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偽りの空、本物の眼差し

リクの部屋の天井には、一点の曇りもない青空が広がっていた。AIアシスタント《ケイト》が、彼の好みに合わせて選んだ「軽井沢高原・初夏」の環境シミュレーションだ。涼やかな風が肌を撫で、鳥のさえずりが微かに聞こえる。完璧な快適さ。そして、完璧な偽物。

「リク、まだそんな古いデータ見てるのか?」

壁一面のディスプレイに、友人ナオキの顔が浮かび上がった。彼はアークの最新型ホバーボードにまたがり、背景の景色が目まぐるしく流れている。仮想空間(VR)のレース中なのだろう。

「ああ、少しね。ドーム建設前の渋谷の写真だ。すごい熱気だよ」

リクのディスプレイには、おびただしい数の人々で埋め尽くされたスクランブル交差点の画像が映っていた。統一感のない服装、無数の広告、そして何より、一人ひとりの顔に浮かぶ予測不可能な表情。制御されていない混沌カオスが、そこにはあった。

「うわ、密だなぁ。息苦しくないのか、こんなの。今の第7セクターのほうがずっとクールだって」

ナオキには理解できないらしかった。彼にとって、過去は非効率で不潔な、克服されるべき対象でしかない。リクは曖昧に笑って通話を切ると、再びデータへと意識を戻した。

彼が探しているのは、ただの古い写真ではなかった。アークの公式データベース(DB)の深層、ほとんど誰にも省みられることのない記録の残骸。彼はそこに、時折発生する奇妙な信号ノイズがあることに気づいていた。公式には「過去のデータ破損」とされる、正体不明のパケット通信だ。

リクは自作のプログラムを走らせた。アークの外縁部、かつて「埼玉県」と呼ばれたエリアに紐づけられたネットワーク・バックボーンの残骸をスキャンする。数時間が経過した頃、ついにプログラムがアラートを発した。

[Anomaly Detected: Sector-SAITAMA_04 // Unknown Packet Signature]

心臓が跳ねた。それは、これまでのノイズとは違った。微弱だが、明らかに構造化されたデータ。まるで、誰かが必死に発信しているような…。リクは衝動的に立ち上がった。

「ケイト、外出する。レベル3の防塵コートを用意してくれ」

『承知しました。行き先はどちらですか?』

「…第24区画、環境維持ゲートだ」

ケイトの合成音声が一瞬だけ間を置いた。『警告。第24区画は一般市民の立ち入りが制限されたメンテナンスエリアです。』

「父さんの研究資料の閲覧だ。許可は取ってある」

嘘だった。だが、彼の父はドームの環境システムを設計した主任技師の一人だった。その名前を使えば、低レベルのAIチェックは欺ける。

リニアモーターカーを乗り継ぎ、都心部の洗練された景観が、次第に無機質な工業地帯へと変わっていく。居住区画の終わりを告げるゲートを抜けると、空気が変わった。オゾンの匂いと、巨大な機械が発する低い唸り。完璧に磨かれた白い壁は、傷だらけの分厚い耐熱鋼板に取って代わられていた。ここがアークの「内臓」だ。

目的のメンテナンスゲートは、巨大な壁の最下層にあった。リクは周囲に人気がないことを確認し、持ってきた携帯端末タブレットをコンソールに接続する。父のIDを拝借してセキュリティを突破し、外部監視カメラの映像にアクセスした。

ディスプレイに映し出された光景に、リクは息をのんだ。

陽炎。

全てがオレンジ色に揺らめき、歪んでいる。乾ききってひび割れた大地。錆びついた鉄骨の残骸。そして、遥か遠方に霞んで見える、巨大な**『排熱塔ヒート・スパイヤー』。そこから吹き出す熱風が、世界そのものを歪ませているようだった。これが、教科書でしか見たことのない『関東砂漠』**。

アークの快適さが、この地獄を生み出している。頭では理解していた。だが、目の当たりにした現実は、リクの想像を絶していた。

彼は、信号の発信源と思しき座標へとカメラを向けた。ズーム倍率を最大まで上げる。映像がひどく荒れ、ノイズが走る。だが、その灼熱の風景の中に、動くものがあった。

人だ。

ぼろ布のようなものを全身に巻き付け、何かを探すようにゆっくりと動いている。年の頃は、自分と同じくらいだろうか。性別は…少女だ。

彼女は、巨大な機械の残骸から何か小さな部品を外すと、腰の袋にしまった。その時だった。

不意に、彼女が顔を上げたのだ。

何かに気づいたように。まるで、壁の向こう側から誰かに見られていることを察知したかのように。陽炎とノイズで歪む映像の向こう側で、その瞳がまっすぐにカメラを捉えた。

リクは凍りついた。その眼差しには、ナオキのような呑気さも、アークの住人のような無感情さもなかった。そこにあったのは、生きることへの渇望と、世界への抵抗を宿した、あまりにも強く、本物の光だった。

次の瞬間、映像はノイズの渦に飲まれて途絶えた。

リクは、暗転したディスプレイを呆然と見つめていた。背後では、快適な楽園を維持するための機械が静かに唸りを上げている。だが、彼の心に焼き付いて消えないのは、偽りの空の下では決して見ることのできない、あの灼熱の中の、本物の眼差しだった。

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