第一部:邂逅の岩稜
吐く息が、瞬時に凍りついて霧散する。
天沢渉は、垂直に切り立った岩壁に張り付いていた。指先から伝わる花崗岩の温度は、命を吸い上げるような非情な冷たさだ。眼下の風紋が刻まれた雪面は遥か下。風が稜線を叩く音が、巨大な獣の咆哮のように絶え間なく響いている。
ここは北アルプス、剱岳北方稜線。冬季、しかも単独。常軌を逸している、と人は言うだろう。だが渉にとって、この孤絶した環境こそが、生きていることを実感できる唯一の場所だった。
ピッケルを振りかぶり、狙いを定めた岩の割れ目に刃先を叩き込む。キィン、と硬質な音が鼓膜を揺らす。確かな手応え。全体重を預け、アイゼンの爪を氷混じりのフットホールドに蹴り込んだ。一つ一つの動きに無駄はない。それはまるで、長年繰り返されてきた儀式のようだった。
なぜ登るのか。
自問は、とうにやめた。答えなどないと知っている。ただ、この命綱一本で死と繋がった空間では、余計な思考は削ぎ落とされ、感覚だけが研ぎ澄まされていく。父の死の記憶も、都会の喧騒も、今は届かない。ただ、岩と氷と、己の呼吸があるだけだ。
山頂は、もう指呼の間にあった。雲ひとつない蒼穹が、手を伸ばせば届きそうだった。満足とも違う、空虚に近い静かな感情が胸を満たした、その瞬間だった。
グッ、と右手のピッケルにかけた岩の一部が、予兆なく崩落した。
「――ッ!」
声にならない呼気が漏れる。一瞬の浮遊感。死が、ぬるりとした舌で頬を舐めるのを感じた。世界がスローモーションになる。落下しながら、網膜の裏に焼きついた父の顔が浮かんだ。15年前、雪崩に呑まれる直前の、諦観と、ほんの少しの驚きが混じったあの顔が。
『渉』
幻聴が聞こえた。
『まだ、来るな』
衝撃。全身を砕くような痛みが走り、渉の意識は闇に引きずり込まれた。