前編:狐火と卵焼きと、はじまりの夜
前中後編の3篇で10,000字程度のサクッと読めるお話です。
さてさて、皆様お立ち会い。
これはちょいとばかし山奥にございます、忘れられたお社での小噺。
信仰薄れりゃ神も痩せると申します。しかし、そこにはまだまだ灯火絶えず、ぬくもり残る暮らしもあったとか。
人と神様が一つ屋根の下で、まかない作って、ちょいとばかりのいくさもする。
そんな不思議な縁から始まる物語。
どうぞ、湯気立つ一椀、お召し上がりなさいまし。
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雨の気配が、木々のざわめきに紛れていた。
今夜は冷えるな、と湊はつぶやいて日課である神饌=お供え料理を本殿に献上し、帰路につこうとしていた。
その時神社裏の茂みの奥で、何かの鳴き声が聞こえた。か細くて、切なげで、どこか懐かしい声。
「……ケンッ、ケェン……」
狐?いや、でもこの辺りで見るのは珍しい。子犬かな?
湊は生来の優しさから、捨猫や捨犬などを放っておけない性質だった。
声のした方面に近づいてみると、草陰に、小さな金色の毛玉が丸まっていた。
ネズミ捕りの罠にかかったようだ。前足に食い込んだ傷跡が痛々しい。
「……うちで手当てしよう」
自然とそう口にしていた。抱き上げた子犬の体は、軽くて、熱くて、何か大事なものを預かったような気がした。
社の隣にある自宅に戻ると、湊は手早く湯を沸かし、薬箱を引っ張り出してくる。
野良猫やタヌキの手当てをしたことはあるが、犬の手当ては初めてだった。
ーーまぁ、そんな変わらないだろう
湊は子犬の身体をお湯で拭いて、布で包んで寝かせる。それだけで、自分の心までほっとするから不思議だ。
ーーグゥ…
そう言えば神饌作りの最中に味見したくらいで、夕食はまだだった。少し考えて、湊は台所へ向かった。
「卵がまだ残ってたよな」
そう言って立ち上がり、台所に向かう。
冷蔵庫から卵を三つ取り出す。
買ってから少し時間が経っているが、殻はしっかりしている。掌にぽんぽんと転がして、ボウルにコン、と割る。
黄身が艶やかに揺れて、透明な白身と混ざり合う。
菜箸を持ち、手首のスナップでカシャカシャとリズムよくかき混ぜる。
泡立てすぎないように、空気を抱かせながら…このくらいが、ふわっと仕上がるんだ。
出汁は先にとっておいた。昆布を水から煮出し、鰹でひいた、ちょっと濃いめのやつ。
そこへ薄口醤油をひとたらし、みりんを気持ち多めにする。じいちゃん直伝の分量。それを卵液に混ぜ入れる。
フライパンに米油をひいて、煙が立つ手前で一度火を止める。油をキッチンペーパーでならし、再び中火に戻す。
ーーじゅっ。
おたまひとさじ分の卵液を流し込むと、油が踊るような音を立てた。ふわりと鼻をくすぐる香りが立ちのぼる。
ぷくり、ぷつぷつ、と表面に小さな気泡が浮き、湊は手際よく端から巻いていく。
焼き色はほどほど、でも中はとろっと柔らかく。ひと巻き目が決まると、息をつく暇もなく次の卵液を流す。
ーー巻いて、流して、巻いて、流して。
その間ずっと、湯気の向こうから出汁の香りが湧きあがり、部屋の中をふわりと包んだ。
夜の冷気をやさしく溶かすように、しみじみと温かい匂い。
最後のひと巻きが終わる。きつね色のふっくらした卵焼きをまな板に乗せ、包丁を入れるとじゅわっと中から出汁が染み出す。
断面は層が重なって、まるで小さな地層みたいだ。
手前の一切れを口に運んでみる。
……うん、今日のは、ちょっと甘めだけど悪くない。じいちゃんに作った味に近い。
記憶の味、懐かしい匂い。誰かに食べてもらいたいーーそんな気持ちになる味だった。
子犬が、ぱちりと目を開けたのに気づいたのは、玉子焼きを皿に移し終えた時だった。
「……うまそうなにおい、じゃのう」
「うわっ!!!い、犬が、しゃ、喋った!?」
思わずフライ返しを落としそうになった。
子犬はけだるそうに首をもたげ、どこか誇らしげに尻尾を揺らす。
「ぬ?わらわを犬など下等な物と間違うでない。わらわはかつて、この社に祀られし狐神――名を琥珀と言う」
子犬改め子狐が、フンと鼻を鳴らしてふんぞり返る。
「……神様って……キツネで?」
湊は頭に「?」が沢山浮かびながらも、琥珀と名乗った子狐に質問を返す。
「以前は人の姿にも成れたが、いまはこの通り力も細うなってしもうた。人の信仰、まことにありがたきものよ……ところで、そちの名は何と申す?」
琥珀はしみじみと語ったあと、湊の名前を尋ねる。
「あ、すみません。綾瀬 湊と申します。じいちゃんの跡を継いで、宮司、見習いをやって、いや、やらせて貰っております。まだ高校生なんで」
神様と聞いて、湊は言葉遣いを改めようとするが、不慣れなせいで変な口調になってしまう。
「そんなに畏まらないで構わんぞ、わらわは寛大じゃからな。さて、飯じゃが。そちは料理の才に恵まれておるのぅ」
琥珀の言葉にホッとし、ご飯と問われたことに思い至る。
「え、あ、うん……食べる?」
「うむ。神の務めの前に、まずは腹ごしらえじゃ」
湊は苦笑しながら、卵焼きを切り分けて小皿に盛る。
琥珀はくんくんと香りを嗅ぎ、ひと口食むなり、目から星が溢れるかの様な顔で驚嘆の声を上げる。
「ほおお……これは、天上の味じゃ……っ!」
湊はハハと笑いながら、琥珀の皿に自分の分の玉子焼きも移し替える。
「普通の卵焼きだよ、出汁はちょっと濃いめにしてるけど。そんなに美味しいならこっちも食べていいよ」
琥珀はガツガツと湊の分の玉子焼きまで全て平らげる。
「湯の温もり、塩梅、だしの深み……そち、料理で世を救えるかもしれぬな」
そのとき社の奥、本殿の方から、ごうごうと風を切る音が響いた。
灯籠がゆれ、供え物の餅がひとつ、ぽとりと落ちる。
「なに、風……?」
「……違う」
琥珀の耳がぴんと立った。
その尻尾が、青白く燃えはじめたのを見て、湊は言葉を失う。
「穢れ、じゃ。よどみ、淀み、忘れられし神域に集う禍の気。ここを狙っておるな……!」
社の方を睨みながら警戒を顕にする琥珀に、湊は不安が募る。
「待って、どうするの!?」
「元来であれば祓うのは造作ないことなんじゃが、いかんせんわらわの力は戻りきらぬ。共に行くぞ、湊」
尾の炎がふわりと湊に触れた瞬間、彼の手にひと振りの短刀が現れた。
刃文は波打ち、柄には白鈴が揺れている。肌に馴染む、不思議な神器だった。
琥珀が一歩、社の外へ踏み出す。
「この社は、そちが守ってきた場所じゃ。今度は、わらわと共に、守るときぞ」
湊は短刀を握りしめ、深く息を吸った。
その先にあるのが恐怖か、使命か、まだわからない。でもーー
「……わかった。行こう、琥珀」
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かくして、狐神様と一人の少年――いや、料理人見習いが、ちいさなお社を舞台に、神と妖と腹の虫が交錯する日々を始め申した。
戦あり、飯あり、ちょっぴり涙もご愛嬌。
さてさて、この先何が煮えるやら。
おあとがよろしいようでーー