第二章:毒女 x 毒女 x 毒女(3)
一枚くらい破っても罰は当たらないのではないかと思っていたクラリスだが、仕方なく最初の一枚に丁寧に署名した。できれば、残りの九十九枚も見てみたいと心のどこかでは思っていた。
やはりユージーンに抜かりがない。
クラリスが署名した結婚誓約書を、ネイサンは護衛兵に手渡す。彼らはほっと安堵の表情を作ると一礼して去って行った。
「では、クラリス様。お部屋に案内いたします」
「ありがとう」
ネイサンはサジェスとアニーに目配せをする。
エントランスを抜け、大広間の奥にある階段をあがって三階へ。南向きに並んでいる部屋の一室がクラリスのために用意した部屋とのこと。
日当たりのいい居間と広い衣装部屋と静かな寝室。
「寝室の扉はユージーン様の寝室とつながっております」
結婚したというのはそういうことのようだ。といっても、クラリスとユージーンの結婚は、一般的なそういうこととはかけ離れているので、きっとあの扉を使うときはないだろう。
「ただいま、お茶の用意をしております。クラリス様はこちらでお休みください。荷物は衣装部屋に運んでおけばよろしいでしょうか?」
「ええ、お願い」
メイがネイサンの後をついていこうとしたところ、ネイサンはくるりと振り返る。
「長旅でお疲れでしょう。クラリス様と一緒に、まずはゆっくりと休んでください。落ち着いた頃、こちらでの仕事についてアニーから説明があります」
そう言い残して、ネイサンは部屋から出ていった。
パタンと扉がしまったのを見届けてから、メイが口を開く。
「……ふぅ。緊張しました」
「ええ、わたくしもよ。あれは歓迎されていると考えてもいいのかしら?」
毒女と噂されているクラリスを辺境伯夫人と迎えることを受け入れてくれるのだろうか。
「そうですね。敵意は感じませんでした。ただ、クラリス様がどのような人物であるかを探っているかのように思えます」
「そうね。できるだけ彼らとよい関係が築けるように、努力するわ」
「はい。私もこちらの仕事に慣れるように頑張りますね」
心からメイがいてよかったと、クラリスは思っていた。
そこで扉が叩かれ、アニーがティーワゴンを押しながら部屋へと入ってきた。
「ありがとう、アニー。ちょうど喉が渇いていたところです」
とんでもございません、とでも言うかのようにアニーは微笑み、カップを並べた。
「わたくし、生まれてから一度も王都から出たことがなかったのですが。ここはとても穏やかで素敵なところですね」
「ありがとうございます。奥様からそう言っていただけると、嬉しいですね」
クラリスとしては『奥様』と呼ばれるのが、まだどこかくすぐったい。
「アニーにお願いしていいのかどうかわからないのだけれど。後で温室を案内していただきたいのです。早速、植えたいものがあって……」
「奥様は花がお好きだとうかがっております。温室については、ネイサンが案内すると思いますので、伝えておきます」
「ありがとう。楽しみにしておりますね」
「まずはゆっくりとおくつろぎください。何かありましたら、そちらの呼び鈴でお呼びください」
アニーが部屋から出ていったのを見届けてから、クラリスは首元からぶら下げていた小瓶を取り出した。服の内側にしまい込んでいたから、誰も気がついていないだろう。その小瓶の中身をカップの中に二、三滴垂らす。
「……ふぅ。やっと落ち着いたわ」
お茶を二口飲んだところで、安堵の息をつく。
「クラリス様、お体のほうは大丈夫ですか?」
「ええ。移動中もなんとか、これを飲んでいたから大丈夫よ」
クラリスは首からぶら下げた小瓶をメイに見せつける。
「安心いたしました」
「でも、そういえばユージーン様はご存知なのかしら?」
「何が、ですか?」
「わたくしの体質のことよ」
アルバートは、どこまでクラリスのことをユージーンに伝えているのだろうか。
「縁談をとりもったのが殿下ですから、ある程度のことはお伝えしているのではないでしょうか」
「そうよね。結婚した相手が、毎日、毒を飲んでいたら驚くものね」
「それを知っていて、この結婚を受け入れてくれたのですよ」
「わたくしも、てっきり知っているものと思っていたから、特に手紙には書かなかったのだけれども」
クラリスは毎日、毒を飲まなければならない体質である。その特異体質を生かして、表向きは薬師として王城に勤めていた。解毒薬を作ったり、毒薬を作ったり。他にも薬と呼ばれるものであれば、痺れ薬やら興奮剤やらなんやら作る。もちろん、体調を整える薬も作れるので、解熱剤やら栄養剤やらも作る。作った薬は王城でしっかりと管理している。
「クラリス様。持ってきているお薬は、足りておりますか?」
メイはクラリスが飲む毒を『薬』と言う。さすがに、他の人がいる前で堂々と『毒を飲む』とは言えないし、クラリスが定期的に毒を飲まなければならない体質であるのを知っているのも、クラリスに近しい人間のみ。
ベネノ侯爵邸で働いていた使用人だって、全員は知らないはずだ。それだけクラリスの体質は、公にできないもの。
お茶を飲んで一息ついたところで、クラリスは温室に向かいたくてうずうずし始めた。
「クラリス様。もう少し休まれては?」
メイは心配そうに声をかけてきたが、クラリスとしては十分に休んだつもりである。それに、定期的に摂取しなければならない毒も飲んだので、ここに着いたばかりのときよりも、身体はだいぶ楽になった。
呼び鈴でアニーを呼びつけ、温室に行きたいと伝える。メイは荷物の整理をするから、いろいろと教えてやってくれないかと声をかければ、アニーは快く引き受けてくれた。
温室を案内するためにネイサンがやってきた。側近という立場にいる彼は、公私ともにユージーンを支える存在のようだ。
「ネイサン様は……」
温室へと案内されている途中、外に出たところでクラリスはネイサンに声をかけた。
「どうか僕のことはネイサンとお呼びください、奥様」
「ネイサンは、アルバート殿下の婚約披露パーティーに出席されていましたよね?」
クラリスが微笑めば、ネイサンは面食らった様子を見せる。
「覚えていらっしゃったのですか? 僕は長居したわけでもありませんし、殿下とは形式的な挨拶をしただけです。ユージーン様の代理としての出席でしたので」
「はい。わたくし、殿下がお会いした方は、全員、覚えているのです」
それもクラリスの特技の一つである。アルバートの腰巾着と呼ばれるくらいひっついていたから、彼が誰かと会うときも必ず側にいた。そしてその人物の顔を覚え、アルバートの敵か味方かを把握する。
「あのときは、見苦しいものをお見せして申し訳ありませんでした」
クラリスの言葉にネイサンは目を丸くした。