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第2話:鬼神様

「ほら、さっさと降りて、お義姉様。あたくしが降りられないでしょう」

「ごめんなさいね、今降りるから……っ」

 九条家に着いた菖蒲は、皐月に押され乱暴に辻待ち自動車から降ろされる。眩しいほどの白砂利が敷き詰められた地面に転びそうになるが、どうにか堪えた。皐月は残念そうに言う。

「転べばよかったのに……。顔に傷でもつけば、明臣様もさぞかし離婚に乗り気になったでしょう」

「そういうところだけは動きが素早いな」

「毎日の掃除は手を抜いていたのね。小賢しい」

 転ぶのを耐えただけで、くどくどと小言を言われる。菖蒲は固く唇を結び、静かに黙るしかなかった。家にいるときと同じ居心地の悪さを感じるも、目の前に建つ立派な屋敷を見ると、菖蒲の胸はすぐに感嘆とした気持ちに包まれる。

 ――ここが九条宅……。すごいお屋敷……。

 太い大棟が己の存在を主張するように水平に伸び、黒い瓦の屋根は威風堂々と裾を広げる。広々とした二階建ての屋敷が、菖蒲たちを迎えた。この帝都東京の一等地にこれだけの面積の屋敷が建てられるとは……。九条家の財力を感じるようだった。

 思わず、菖蒲が嘆息を漏らした瞬間を見計るように、玄関がカラカラと開かれ一人の凛とした女中が現れる。黒柿色の落ち着きある着物を着た二十代前半ほどの女性。きっと彼女も鬼なのだろうが、人間とまったく同じ風体だった。

「内薗菖蒲様でございますね。お待ちしておりました」

「いやぁ、遅れてすまんな。菖蒲のグズがとろくてな」

「この子はいつもこうなの。許してね」

「お義姉様はゆっくりするのが好きなのですわ」

 安次郎たちはぞっとするような猫撫で声で話す。彼らの外面の良さは、菖蒲も重々承知している。女中は菖蒲を最初に入れようとしたが、安次郎を先頭に伊織、皐月がずかずかと屋敷に入ってしまった。菖蒲はなるべく存在を消すように、小さく静かに三人の後に続く。歩きながら、未だ顔も知らぬ明臣の心情を思う。いきなり離婚を告げられ、さらに新しい女性との婚姻を勧められるなど、失礼ではなかろうか。ましてや、東北の妖退治という大役を終えたばかりなのに……。菖蒲は明臣の心労を思うと心が痛んだ。

 数分ほど歩き、女中は応接間に四人を案内した。ヴィクトリアン様式を取り入れた、和洋折衷の応接間だ。センスの良いペルシャ絨毯の上には落ち着いた深碧色のソファと、漆塗りのテーブルが置かれ、天井からは非常に珍しい電気の通ったシャンデリアが室内を煌々と照らす。内薗家では石油ランプを使っていたので、九条家の裕福さが実感された。

 こちらでお待ちくださいませ、と女中が出ていくと、さっそく皐月たちが興奮した様子で話す。

「おい、想像以上に立派な屋敷じゃないか。やっぱり、九条家は金持ちだな」

「きっと使い切れないほどお金があるんでしょうね」

「あたくし、一度でいいからこんなお屋敷で暮らしたかったですわぁ」

 下品にまくし立てる三人の隅で、菖蒲は息を殺す。なるべく穏便にこの時間を過ごすために……。

 伊織と皐月が内薗家に来たのは、今から九年前。鬼神様に我が子を嫁がされた心労で死した瑞樹の穴に、ぬるりと滑り込むようにしてやってきた。菖蒲の婚約が決まった後も九条家を訪ねる時間はたっぷりあったが、安次郎たち三人は鬼神様の明臣を怖がり決して近寄らかった。明臣もまた常に妖退治で祓魔局と現場を行き来するような生活を送っており、終ぞこの日まで菖蒲と出会うことはなかったのだ。

「待たせたな」

 深みのある低い声が、菖蒲たちの間を流れる。たった一言で、応接間の空気は変わる。室内にいた誰もが声の主に視線が釘付けとなり、四人は慌ててソファから立ち上がる。菖蒲は強い緊張感を覚え、心臓がヒヤリとするような、体温が何度か下がったような感覚に陥った。満月が降臨したかのような銀髪、紅玉のごとく光り輝く真紅の瞳、一般的な日本男子よりずっと大きく引き締まった体躯を覆うは祓魔局の証である濃藍色の軍服……。鬼畜の権化とも称される恐ろしい噂からは、とうてい信じられないような美貌の紳士が立つ。皐月はすでに心底見惚れて心ここにあらずとなっていたが、菖蒲は恐怖と緊張でどうにかなりそうだった。凍てつく氷を思わせる無表情な瞳は、視線だけで妖をも屠ってしまいそうだ。

 菖蒲や皐月の心情を知ってか知らずか、明臣は何の反応も見せず正面のソファに腰掛ける。

「これはこれは明臣様。お忙しいところを誠にありがとうございます。内薗家当主の安次郎でございます」

「家内の伊織でございます。今日は明臣様にとっても良いお話を持って参りました」

「あたくしは内薗皐月と申します。どうぞよろしくお願いいたしますわ」

 すかさず、安次郎たちはわざとらしい作り笑いを浮かべて応対する。明臣が冷めた目で聞き流すのを、菖蒲だけは気づいていた。

「さてさて、お送りしたお手紙の件でございますが……」

 安次郎は揉み手をしながら本題を切り出す。明臣は先ほどから少しも崩さない冷徹な表情と声音で応える。

「もちろん、手紙についてはすでに読んだ。結論から言う」

 内薗皐月を新しい妻に迎えたい……と言われる瞬間を、当の皐月たちは今か今かと待ちかねる。一方で菖蒲は、一刻も早くこの応接間から出、外の空気を吸いたかった。明臣との婚約が解消されるだろうと、すでに覚悟を決めている。考えなくてもわかる。元より、不適な婚約だったのだ。出涸らしのような自分より、華やかで人目を引く皐月の方が明臣の隣にふさわしいのだから。だだ、明臣の機嫌が損なわれることだけが恐ろしかった。

「内薗菖蒲、私は君を手放すつもりはない」

 明臣は淡々と告げる。その輝く紅玉の瞳に菖蒲だけを捉えながら。そこに皐月たちに向けた厳しい視線はなく、代わりに愛しい存在を愛でるような優しい視線だった。安次郎、伊織、皐月の三人は、動きの悪いからくり人形のように骨を軋ませ首を動かし、菖蒲を見る。出涸らしに過ぎない菖蒲を。今や話題の中心に躍り出た菖蒲もまた、状況がよくわからない。なぜ手放さないと仰るのだ。こんなみすぼらしい私を。混乱し狼狽する菖蒲に、明臣は慈愛の眼差しを注ぐ。

「菖蒲、君はずっと“護符”を送ってくれたね?」

「護符……で、ございますか……」

「君のおかげで、私……いや、私たち祓魔局の局員はみな命を救われたのだ。君がいつも護符を送ってくれたから、私たちは怪我せず任務を遂行できた。菖蒲の異能が、私たちを救ってくれた」

 怪我をし地面に堕ちた小鳥を守るように優しく語る明臣の言葉を聞き、菖蒲は静かに思い出した。

 菖蒲は明臣との婚約が決まってから、“護符”を作っては皐月たちに内緒で明臣宛に送っていた。もっとも、和紙の余りや百貨店の包み紙を使った、厄除けを願う簡易的なものだったが。

 祓魔局の人間は妖と最前線で戦う。異能と異能のぶつかり合いは、当然死傷者も多い。局長を務める明臣は現場主義らしく、常に最前線に立つとも聞いた。

 齢七歳にして実母の死という辛すぎる憂き目に遭った菖蒲は、“死”の存在と恐怖が常人より身近に感じた。顔も知らない、会ったことさえない、鬼畜と噂される恐ろしい婚約者ではあったが、死なれてしまうのは悲しい……。そんな素直な気持ちで護符を作り、買い出しの合間などに祓魔局へ送っていた。それがまさかこのような状況を招くなど、とうてい菖蒲に予想することはできなかった。明臣が菖蒲に向ける優し気な視線を妨碍するように、安次郎と伊織が猿にも負けない喧々たる喚き声を上げる。

「お、お待ちください、明臣様! 何かの間違いでございます! この菖蒲にそんなことはできません!」

「そうですわ! 菖蒲は愚図で愚鈍な小娘なんですから!」

 二人の声を聞き、皐月は勢い良く立ち上がる。明臣の話を全て否定するつもりで、叫ぶ。

「お義姉様の護符に異能などありません! お義姉様は異能を持たない、“不能”の令嬢なのです!」

 皐月は切り札を切った気分だった。

 ――持つ者と持たざる者。

 両者の決定的な違いを見せつけるため、自分の異能について述べるべく口を開いた瞬間。無言の明臣が放つ“殺気”とも言える威圧感に皐月は口を噤み、魂が抜けたようにすとん……と力なく座った。静まり返る応接間の中、明臣は厳として告げる。菖蒲の真実を。

「菖蒲は不能ではない。“異能を弾く異能”を持つのだ」

「「…………えっ」」

 明臣の言葉に、菖蒲も皐月も、安次郎も伊織も揃って疑問の声を出す。菖蒲が異能を持たない“不能”なのは、れっきとした事実だ。太陽が東から昇り西に沈むのと同じように、絶対に覆せない事実のはず……。皐月たちは明臣の勘違いを願うが、その願望は簡単に壊された。

「菖蒲の護符からは、あらゆる異能を弾く強大な力を感じる。護符ですらその威力だ。大方、異能の儀も弾いてしまったのだろう。あの儀式では、“異能を判別する異能”が使われるからな」

「そ、そうだったの、……ですか……。初めて……知りました」

「君の力は測れるようなものではないんだ」

 今度は菖蒲だけが言葉を紡いだ。緊張でカラカラの喉を懸命に動かして。菖蒲は異能について深い知識は持たなかったが、常に異能の傍にいる明臣の言明は真実だと感じられた。皐月たちは黙り込んでしまったが、代わりに憎悪を籠めた視線を菖蒲に送る。それは言葉も使わず彼女に伝えた。自ら離婚を切り出せと。

 菖蒲はぞくぞくとした悪寒を覚えながら、必死の思いで明臣に離婚を告げる。

「お言葉ですが、明臣様……私との…………婚姻関係を解消してください。私は明臣様のような方の妻にふさしくありません」

 皐月たちに睨まれ口にした言葉だったが、菖蒲の本音も混じっていた。誰もが見入る美貌を持つ明臣の隣に、自分がいる想像がまるでつかない。分不相応も甚だしい限りだった。俯き肩を震わす菖蒲に、明臣は慈しみ深い声音で告げる。

「菖蒲、君には最大の敬意を持って接する。ずっとここにいなさい。それとも、この先も内薗家で暮らしたいのかい? 君を虐げるばかりの内薗家で……」

 明臣の包み込むような優しい声を聞き、菖蒲はそっと顔を上げる。鬼畜などという言葉からかけ離れた穏やかな笑顔がそこにはあった。たしかにその瞬間、菖蒲は自分の中の恐怖が消えたのを感じる。

「私とともにここで暮らそう。君がいるべき場所はそこじゃない」

 菖蒲は明臣を見たまま…………こくりと小さく頷いた。怒りに駆られた皐月たちが喚く前に、明臣は鋭く言う。

「凛」

「はい、ご用意しております」

 玄関で菖蒲たちを出迎えた女中が、漆塗りの盆を持ちながら応接間に来る。その上に乗せられた札束に、菖蒲以外の三人は目が釘付けになった。

「一萬円ある。菖蒲の結納金だ。これをもって早く内薗家に帰りなさい」

「おおっ!」

 結納金の一般的な相場の五倍もある大金を見、安次郎は感嘆の声を上げる。だが、伊織と皐月は安次郎ほど喜べなかった。内薗家の正式な本家となる算段が台無しになったのだ。

「凛、外までご案内しなさい」

「かしこまりました」

「「お、お待ちください! まだ、話は……っ!」」

 明臣の有無を言わさぬ声色と、凛の若女とは思えないほどの剛力に急き立てられ、皐月たち三人は九条家を後にした。菖蒲のこれから始まる幸せな生活から排除されるように。

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