神々が、地上に最後に遺した聖域
次に目を開けた時、最初に感じたのは薬品の匂いと、自分の身体ではないような鈍い痛みだった。見慣れない木目調の天井がぼんやりと見える。
「気がつきましたか」
穏やかで、けれど芯のある女性の声だった。視線を巡らせると、白い光の中に立つ人影があった。逆光で顔はよく見えない。
「……ここは」
「小野寺診療所です。登山道で倒れているあなたを、山小屋の方が運んできてくれました」
小野寺、と名乗った女医は、渉の足に巻かれた包帯を手際よく確認しながら言った。
「左足首の骨折と、全身打撲。肋骨にもヒビが入っています。数日は絶対安静ですよ」
渉は、ぼんやりとした頭で状況を理解しようと努めた。あの後、どうやってここまで来たのか、記憶が途切れている。朦朧とする意識の中、必死で雪の中を這ったような気もする。幻のはずの父の声に、背中を押されるように。
「単独での冬季登山だったそうですね。無謀です」
彼女の声には、非難の色がはっきりと滲んでいた。渉は何も答えず、窓の外に目をやった。ガラス越しに見える雪化粧した山々は、自分がさっきまでいた場所とは思えないほど静かで、美しかった。
数日後、少し動けるようになった渉に、彼女はカルテを書きながら、もう一度静かに問うた。
「教えてください。天沢さん」
彼女――小野寺美緒は、ペンを置き、まっすぐに渉の目を見た。その瞳は、彼が山で見る、どこまでも深い湖の色をしていた。
「どうして、そんな危険なことをしてまで、山に登るんですか? 死ぬかもしれないと、思わなかったんですか?」
それは、これまで幾度となく他人から、そして自分自身に投げかけてきた問いだった。だが、彼女の口から発せられたその言葉は、まるで鋭い氷の破片のように、渉の胸に突き刺さった。
渉は答えられなかった。答えを持たないからではない。その問いの奥にある、純粋な哀しみと怒りのような感情に、どう応えればいいのか分からなかったのだ。黙り込む渉を見て、美緒は小さくため息をつき、部屋を出て行った。
残された渉は、ただ窓の外の、白く輝く頂を睨みつけることしかできなかった。
退院の日、渉は実家に戻った。山岳カメラマンとしての仕事も、しばらくはままならない。手持ち無沙汰に父の書斎に入り、遺された登山関係の書籍を整理していた時、本棚の奥に古びた革張りのノートが隠されているのを見つけた。
それは、父の登山ノートだった。渉の知る限り、父はそうした記録をマメにつけるタイプではなかったはずだ。ページをめくると、そこには見慣れた父の力強い筆跡で、国内外の山々のデータやルート図がびっしりと書き込まれていた。
そして、最後の数十ページ。そこには、一つの山だけが、執拗なまでに詳しく記されていた。
『ヴァルガ・ヒマール Varga Himal 標高7800m』
ヒマラヤ山脈の奥地に眠る、未踏峰。ノートには、手描きのスケッチが何枚も添えられていた。天を突くように鋭利で、神々しいほどに美しい、しかしどこか不吉な気配をまとった山の姿。
そして、最後のページに、こう記されていた。
『神々が、地上に最後に遺した聖域。俺が死ぬ場所は、ここだ』
その一文から、渉は目を離すことができなかった。父の死は、不慮の事故ではなかったというのか。この山が、父を呼んだのか。
なぜ、父はこの山を目指そうとしたのか。
なぜ、死ぬ場所だとまで書いたのか。
答えは、このヴァルガ・ヒマールにある。
渉は、ノートを強く握りしめた。骨折した足首が、ズキリと痛んだ。それは、これから始まる新たな挑戦を祝福するような、あるいは警告するような、確かな痛みだった。美緒の問いが、再び脳裏に響く。
――どうして、山に登るんですか?
「確かめに、行くんだ」
誰に言うでもなく、渉は呟いた。父が追い求めたものの答えを。そして、自分自身が登り続ける、その理由を。
窓の外では、夕陽が北アルプスの稜線を赤く染め上げていた。それはまるで、ヴァルガ・ヒマールへと続く道筋を示しているかのようだった。