第一章:結婚 x 結婚(1)
ホラン国の東側に位置するウォルター領。ここは国境の要でもあり、石造りのフラミル城が街並みを見下ろすかのようにして建っている。フラミルとは初代城主の名であり、そのまま城の名前として定着していた。
国境の城塞が守るのは、周辺諸国からの襲撃だけではない。魔獣と呼ばれる人を襲う獣から、人々の命と生活を守っており、その魔獣がホラン国内に入り込まないようにと見張っているのだ。
魔獣はただの獣とは異なる。口から火や水を吐き出したり、鋭い爪で人を襲ったり、見境なく人や家畜を食べたりと、とにかく人々の生活を脅かす存在である。
石造りの城塞は、見た目がごつごとしていて厳つい城であるため、見慣れぬ者は近づきがたい。だが、内装は他の地の城館と同じように、それなりに華やかである。それはこの城館で働く使用人たちの仕事ぶりが丁寧だからだろう。
三階にある執務室は、毛の短いワイン色の絨毯が敷かれ、化粧漆喰の壁には飾り気がない。少しだけ開けた窓から心地よい風が入り込み、カーテンを揺らす。
ウォルター領の領主でもありフラミル城の城主でもあるユージーンは、一通の手紙に目を通すと、黒髪の間に指を入れるようにして頭を抱えた。
「ユージーン様、どのような内容で?」
この手紙を持ってきたのは、側近のネイサンである。王家の押印で封印されていたため、彼は慌ててこの手紙をユージーンのもとへと届けたのだ。
「縁談の話だ。お前も読んでみろ」
読み終えた手紙を、机の向こう側に立つネイサンのほうへ、つつっと滑らせる。
「僕が読んでもよろしいのですか?」
ネイサンはぐりぐりっと目を大きくして、机の上の手紙を見下ろす。
「むしろ、お前の意見を聞きたい」
ユージーンの言葉に「承知しました」と答えてから、ネイサンは手紙を手にした。文字を追う彼の顔は、次第に険しくなっていく。
「どう思う?」
鉄紺の瞳を鋭くしたユージーンは、ネイサンの様子を見守った。
そんなネイサンはしばらく考え込み、手紙を見つめたまま問いかけにも答えない。
バン! といきなり手にしていた手紙を机の上にたたき付けた。
「これは……国王陛下からの命令じゃないですか」
ネイサンが指で示したのは「命ずる」の一文と、国王のサイン。
「そのようだな」
そのくらい、ユージーンだって手紙を読んだ時点で把握している。
「断れるわけないじゃないですか。しかも相手が、よりによってベネノ侯爵令嬢とは……」
ネイサンが熱くなれば熱くなるたびに、ユージーンは冷静になれる。
「彼女を知っているのか?」
「知っているも何も……。彼女は、社交界の毒女として有名ですよ?」
有名と言われても、社交の場からめっきりと遠くなったユージーンにしてみれば、初耳である。
――断れない縁談。
――その相手が社交界の毒女。
となれば、この縁談に何かしらの意図を感じる。
「この毒女……ではなく、クラリス嬢ですが。アルバート王太子殿下の腰巾着としても有名でしたからね」
アルバートの名が出たところで、ユージーンは無意識に口の端をひくっと動かした。
「アルバートの腰巾着、だと?」
「ええ、これも有名な話ですよ。社交の場では必ずアルバート王太子殿下の側に張り付いていて、殿下が料理を褒めて口にしようとすると、脇からそれを奪い取るって。まぁ、僕もそんな話は噂だと思っていたんですけどね」
今どき、そのような下品な令嬢がいるのだろうか。アルバートとクラリスの仲をよく思っていない者が流した中傷ではないのだろうか。
「先日、アルバート王太子殿下の婚約披露パーティーがありましたよね? ユージーン様は欠席されましたが」
もちろん、ユージーンにも招待状は届いていた。アルバートとは昔から犬猿の仲であり竹馬の友のような関係であるため、出席しようとしていた。
しかしそれが叶わなかったのは、ここから南にある街に魔獣が紛れ込んだという知らせを受けたからだ。
ユージーンは辺境周辺を始め、国やら民を魔獣から守る魔獣討伐団を率いており、その団長でもある。魔獣討伐団は騎士団とは独立した組織であるが、討伐団だけで対応が不可と判断された場合は、騎士団へ応援を頼むこともあるという関係だ。その逆もまた然り。
ただ基本的には魔獣討伐には魔獣討伐団が派遣される。
騎士団が人から人を守るのであれば、魔獣討伐団は魔獣から人を守る。そのため、魔獣に襲われた人や街があれば、すぐさま向かわなければならない。
だからユージーンは、アルバートの婚約披露パーティーの出席を急遽断り、魔獣討伐へと向かった。
代わりにネイサンへパーティーへの出席を頼み、適当な贈り物を用意するようにと伝えていた。
「その婚約披露パーティーで、あの毒女……ではなく、クラリス嬢がやらかしたのですよ」
ネイサンは憤っているのか楽しんでいるのかよくわからないような微妙な笑みを浮かべている。
「殿下が婚約者の方とダンスを終えたとき、毒女が婚約者に飲み物をぶちまけたのです」
とうとうネイサンは、毒女をクラリス嬢と言い直すのをやめた。
「よっぽど悔しかったんでしょうね。毒女は、自分がアルバート殿下の婚約者に選ばれると、そう思っていたにちがいありません。なにしろずっとくっつきまわっていましたからね。周囲の者も、そうなるだろうと思っていた節はあったみたいですし」
それでもアルバートの婚約者となったのはジェスト公爵令嬢のハリエッタである。身分的にも釣り合いがとれているし、婚約発表の前から二人の仲睦まじい様子は噂になっていた。そういった話はユージーンの耳にも届いていたのに、毒女ことクラリスの話はまったく知らなかった。
「婚約者のドレスは汚れ、殿下は婚約者を連れて退席なさいました。そのあとの毒女が見物だったんですよ」
ネイサンはくつくつと笑いを堪えている。よっぽど面白かったにちがいない。今でも思いだし笑いをするくらいなのだから。
「殿下たちが飲むはずだった飲み物を手にして、口に合わない酒を誰が用意したんだって、周囲を威圧してましてね。ああ、なるほど。毒女と言われるのも納得、という感じでした」
「そうか……」
ネイサンの話を黙って聞いていたユージーンであるが、その女性と結婚しろと国王は命じてきたのだ。
アルバートの腰巾着であった毒女。となれば、アルバートが一枚かんでいるにちがいない。いや、絶対にかんでいる。
「ネイサン、この縁談……」
できれば断りたい。むしろ、向こうから断ってくれないだろうか。
「断れるわけないですよね。国王陛下からの命令ですからね。ですが、毒女がものすごく嫌がって、死んでやるとかそんなことまで言って騒いだら別かもしれません。っていうか、あの女ならそこまでやりそうですけど」
残念ながらユージーンは毒女であるクラリスと顔を合わせたことがない。アルバートの腰巾着と言われるようになったのも、最近なのだろう。
だからネイサンが先ほどから力説している内容に同意できないのだ。どこか一歩引いて、冷静にそれを聞いていられる。
「俺からクラリス嬢に手紙を書いてもいいだろうか」
「いいんじゃないですかね? 二人の仲を深めるためにもって、毒女を辺境伯夫人として迎え入れるつもりですか?」