第五章:仮初め x 夫婦(1)
慰労パーティーが近くにあるというのに、クラリスはなぜかユージーンと裏の森を散策していた。
「パーティーの準備はジョナサンに任せておけばいい」
それがユージーンの言葉で、城館では使用人たちがあれよあれよと準備に追われている。
クラリスも慌てて何か手伝いをしたほうがいいのではと言ったのだが、主人が近くにいれば、使用人たちもいらぬ気を遣うとのことで外に出た。その結果、ユージーンと裏の森の散策である。
「数日後にパーティーなのに、本当に準備は間に合うのでしょうか?」
パーティーと言えばおもてなしの場である。
何日も前から食事をどうするか、ああだこうだと儀典長と打ち合わせをするアルバートの姿を目にしたこともある。そういうときも、クラリスはつかず離れずの場所で彼を見守っていたのだ。
「ああ、何も心配ない。いつものことで彼らも慣れている。それに、王城で開かれるようなお堅いパーティーとは違うからな」
前を歩くユージーンは、振り返りもせずにそう言った。
王城とは違う。この一言がすべてなのだろう。
「クラリス。ここは少しぬかるんでいる。足元が汚れる」
昨夜、少しだけ雨が降った。それでも朝にはすっかりと土は乾いていたから、温室まで行ったときには気にならなかった。だけど、この薄暗い森ではすぐには水も乾かないのだろう。さらに、そこだけ雨水の通り道になっていたにちがいない。
ユージーンはぬかるんでいる場所を大きくまたいだ。その後、すぐに振り返り、クラリスの腰を両手でしっかりと掴む。
クラリスの身体はふわっと浮き、いつの間にか地面に足をつけていた。
何が起こったのか。ユージーンがクラリスを抱き上げたのだ。そしてそのぬかるみに足をとられないようにと、少し離れた場所におろした。
「あ、ありがとうございます」
「汚れていないか?」
「大丈夫です。ですが、一言、声をかけてくださると助かるのですが」
「なぜ?」
ユージーンは真顔で見下ろしてくる。しかも、距離が近い。
「お。驚いたからです」
突然の出来事すぎて、心の準備もできていなかった。不意に身体を持ち上げられ、気がついたらユージーンの近くにおろされていた。
「そうか、驚かせてすまなかった」
「い、いえ……」
なぜかクラリスの顔が熱くなった。きっと顔も赤くなっているにちがいない。だけど、太陽の光が弱いこの場所では、ユージーンは気づかないだろう。
「いつもは森で何をしているんだ?」
先に進みながらユージーンは尋ねてくる。
「そうですね。植物や虫の採取です」
ユージーンからの返事はなかったが、なぜかくつくつと笑い声が聞こえた。
「何がそんなに面白いのです?」
真面目に答えたのに、それを笑われたら誰だって面白くはないだろう。
「ああ、すまない。やはり君らしいと、そう微笑ましく思っただけだ」
そう言われても、やはり面白いものでもない。それでも、クラリスの気持ちを跳ねさせたのは、木にくっついている毒虫を見つけたからだ。
「あ」
毒をもつ蜘蛛。この蜘蛛はなかなかお目にかかれない。
「旦那様、申し訳ありません。虫を捕まえます」
ユージーンがずんずんと先に進んでしまわないように、声をかけた。すると彼は振り返り、クラリスの様子を黙って見守る。
クラリスは、木の枝に巣をつくりその真ん中にいた毒蜘蛛をささっと手で捕まえて瓶に閉じ込めた。その一連の動作に躊躇いはなく、あっけないものだった。
「もう、終わりか?」
おもわずユージーンもそう呟いてしまうほど。
「はい。毒蜘蛛を捕まえましたから。毒蜘蛛は牙で噛んで毒を注入してくるのですが、なかなか王都ではお目にかかることができず」
そもそも、王都は危険生物が少ない。ゼロではないが、一か月に一人、二人、危険生物に噛まれた、刺されたとそういった頻度である。王都とウォルター領の人口比を考えれば、ウォルター領では一年に一人、二人いるかいないかのものになるだろう。
「まあ、俺だって毒蜘蛛は見ないな。ここくらいにしかいないだろう」
「むしろ、この場所が居心地よいから、他にはいかないのでしょうね」
毒蜘蛛だって、その場所に餌が豊富にあるならば、わざわざ他の場所にはいかないだろう。餌がなくなるから、場所を移動するのだ。
「なるほど。そう考えたことはなかったな。危険生物にとって、この森は居心地がいいということなんだな」
「そうですね。むしろ、ここで生活をしてくれるのであれば、わたくしたちの生活領域に姿も現さないと思います。たまに、何かの拍子でこちら側に紛れ込んでくる子もいますけれど」
それは、クラリスがウォルター領に来た日に出会った毒蛇のこと。
「君の考えは面白いな」
ユージーンは、やはり笑っていた。
「君の必要なものは、採取できたか?」
「そうですね。毒植物の成長具合も確認できましたし、今日は毒蜘蛛(この子)も捕まえられたので、有意義な時間でした」
「君にそう言ってもらえて嬉しいよ。では、戻ろうか」
「欲を言えば、もっと奥まで進んでみたいのですが」
クラリスは少しだけもじもじと恥ずかしそうに身体をくねらせながら、上目遣いで尋ねた。
「うん。それはダメだ。これ以上は危険だし、日の高いうちに森から出たいからね」
「旦那様のケチ」
「なんと言われようと、ダメなものはダメ。そういう顔をしてもダメ」
それでもクラリスはじぃっとユージーンを見つめる。
ユージーンはすかさずクラリスに顔を寄せ、唇を合わせた。
「……んっ」
思ってもいなかった行為に、クラリスは一歩退いた。すると逃がさないとばかりに、ユージーンが腰に手をまわしてくる。
ぽとっと、手にしていた毒蜘蛛入りの瓶が地面に落ちた。蓋が開いて逃げたら大変だと思い、慌てて視線だけ瓶に向ける。
そんなクラリスの行為もお見通しだったのだろう。すぐに両手で頬を包んできて、よそ見をさせまいとする。
「んっ、……ふぅ……っ」
苦しさから逃れるために息をしようとすれば、鼻から抜けるような甘い声が漏れる。身体の奥が火照りだし、足の力が抜けそうになったところで、やっと彼の唇から解放された。
ごしごしと袖で唇を拭き、落ちた毒蜘蛛を拾って大事に抱える。
「な、何をなさるんですか!」
「何って口づけだろう? 夫が妻に口づけて何が悪い?」
「こんな場所で不謹慎です。誰かに見られたらどうするのですか」
「何も問題ないだろう? それに、森には入らないようにと、みなには厳しく言っているからな。ここには俺と君しかいない」
「いるじゃないですか。ここに、この子が」
クラリスは瓶を掲げて、ユージーンに毒蜘蛛を見せつけた。
するとユージーンは顔を背けて、くくっと笑い出す。手を伸ばし、クラリスの頭をなでながら「悪かった」と言う。
「絶対に悪いって思っていませんよね?」
頬を膨らませながらそう尋ねるが、ユージーンは「悪かった」としか口にしない。
「これ以上、君に嫌われても困るからな」
「あら? 嫌われているという自覚はあるのですか?」
「ないな。今のは言葉の駆け引きみたいなものだろう? それに君は、俺のことを嫌っていない」
事実なだけに少し悔しい。
クラリスはぷいっと顔を背けてから来た道を戻り始める。
「あ、おい。クラリス。先に行くな」
慌ててユージーンが追いかけてきて、クラリスを追い抜かそうと獣道からはずれた場所に足を踏み入れる。




