そこそこ幸せな私は「ありがとう」って呟いた
昭和50年代の話がメインです。
暴力、虐待などの表現があります。
午後6時。
仕事を終えて古い電チャリを走らせ、ボロい団地に帰り着いた。
「こんばんは」
「あら、今日は遅いね」
「おばあちゃんは元気にしてる?」
私は見知った顔になるべく声を掛けるようにしてる。うざいかも、だけど。だって私の一言で、誰かの何かが変わるかもしれないじゃない?…って…まあ、そんな事は起きないだろうけどね。
住んでいるのは市営住宅の3階。
私の年より築年数の古いこの団地にエレベーターはないのよね。だから、息を上らせながらゆっくりと上っていくしかない。いつまでここに住んでいられるのかな、とは考えてしまうけど。
「そろそろウチで一緒に住もう。今まで苦労して来たんだからさ、少しは息子に甘えなよ」
息子の新太郎はそう言ってくれるけれど、まあ、がんばれるうちは息子の世話にならずにいたい、と思ってる。
それに周りの人にずっと助けてもらってるから、たいして苦労してなかったし。
部屋にたどり着いたら、いつも通り、まず夫のお位牌に手を合わせて「今日も一日見守ってくれてありがとう」とお鈴をちんと鳴らす。それから、テレビを見ながら晩ご飯を食べる。お笑い番組でアハアハと笑い、ささやかな贅沢のビールを飲む。
いつも通りの夜だったのに…。
お笑い番組が終わってニュースになり(お風呂でも沸かしておこう)って立ち上がった時だった。テレビから聞き覚えのある名前が聞こえてきたの。
(…えっ?)
テレビはある男の顔を映していた。年をとって少し面変わりはしていたけれど、間違いない、優一だった。
私は呆然とテレビを見つめた。
「今日昼過ぎ、路上で男に刺された武山ホールディングス会長、武山優一さんが先程搬送された病院で亡くなりました。
武山会長は……」
後の声はよく聞こえなかった。
武山優一が死んだ
その事実だけが頭の中でぐるぐると回る。
幼馴染でも、同級生でも、同僚でもない。
ゆきずりの男。武山優一。
(…死んじゃった…?)
私はふらふらと畳に寝転がって天井を見つめた。
(男に刺されて死んだ、って。
優一のやつ、何やったんだろ…)
まいったな…
そう言って少し狼狽えてる顔が浮かんだ。
***** ***** *****
優一に出会ったのは50年位前の事。その頃、とにかくお金が欲しかった中3の私は、年を誤魔化して 'スナック 灯' っていう飲み屋で皿洗いをしてた。
優一に会ったあの日は冬が来たって感じの日だった。
'スナック 灯' に初めて見る3人連れの客がやって来た。見るからに不良っていう感じの若い男達で、スナックのママ、ハルちゃんがすっと私をカウンターの方に押しやった。
「あら、いらっしゃいませぇ」
返事もせずに3人は入り口近くの席に座った。
「お客さん、何にしましょ?」
「喉乾いたから、ビール3本。ツマミは適当で」
「じゃ、まずはもろきゅうと乾き物ね」
そう言うと、ハルちゃんは有線放送のボリュームを少しだけ上げ、歌手に合わせて鼻歌を歌い始めた。そして、奥に何かを取りに来たみたいな感じで私の所まで来ると私に耳打ちした。
「今日はこのまま帰んなさい。あんな奴らにちかこが絡まれると、面倒だからさ」
「…えっ?」
ハルちゃんは有無を言わせず、私を裏口から押し出した。
私はちょっと困った。だって、同級生の真美が私を迎えにチャリンコでここまで来る事になってたんだもの。
その日は土曜日だったから、どうしても家に帰りたくなくて、真美んちに泊めてくれって頼んでたんだよね。
今の時代ならすぐにLINEで連絡取れるけど、50年前は連絡と言えば公衆電話でね。真美はもう家を出てるはずだし、どの道で来るかもわからない。どうしようもなかった。
だから私はそのまま 'スナック 灯' を出て、待ち合わせ場所の公園のなるべく目立たなそうな所に座って真美を待ってたの。
公園の時計が8時55分を過ぎた頃、真美がやって来るのが見えた。真美も私に気がついて、きぃ〜と油の切れた音をさせながら私の方に手を振った。
「ちかちゃ〜ん!お待たせぇ〜」
真美はそう言いながら公園の中を突っ切って来た。
「真美、早かったね」と私が言うと、真美はニコッとしてチャリンコの荷台を指差した。
「ほれ、乗りな」
真美のチャリンコはかなり古いから、真美がチャリンコを漕ぐとキコキコと大きな音がする。私が荷物を持って座ると「ちかが重いから音が大きくなった」って真美が言い「真美の方が重いからだよぉ」なんて言い合った。
「晩御飯はチャルメラおじさんのラーメンね。卵は1個ずつ入れよう!」って真美が言うから、私は「ソラシ〜ラソ ソラシラソラ〜」って大声で歌った。歌声が公園に響いて、それだけで楽しくって2人でケラケラと笑った。笑ったせいでチャリンコがヨロヨロして、それでまた笑った。
だけど、楽しかったのはそこまでだった。
公園の角を曲がった所でポリ公に出くわしてしまい、お説教を喰らった。「夜も遅いんだし早く帰りなさい」というシメの言葉で解放されるまでちょっと時間が掛かってしまった。
あんなに楽しかった気分はすっかり下がり、しょぼんとしながら2人で歩いてると男が声をかけてきた。
「あんた達、どこ行くの?」
「あれれ?あんたさ、さっきまであそこのスナックにいただろ?灯とかいう安っぽいスナック」
気付いたら私と真美は3人の不良に囲まれていた。
「なんだ。よく見たら、ガキじゃねぇか」
「ガキのくせにあんなスナックで働いてんならさ、もっと金出してやるから、俺らの相手しろよ」
「楽しい事、教えてやるよぉ」
真美の手が震えて、チャリンコが大きな音を立てて倒れた。
「こいつ、可愛い顔して、出るとこは出てるぜ」
「いいケツしてる」そう言いながら、1人が私のお尻をさわった。
「じゃあ、行こう」
私は腕を引っ張られ、真美は別の男に肩を組まれた。
体がこわばった。動けなかった。声も出なかった。
怖い。怖い…。
怖い…怖い…いやだ。
いやだ!誰か助けて!
そんな時だよ。
後ろから大きな声が聞こえて武山優一が現れたんだ。
「やめなよ。嫌がってる」
不良達の顔色が変わった。
「うるせぇよ。お前には関係ないだろ」
「うん、関係ない。
だけど、離してやりな。怖がってる」
ちっ!
不良達が舌打ちをして、拳をにぎりしめた。
私も真美も怖くて震えて突っ立ってるだけだった。
「優一さん!どこにいるのかと思ったら…」
優一の仲間がそう言いながら走って来た時には3人の不良は伸びてた。
「あっ。こいつら…!こいつらですよ!
優一さん、ちと親父に電話してきます。待っててください」
優一は公衆電話に向かって走るその男に「タカシ、頼んだ」と言うと、私と真美の顔を見た。
「怪我はないな。まあ、よかった。歩けるか?」
私は足の力が急に抜けてへなへなと座り込み、真美は泣き出した。
「おいおい、これじゃ俺が泣かせてるみたいじゃないかよ。まいったな…」
優一が狼狽えていると、タカシが小走りで戻って来た。
「ああ〜っ…優一さん!全く、もう!お嬢達を泣かせてどうすんですか?
ほらほら、お嬢達も泣かないで…。
危ないからお嬢達をここから連れ出した方がいいって、親父が言ってます。公園を突っ切ったとこの吉田工務店の前で待ち合わせです」
優一は私と真美を見て「行くぞ、すぐそこだから」って言って先に歩き始めた。でも、私は足がガタガタするし、真美はチャリンコも起こせないほど体が震えてるし…。
タカシが「あ〜ぁ、優一さん。どうしますか?これじゃいつまで経っても吉田工務店には着かねぇと思います」と言うと、優一は振り返って私と真美を見た。
「なんだよ、歩けないのか…?まいったな…。
タカシ、その子のチャリンコと荷物を頼む。
俺はこの2人を引っ張っていく」
タカシは散らばっていた荷物を肩に担ぐと「ほれ、チャリンコかして!」と真美のチャリンコを押して歩き出した。その後ろを優一に腕を引っ張られて私と真美が歩いていく。
後ろから唸り声と負け犬の遠吠えが聞こえた。
「…おぼえてやがれ!」
吉田工務店の前には黒塗りの高級車…ではなくて、ぼろっちい白い車が停まっていて、窓からおじさんが顔を出してこっちを見てた。
「親父!」
タカシが小走りになった。
「親父さん、わざわざすんません」
優一も頭を下げた。
私と真美は優一に腕を引っ張られ、まるでポリ公に引っ立てられている不良少女みたいだった。
「何だよ?娘さんが2人っていうからお姉ちゃんかと思ったら…。ガキじゃねぇかよ。
…まあ、いい。さっさと乗りな。
おい、タカシ。そのチャリンコは吉田さんちの犬走りに置かせてもらっとけ」
ビビりまくっている私は何も言えずに大人しく車に乗り込んだ。少なくとも、優一とタカシは私らには危害を加えない、ってそう感じたから。
…完全に信用したわけじゃなかったけど。
助手席に優一が乗り、後ろに真美、私、タカシ。
「悪いけど、ちょっと詰めてくれるかな?触ったりしねぇから」
タカシがそう言って乗り込み、後ろの席はぎゅうぎゅうになった。
私も真美も何も言えずに俯いていた。
「親父。この子達に手出そうとしてたのは、いつものあいつらですよ。公園から少し行ったとこに例のバイクがありました」
タカシの言葉に親父さんが舌打ちをした。
「くそっ!なめやがって!」
親父さんはゆっくりと車を走らせ始めた。大通りに出てあちこちを曲がり、ぐるぐると辺りを回っている様だった。
走り始めてしばらくすると、優一が振り向いて私と真美を見た。
「お前達、名前は?
A子とB子でもいいんだけど、本当の名前じゃないと咄嗟の時に体が反応しない。だから、名前を教えてくれ」
「…ちかこ」
「ま、真美です」
「よし。名前が言えるくらいには落ち着いたな。
俺は武山優一。そっちに座ってんのがタカシ。運転してんのは '親父さん' だ。
指示があるまで大人しく座ってな」
車は相変わらずぐるぐると辺りを回っていたけど、遠くからバイクのブイブイいう音や音楽みたいな音が聞こえてきて、親父さんが「よぉし、掛かったぞ!」って言った。
(掛かったぞって…暴走族?
こ、この人達…何を?)
今更ながらに心臓がバクつき、落ち着いていた体がまた震え出した。気がついたら真美が私の手を強く握ってた。
しばらくすると、バイクがものすごいスピードで親父さんの車に追い付いてきた。2人乗りしてる後ろの奴が金属バットを振り回し、物凄い形相で何かを叫んでいた。何言ってるのかよくわからなかったけど。
その内バイクの数が増え、車は周りをすっかりと暴走族に取り囲まれていた。親父さんは取り囲まれながらも車を河川敷へと走らせ、暴走族達も爆音を立てながら着いて来た。
優一が後ろを振り返って言った。
「ちかこ、真美。絶対に出てくるな」
「……」
「おい、声を出して返事しろ」
「はい」
「もっともっと大きな声を出せ!ビビってるとヘタ打つぞ!
いいか、俺たちが出たらドアの鍵を閉めて、絶対に出て来るな。分かったか!」
「はいっ」
親父さんが車をとめた。
「よしっ」と優一が気合を入れ、タカシが両手で頬をバシバシと叩いた。親父さんが「行くぞ」と声をかけると3人はゆっくりと車のドアを開けて外に出た。
私は言われた通り車の鍵を閉め、身を屈めて窓の外を見た。
3人ともどこから出したのか、長い鉄パイプを手に持っていた。
ゴツッ…ゴツッ…ゴツッ…
優一が鉄パイプを地面に打ち付けて、暴走族達を挑発した。
結局、10分も経たないうちに暴走族は逃げて行った。何人かは河川敷に置いていかれてよろよろ歩き、何人かは完全に動けなかった。
車に戻ってきた3人は大した怪我はしていなかった。タカシが顔に青たん作ってたけど…。
「面倒な事になる前に行くぞ」
親父さんはそう言うと、河川敷を出てゆっくりと大通りを走った。あの頃は道に監視カメラなんてなかったから、すまして走り続けた。
「ちかこと真美、って言ったか…お前達?
腹減ったろ。馴染んとこで飯にしよう」
親父さんが機嫌良さそうにそう言った。
優一は助手席から振り向いて「今、家まで送ったほうがいいか?そうならすぐに送り届ける」と聞いたけど、私も真美も首を振った。
「…家には帰れない…もしくは帰りたくないってことか…」
そう呟いた優一はしばらく私と真美の顔を見ていたけど、くるっと前を向いた。
「親父さん、こいつらガキだからラーメンがいいですよ。タカシはラーメンと餃子3枚ぐらいいけそうな顔してますし…」
「よし。そうするか。ラーメン屋に行こう」
ぼろっちい白い車はそのまま大通りを走り続け、私達は親父さんに連れられてラーメン屋に行った。親父さんが「おう!」と片手を上げて店の中に入る後ろを優一、私、真美、タカシの順について行った。
「ここのラーメンは絶品だよ」ってタカシは嬉しそうな顔をした。
もう11時を過ぎていた。
ラーメン屋に入ってもずっと俯いている私と真美をみて親父さんが笑った。
「しょぼくれてんなぁ。ガキは飯食って元気出せ!とりあえず、俺はビールとラーメン。あとは好きに食べろ」
(そう言われても…本当に食べていいのか)と思っていると、優一が私達とタカシを見て「お前らはラーメンと餃子な。タカシは餃子3枚で足りるか?」と勝手に注文してしまった。
頭の中に 'なぜ?' という疑問はたくさんあるのだけど、それを口にも出来ない。私はただラーメン屋でちんまりと座ってるだけだった。
しばらくして、素晴らしい香りのするラーメンが目の前に出てきた時(あっ、私、お腹減ってた…)って思った。真美もそうだったらしいけど、本当に食べていいのかなって顔で私をチラリと見た。
「ちかこと真美。ここまで来て今更遠慮しても始まらん。ラーメンが伸びるだけだ。食べるぞ」
そう言って優一がラーメンを啜り始め、タカシも「熱っ!」などと言いながら、がっつき始めた。
私が小さな声で「いただこうよ。お腹減ってるから」って真美に言うと、真美も頷いた。
「遠慮なくいただきます」
親父さんの方を見てそう言い、ラーメンに向かって「いただきます」と手を合わせると、親父さんがびっくりしていた。
「お行儀いいガキだなぁ…。いいとこのお嬢なのかい?」
「親父さん、そんな事よりラーメン伸びますよ」
優一にそう言われて、親父さんもラーメン丼に顔を突っ込む様に食べ始めた。
5人でラーメンを啜っている姿はきっと異様だったと思う。
おそらくヤの字の親父さん。
端正な顔立ち、どこか育ちの良さそうな優一。
チンピラにしか見えないタカシ。
そしてガキ扱いされてる…本当にガキの私と真美。
ふーふー、ずずっ、ずずっ…。
会話もなくラーメンを啜りながら、そういえば今夜はチャルメラおじさんのラーメンに卵を1つ入れて食べるはずだった、と思った。
私が最後の一滴までラーメンスープを飲み切ったのを見た親父さんはすくっと立ち上がり「帰るぞ」と言った。
(えっ?)
そんな私の顔を見た優一が私と真美に聞いた。
「家まで送る。家はどこだ?
もうこれ以上俺達に付き合う必要はない」
(帰るなんてありえない。帰らない。絶対に!)
私は思いっきり首を振った。真美は私を見て泣きそうになってた。
優一はそんな私達を見て「親は?」と聞いた。
私はまた首を振った。
私は真美に「あんたは帰りなよ」って言ったけど、真美は帰らないって言い張った。
「やだ。私は…私はちかと一緒にいる。帰らない!」
帰りたくない!
本当は2人とも真美んちまで送ってもらうだけでよかったのに、私達はただ、ただ、家には帰りたくないって言い続けた。
優一はしばらく眉根を寄せて私達を見ていたけれど、ふうっと息を吐いて親父さんに言った。
「親父さん、こいつら行くとこなさそうです。朝までこのガキを預かってもいいですかね」
結局、私と真美はまた親父さんのぼろっちい白い車に乗り、親父さんちに行く事になった。
親父さんちは普通の家だった。
タカシが玄関の鍵を開けて皆のスリッパを揃え、あちこちの部屋の明かりを点けてまわった。家の中はしーんとして、誰もいなかった。
「ここはタカシが2階に住んでるだけだ。気にせず明日の朝までいて、帰ればいい」
優一がそう言った。
私と真美が椅子に座ってると、タカシが親父さんと優一にお酒を手際よく出した。そして、私と真美には水を入れてくれた。
しばらく、優一とタカシは今日の乱闘騒ぎもなかったかの様に、芸能人の話などをしていたが、ふと時計を見た優一がタカシに言った。
「そろそろ2時じゃないか。寝ていいぞ、タカシ。明日の日曜は仕事なんだろ?」
タカシは頭を掻いて「はい。すんません。先に休ませてもらいます」と素直に2階に上がって行った。
ふと気がつくと…。
グラスの酒を飲み干した親父さんがいびきをかいていて、何故か…真美が親父さんの膝枕で眠ってた。
優一は「2人とも、寝ちまったな」と言ってどこからか毛布を持ってきた。
「優しいんですね。優一さん」
私がそう言うと、優一は自分を指差して「えっ?俺が…か?そんな事言われた事ない。驚くような事言うなよ…まいったな…」と言った。
「親父さんはな、娘さんを亡くしたんだ。丁度、ちかこぐらいの年の時に。だから娘さんの事を思い出して、眠そうな真美にちょっと膝を貸してやったんだろう」
「娘さん、病気で?」
「…いや、自分で…な」
私は何も言えなくて黙ってしまった。優一は椅子に座ってお酒を口に含んだ。
「もう、15-6年ほど前の話だよ。
親父さんはその頃、暴力団の組長でさ、娘さんが反発して…。詳しくは知らないけど、結果として娘さんは自分で…」
「……ふーん、そうなんだ。…つらい話だね。
タカシさんは?息子さんなの?」
「いや…。息子じゃないよ。
まだ小学生のタカシが親父さんの事務所にやって来て『ヤクザになりたいから入れてくれ』って言ったらしい」
「…えっ?」
「ガキは組員にはなれないから帰れと言われても帰らなくて、2日経ってタカシが事務所の入り口で倒れているのを女将さんが見つけて大騒ぎになった。
なんでヤクザになりたいんだって聞いたら『親に毎日殴られるし、食事もろくにくれない。腹が立つから、ヤクザになって仕返ししてやるんだ』と言ったんだそうだ。確かに、タカシは痣だらけで栄養失調だったって」
私は少し体が震えた。
「タカシさん…それでここに?」
「うん。親父さんも女将さんも放っておけなかったんだろうな。娘さんが亡くなった後だったしね。
結局、タカシは親父さんが預かる事になって学校にもちゃんと行ってさ。今は真面目に働いてる。ここの家賃も入れてるって親父さんが言ってた」
「…頑張ってるんだ」
「うん、そうだね。
タカシは親父さんに巡り会えて幸せだと思うよ。なかなか、そんなに上手い話は転がってない。
今では本当の親子みたいだろ?あの2人」
「…女将さんは?今どこにいるの?」
「すぐそこの本宅に親父さんと2人で住んでいて、時々ここに来て掃除したり食事を作ったりしてる。まあ、息子みたいなタカシの顔を見に来てるんだね」
「…じゃあ…今日の暴走族はなんだったの?」
「あいつらはこの辺りで好き放題やってて街の人達もかなり迷惑してる。それに、なぜかあいつらはタカシに目をつけててさ。親父さんのところにいるのが気に入らないのかもな。
今日もタカシと職場の同僚があいつらに因縁つけられたって聞いて、あいつらを探してた。『半端なクソガキが!』って親父さんがやる気満々だったところに、ちかこと真美が絡まれてるのを見つけたんだ」
「…そうか、だからあの騒ぎになったのか。ものすごく、怖かった…」
「明日の朝、もう今日だけど、親父さんがあいつらの上にいる暴力団の頭に話をつけに行く。
本当は暴力じゃなくて解決したかったんだけど…。暴力反対とか言っていながら、こんな手段しかできなかった自分の力不足を感じる。もっと他に手はなかったのかな、って」
「…ふーん……。
でも、優一さんはまだ若造で、力がなくたって当たり前でしょう?」
「…まいったな…」
「ねえ、優一さんはなんでここにいるの?元やくざなの?」
「俺か?俺は…。親父さんに昔…ガキの頃に世話になったんだ。それで、たまに親父さんに会いに来てる。今日もたまたま来てたんだ。」
「もしかして、不良だった?」
「ああ、かなり荒れてた。
喧嘩でボコボコにされて道に転がってた俺を、親父さんが拾ってくれたんだ。2日ほど親父さんちに泊めてもらって、帰る時には『何か話したくなったら、また来いよ』って言って電車賃くれてね」
「親父さんは優しいんだね」
「あぁ。親父さんは荒れてる奴や行き場のない奴の気持ちがわかるんだろう。
俺の家は父親の言う事は絶対で逆らえない。俺の気持ちなんぞ関係なく会話もない。
ガキの頃は居場所もなくてさ」
「ふーん。それで荒れてたんだ」
「まあね。父親は女にも…おっと、ちかこにはまだ早い話だ」
私はちょっと笑った。
「大丈夫だよ。
ウチも真美んちもそんな感じだから。
真美のパパとママはほとんど家にいない。お互いに新しい相手を作って、そっちに入り浸り。真美は毎週お小遣いもらって、それでご飯食べてるの。
じいちゃんばあちゃんに言えればいいんだろうけど、我慢してる。パパとママが怒られるって」
優一は言葉を探すみたいに手に持ったグラスを眺めてた。
「…そうか。真美はそんな親でも…大事に思ってるんだな」
そう言って優一はグラスの中のお酒を飲み干した。
「…で、ちかこは?なぜ帰りたくないんだ?」
「私は…」
優一は空になった自分のグラスに洋酒を注いで、氷をポンと入れた。
「話したくなかったら言わなくていい。
それだけちかこの中で大きな問題だって事だからな。
でも、俺でよかったら…聞くよ…」
優一は私のグラスに水と氷をを入れてくれた。
その時、誰にも話していなかった事を優一に話す気になったのは、なぜだったんだろう?
今でもよくわからない。
優一は私の顔を見てた。
そして、何も言わずに待ってた。
「私の母親は…」
私の母親は17才で私を産んだ。
父親が誰なのか、私は知らない。多分、母親にもわからないんだと思う。
親類とか、じいちゃんばあちゃんの事なんて聞いたこともなかった。
母親は夜の仕事をしていたけど、お金はなかった。住んでるボロアパートは襖で仕切られた6畳と3畳。小さな台所と小さなお風呂がついてたけど、狭くて…。
そんなアパートにはいろんな男が出入りしてた。
「今日は土曜日だったから…。
土曜日に必ず来る男がいて…。そいつが嫌いだから家には帰りたくなかったの」
思い出したら、涙目になってた。
「ちかこ…?
お前、もしかしてお袋さんの相手から何か…?」
そんな事言う優一の顔見てたら、なんだかポロポロと涙が出て止まらなくなった。
「…まいったな…」
優一がものすごく苦しそうな顔をしてそう言った。
「あの男が突然…」
1ヶ月前の土曜日の夜10時過ぎ。
あの男がいつもより早く来た。母親は仕事してる時間だって知ってるのに…。
だから、私の事を狙ってたんだと思う。
あの男、始めは「ちかちゃん、早く来て悪いね」とか言ってテレビを見てた。
私はあの男が嫌いだったから、机に向かって勉強して無視してた。その内、「何の勉強してんの?」とか言って、私のそばに来て…。そして、突然、私を押し倒して、覆い被さって…いきなりスカートを…。
「私は思いっきり抵抗したよ。暴れて、あの男の事、蹴飛ばして。
ちょうどその時に母親が帰って来たの。
助かった、って思った…」
私の様子を見た母親は物凄く怒った。
…あの男にではなくて、私に。
「この…売女!色気づきやがって!」
母親は私に何度もビンタしてそう言った。
だから私は家を飛び出して、真美んちに泊めてもらった。真美んちはその日も両親揃っていなかったから、その事を知ってるのは真美だけ。
赤く晴れた私の顔を見て真美が泣いてた。私は泣いてなかったのに。
家には帰りたくなかったけど、着替えや学校もあるから次の日の夕方に家に帰った。そしたら母親がいて、普通に「おかえり」って言った。
母親は何も言わなかったし、聞かなかった。そのまま仕事に出掛けて行って、いつもの通り夜中に帰って来た。
「そのまま、何も変わらなかったの。
本当に、何もなかったみたいに、何も変わらなかったんだよ…」
優一はグラスの中のお酒を一気に飲んだ。
「私ね、飲み屋でバイトしてお金を貯めてるの。中学卒業したらあんな家、出てやるんだ」
そう言ったら優一が大きく息を吐いて私を見た。
「…なあ、ちかこ。
全部自分でどうにかしようなんて思うな。
お前、まだガキなんだからさ」
私が黙ってると優一はこう言った。
「ちかこが信頼できるって思う大人…いるかい?俺みたいなハンパなんじゃなくて、ちゃんと暮らしてる大人。
そういう人がいるなら、頼れよ。頼っていいんだよ」
「でも…。頼るって…。
ウチの母親がそんなだって、バレちゃう。そんなの恥ずかしい」
「…違うよ。
恥ずかしいのは、ちかこじゃない。ちかこの母親やそんな事を見て見ぬ振りしてる大人なんだ。
だから、ちゃんとした大人、ちかこが頼れる大人に話せ。このままじゃ、ちかこは…」
私はプイッと横を向き、優一から目線を逸らした。
その後、私と優一の間には、なんとも言えない沈黙が続いた。
しばらくして、まだ辺りは暗かったけど親父さんが目を覚まし、真美も起きた。親父さんが大きな伸びをして「ガキは帰れ。このままここには住めないぞ」って笑って言った。
「俺が吉田工務店の前まで送ってきます」って優一が言って私達の荷物を持った。
お世話になった親父さんに頭を下げて家を出る時、親父さんが私と真美に言った。
「昨日の夜の事は誰にも話すなよ。巻き込みたくないからな。
これからどこかで俺達とすれ違っても挨拶はするな。…いいな?」
親父さんは優しい顔してた。
「はい。
お世話になりました」
私と真美がもう一度頭を下げると、親父さんは片手を上げて「じゃぁな」って言って家の奥に入っていった。
それから、私と真美は優一が運転するぼろっちい白い車に乗って吉田工務店の前まで送ってもらった。
車の中では3人とも何も言わなかった。
車が吉田工務店に着いた時、優一が前を向いたままこんな事を言った。
「…ちかこ、真美。お前ら、まだガキなんだよ。
親が好き勝手してるのに、ガキのお前ら2人が苦しい思いや辛い事を我慢してる。お前らが大人のツケを払ってるんだ。お前らが我慢する必要なんてないのに!
俺にもっと力や経験があればいいのになって、俺は今、本当にそう思う。そしたら、何か力になれるのに。
…まだ何もない自分が苦しいよ」
そして、後ろを振り返った。
「俺、頑張るって決めた。ちかこや真美、タカシみたいな辛い思いをする奴が少なくなるように…。自分に出来る事を考える。
いいかい?無理はするなよ。嫌な事や辛い事ははっきりとそう言って、誰かに頼っていいんだからな。
自分を見失うなよ。
…さあ、帰んな」
私と真美を降ろして、ぼろっちい白い車は消えて行った。
私は優一にありがとうも、さようならも言えなかった。私と真美はぼろっちい白い車が角を曲がっても、ずっと吉田工務店の前で立ってた。
それっきり、優一には会っていない。
親父さんもタカシにも。
吉田工務店の犬走りに真美のチャリンコはそのままあった。薄暗い中、二人乗りもしないで私と真美はずっと歩いた。
少しづつ辺りが明るくなって、雀の囀りや鳩の鳴き声が聞こえて朝になった頃、真美んちに着いた。
真美の家には誰もいなかった。
私と真美が夕べここにいなかった…っていうのは、私達だけの秘密になった。
私の暮らしは、しばらくの間、変わらなかった。
母親は何も聞かない。何も言わない。誰にも相談できない。そして、私は土曜日には真美んちにお世話になった。
ところが、もう直ぐクリスマスっていうある日、母親が仕事から帰って来なかったんだ。お正月になっても戻って来なかった。
私は1人でのびのびと暮らしていて楽しかったんだけど、大家さんにバレて、児童相談所の人がウチに来た。
それから、私の暮らしはあっという間に変わった。
母親はどこかに逃げたって、陰でみんなが言ってるのが聞こえた。借金があって、とんずらしたらしい。私は施設に入ることになって、そこから学校に通った。
'スナック 灯' には施設に入る前に施設の人と一緒に挨拶に行った。
ハルちゃんは「ごめんね」ってずっと言ってた。その態度を見て、ハルちゃんは全部わかってたんだって理解した。
「…ずるい大人。優しい顔してさ!」
私は振り返らずに 'スナック 灯' を後にした。
私は施設を出た後、小さな会社で働く事が出来て、そこで知り合った優しい男性にプロポーズされた。彼も早くに親を亡くした人で、自分の早く家族が欲しいんだって言ってた。
結婚する事が少し怖かった私は、自分に起こった事を正直に相手に話したの。でも、その人は笑って「2人なら何があっても乗り越えられるよ」って言ってくれた。
職場の人達がささやかな、でも心のこもったパーティーを開いてくれて、私達は夫婦になった。
本当に幸せに暮らしていたんだよ。男の子も産まれてね。なのに、夫は息子が3歳の時に病気で突然死んでしまった。夫が25才で私は23才だった。
私は1人で子育てをするお母さんになって、私の母親と同じ立場になってしまった。同じ立場になったから、少しは母親の気持ちがわかるのかなって思ったけど…。
ドラマみたいにはならなかった。だって、私の母親の気持ちなんて全然わからなかったんだもの。
苦しい事もあったよ。辛い事もね。
でも、その度に頭の中に言葉が浮かんでいた言葉があった。
「無理はするなよ。嫌な事や辛い事ははっきりそう言って、誰かに頼っていいんだからな。
自分を見失うなよ」
それは、優一が言ってた言葉。
私は優一のその言葉に助けられてたんだ。
だから、私は辛い時、苦しい時には無理しないで、つらい、しんどい、助けて…って素直に言えた。そうしたら、色々な人が手を差し伸べてくれた。
そして、気がついた事があった。
私の母親には、優一みたいな言葉をかけてくれる人がいなかったんだ、ってね。
だからって、母親は好きにはなれないし、許す気もなかったけど。
10年ほど前に警察から連絡があった。私の母親が亡くなったから、遺骨を引き取りに来て欲しいって。
遠くの街の小さなアパートで母親は1人で死んでいたそうだ。詳しい状況などは聞きたくないし、遺品の引き取りは拒否したけど、遺骨だけは引き取った。
私を産んでくれた事には感謝していたから。
生まれていなかったら、私は夫に巡り会えなかったし、新太郎も生まれていないんだもの。産んでくれた、その事だけは感謝していた。
私と母親の事を少しだけ知っている新太郎は「母さん1人じゃ心配だ」って一緒に遺骨を引き取りに行ってくれた。
骨壷をみた新太郎がポツリと言った。
「この遺骨、俺のばあちゃん、ってことか。
骨になっちまってからじゃ、何も話せないね。
母さんの気持ちも伝えらんないし、ばあちゃんの気持ちも聞けない…」
私は新太郎の肩をポンポンとして「でもさ…」って私は言った。
「あの人にとって私を産んだ事は嫌な事だったろうけど、最後に孫に骨を抱いてもらえたんだから、いいんじゃない?
いいんだよ。そう思おうよ。
あの人も、きっと…これで幸せだよ」
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ぼうっと天井を眺めて、昔の事を思い出していたら、突然スマホがなった。今はちょっと離れたところで幸せに暮らしている真美からだった。
真美は中学を出た時に両親の離婚が決まって、じいちゃんの所に引き取られて行ったんだ。
パパもママも私は要らないんだって…!
そんな事を書いた手紙が来たけど、私達にはどうする事も出来なかった。
スマホの向こうで真美が泣いてた。
「武山優一っていう名前の刺された人さ…。大きな会社の会長ってテレビで言ってるけど、あの顔…あの人だよね?」
「…うん」
「刺した奴は誰でもよかったんだとか言ってるらしいよ。
ねぇ、何であんな優しい人を…。
なんでなんだろう?
ねぇ、なんで?」
2人でしばらく泣きながら話をした。
なんで?の答えは私と真美にはわからない。
ただ、悲しくって、悔しかった。
実は、私はずいぶん昔に優一の記事を読んだ事があった。美容院に置いてあった雑誌に優一が載ってたんだよ。
びっくりしたんだけど、その頃の優一は有名な会社の3代目社長になっていて、新しい事業を展開してるって書いてあった。
ひとり親の支援、子供のためのシェルター、子供食堂…。まだ誰もそんな事を考えていなかった頃に、優一はそんな事を始めてた。
インタビューで優一はこんな事を言っていた。
「若かった頃に出会った女の子達がいて、誰にも頼れず、助けてとも言えない姿を見ました。その時、私はまだ若くて、力も考えもなく、ただ苦しい顔をして話を聞くだけだったんです。
辛い思いをしている親と子供を支える活動がしたいと思ったのは、あの女の子達がきっかけです」
きっと私達と出会った後も、優一にはたくさんの「まいったな…」があって、その「まいったな…」をどうにかしたいって真剣に考えて、頑張ったんだね。
…優一。
私も真美も自分は見失わなかったよ。
自分らしく、幸せに生きてる。
優一の言葉に助けられていたんだよ。
私は窓から外を見て、手を合わせた。
そして、あの時、言えなかった言葉を小さく呟いた。
「優一…ありがとう」
「まいったな…」って言ってる優一の顔が浮かんだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。