
オウム返しに聞く湊に一瞥をくれ、琥珀が苦々しく呟く
「少しは本気にならねばいかんかも知れん。しかし、神格を取り戻せば、わらわはこの社に縛られぬ存在に戻る。」
湊がギョッとして琥珀に問いかける
「つまり、それってどう言うこと?」
「神格を持つ者は神界に戻る。それが神界の理じゃ。今はそちの飯で、この地に縁を持っておる。わらわは存外ここの暮らしが気に入っておる。最後まで、可能な限りそれで戦おう」
コハクは目を細め、珍しく真面目な顔で答えた。
湊はぐっと唇を噛み、台所へと駆け込んだ。
最後になるかも知れない、まかないを作るために。
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台所に立った湊は、深く息を吐いた。
心を落ち着け、まずは五穀米の支度。もち米を主体に、うるち米、大麦、あわ、黒米、ひえをそれぞれ計量して研ぐ。白米と違い水分量が少ないため、水に充分さらしておく。
水に浸した雑穀は、ほどよく膨らみ、瑞々しい香りを立てる。炊飯釜に移すと、湊は椎茸の戻し汁を加えた。
具材は前の晩から準備しておいた。戻した干し椎茸は厚めにスライス。
甘辛く炊いた油揚げを短冊に切る。次に塩もみしてアクを抜いた蓮根を小さな花型に抜く。
最後に蒸した栗をほぐして加え、彩りに人参も薄切りで散らす。
釜の中で炊かれる五穀米は、香ばしく、甘く、どこか懐かしい香りがした。
ごはんを炊く間に山菜汁に取り掛かる。
山から分けてもらった、こごみとぜんまいは、丁寧に下茹でをする。筍は薄く切って香ばしく焼き目をつける。そして、舞茸は手でほぐし、香りを立てるように乾煎りする。
鍋に張った出汁は、昆布と干し貝柱からじっくり取ったものだ。澄んだ金色のだしに山菜を泳がせ、醤油と味醂をほんの少し。
味の輪郭を引き締めるため、山椒の若芽を指でちぎって散らす。
火を止める直前、香りが一気に立ち上った。春の山が、そのまま中に溶け込んだような匂いだった。
そうこうしている間に、ごはんが炊き上がる。蓋をする前からもう、台所中にたまらない香りが満ちていた。
しゃもじを入れると、もち米のもっちりとした弾力と、雑穀のぷちぷちとした歯ごたえが混ざる音がした。
ほかほかの湯気の中、栗の黄色と人参の朱、黒米の紫が映えて、まるで宝石箱のようだった。
朱塗りの椀に五穀米をよそう。奉書紙を敷いた神事で使う三方に椀を乗せる。
山菜汁を漆塗りの黒椀につぎ、同様に乗せる。
そして湊は懐から、白布に包んだ小さな盃を取り出した。
土の匂いのする素焼きの盃、それは祖父が生前、祭礼のたびに使っていたものだ。
その中に、ひと垂らしの澄んだ酒を注ぎ、神前に捧げる。
その隣に添えるのは、白木の柳箸。祖父の手作りで、湊が子どもの頃、山の桜の枝で削ってくれた物だ。いまでも箸先を砥石で整えて使っている。
湊は膳を整え、神前にそっと差し出した。
「……琥珀。おかわりも、あるぞ」
琥珀はひとつうなずき、ニヤニヤしながら茶化す。
「柳箸か。わらわは手は使わぬが、心はいただいておこうかの」
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おかわりを2回して、神饌を全て平らげると、琥珀は神気をまとって飛び上がった。体が、光に包まれ、九つの尾が花のようにひるがえった。
白銀に輝く、神の姿。
「そちの供物、しかと受け取った! いざ、穢れを祓わん!」
神と人との共闘が、始まる。
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社殿の空を、瘴気が黒く渦巻いた。
空間そのものが歪むような轟音とともに、穢れの核が姿を現す。
黒い粘膜のような塊の中に、ぎらつく無数の眼ーーそれは忘却そのもの。
過去も、絆も、名も、すべてを飲み込む闇が形を成していた。
『祓え……祓え……すべてを忘れよ……』
声とも呻きともつかぬ低音が空間を満たすたび、地を這う瘴気が草木を枯らし、社の柱が腐蝕し始める。
湊は眉をひそめ、額から滴る汗を拭う暇もなく、祝詞を高らかに唱えた。脚をもつれさせながら四方の柱を巡り、結界を描くように札を打ち込んでいく。
一方その上空では、琥珀が疾風のように駆けていた。
尾を翻した瞬間、風が唸りを上げ、白銀の毛並みに焔が走る。
神気が形を取り、狐火が幾重にも炸裂する。まばゆい光が夜空を裂き、穢れの核に迫る。
「吼えろ、忘却の鬼よ――わらわが祓う!」
穢れの核が応じるように、太さ数メートルを超す巨大な触手を何本も生やした。
それは過去に人々が封じたはずの「記憶」の成れの果て。嫉妬、憎悪、後悔ーーそのすべてを含んだ穢れの具現が、獲物を嬲るようにのたうつ。
一撃で精神を崩される。
そう直感した湊が思わず息を呑む中、琥珀は宙を舞った。
九本の尾が一気に展開し、風が咆哮となって触手を引き裂く。
尾の一振りで空気が爆ぜ、次の一瞬には狐火が火焔竜と化して敵の体を焼いた。
「まだまだじゃぞ…!」
瘴気の奔流が社殿をなぎ払い、石灯籠が弾け飛ぶ。土塊が雨のように降り注ぎ、木々は根元から引き千切られ、夜の森が狂乱に包まれた。
それでも湊は立ち上がる。膝を突きながらも札を叩きつけ、次の祝詞を絞り出すように唱えた。
「……道を開け! 神、降り立つこの場に――!」
その声が響いた刹那、穢れの核が爆ぜた。
黒い触手が乱舞し、毒気が奔流となって夜空を飲み込もうとしたーーその中心へ、琥珀は真っ直ぐ飛び込む。
「そちがくれた力、今ここに示す!」
天空を裂く一閃。九本の尾がすべてを広げ、琥珀の全身が銀光に包まれた。
白銀の火花が夜空に散り、空気が音を立てて震える。神格の解放――この世にあってこの世の理を超える、一柱の“神”が完全に目覚めた瞬間だった。
「我が名は琥白火日女命。この地の守り神なり! 穢れよ、今こそ祓われよ!!」
最後の一尾が振るわれた瞬間、天を割るほどの狐火の刃が放たれた。
それはただの炎ではない。湊が差し出した神饌、その想い、その祈りすべてが宿った清めの一撃。
穢れの核は声を上げることすらできなかった。
ただ、全身を引き裂かれ、霧散する。黒い霧は浄化されるように空へと消え、社に静寂が戻った。
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湊が駆け寄ったとき、琥珀の身体はすでに透明になりつつあった。
「……やっぱり、消えちゃうんだな」
涙を浮かべながら湊は琥珀に言う。
「うむ。だが、忘れぬぞ。そちがくれた飯、そちの心ーーわらわにとって、何より尊き供物であった」
淡く微笑みながら、琥珀は顔を上げる。月が雲間から姿を見せ、その光が、彼女の白銀の輪郭を優しく照らした。
「…て言うか、何だよ「こはくびひめ」って。女神様だったのかよ…ジジ臭いからジジィだとばかり思ってたのに…」
湊は琥珀の白銀に光る体毛に顔を埋める。
「うん?なんじゃ?わらわはぴちぴちの乙女じゃぞ」
琥珀がニヤリと笑いながら続ける。
「さよならじゃないぞ、湊。供える心がある限り、神はここに在るーー」
その言葉とともに、琥珀の姿は光に溶けていった。風が吹き抜け、ただひとつ、暖かさだけが残された。
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夜が明けて、湊は縁側で一人、卵を割った。白ごはんの上にとろりと落ちる黄身。醤油をひと垂らし。
「……また、作るからな。次に来たときも、ちゃんと、あったかい飯、出すから」
ひとくち食べると、なぜか涙が出た。だけど、顔は、笑っていた。
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さてさて、これにて一席お開きと相成ります。
狐の神様とまかない人、縁も味も、これにてごちそうさま。
けれど、いつかまた腹の虫が鳴くころにゃ、どこぞで湯気の立つ飯が、ふたりを呼ぶやもしれません。
その時はまた、お立ち寄りを。
それまで、ごゆるりと……。
ここまで読んで頂きありがとうございます!湊と琥珀の物語はいかがだったでしょうか?長編も投稿していますので、お暇があれば是非。
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