シエル誕生
「全てを統べる子が生まれた」というウワサが、まだ曖昧な囁きとして人々の間を巡り始めた頃、武術の国の片隅にある小さな村で、一人の男の子が産声をあげた。
その子の名はシエル。
健やかな泣き声は、世界の喧騒を忘れさせるほどに澄み渡っていた。しかし、母親の腕に抱かれたその小さな体は、世界の運命を背負うことになろうとは、まだ誰も知る由もなかった。
やがて、生後間もないシエルは、古くからの習わしに従い、武術の国の新樹官によって世界樹のもとへ運ばれた。新樹官は、神聖な儀式を執り行うために選ばれた特別な役目を持つ者だ。彼らは、清らかな心と確かな眼力で、子供たちが授かる紋章の色を正確に見極め、その運命を告げる。
シエルが新樹官の腕に抱かれ、世界樹の根元へと掲げられたその瞬間、彼の幼い体に紋章が浮かび上がった。そして、紋章から放たれた光は――。
それは、あまりにも微弱で、捉えどころのない、無色の光だった。
新樹官は、長年の経験から紋章の色を瞬時に判別することに絶対の自信を持っていた。しかし、目の前の光は、これまでに見たどんなギフトの光とも異なっていた。鮮やかな赤でも、深遠な青でもない。それは、まるでそこに「色」が存在しないかのような、あるいは全ての「色」が混ざり合いすぎて「無」に帰したかのような、曖昧な輝きだったのだ。
一瞬の判断が、その子の、そして世界の運命を決定づける。
焦りが、新樹官の冷静さを曇らせた。彼の脳裏をよぎったのは、この得体の知れない「無色の光」を前にして、職務を全うできなかったという汚名と、何より、その「無色」が何を意味するのかという、底知れない恐怖だった。この異質な光をそのまま報告すれば、世界に混乱を招きかねない。
その時、彼の頭に浮かんだのは、最も一般的で、最も力強く、そして最も理解しやすい色だった。
「…赤色っ! 武術のギフトだ!」
彼は、まるで自分を納得させるかのように、あるいは恐怖を振り払うかのように、声を張り上げた。その声は、震えていた。新樹官は、自身がこの一瞬で世界の運命を歪めてしまったことなど知る由もなく、安堵の息を吐いた。そして、武術のギフトを持つ子にのみ授けられるはずの、赤く輝く小ぶりの神具が、シエルの掌にそっと置かれた。
こうして、真の「全てを統べるもの」であるシエルは、その真の紋章を隠されたまま、武術のギフトを持つ子として、その後の運命を歩み始めることになる。そして、彼の誕生を巡るこの一つの誤認が、世界の「化けの皮」を剥がす、最初の引き金となるのだった。