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プロローグ

 採光用の窓から降り注ぐ太陽の光が、モスグリーンの壁紙の蔦模様を際立たせる。

 クラリス・ベネノは紫紺の目を大きく見開いて、前にいる男性を真っ正面から見つめた。


「クラリス。君の行為には目にあまるものがある」


 男の低い声は、胸の奥にずんと響く。クラリスはひゅっと息を呑みつつも、彼の鋭い目から視線を逸らさない。

 突然、彼から呼び出されたクラリスは、急いで身支度を整えてここへとやってきたのだ。


「殿下……何をおっしゃって……?」


 クラリスの言葉に、男はこれ見よがしに肩を上下させるほどのため息をつき、顔を横に振る。


「心当たりがないとでも?」


 突き刺さるような声だ。それに怯むことなく、クラリスは口を開く。


「ありません。わたくしが何をしたとおっしゃるのでしょう?」


 クラリスが首を横に振ると、空色の髪がぱさりと肩から落ちた。それでも目の前にいる男――アルバート・ヒューゴ・ホランを睨みつける。彼は、このホラン国の王太子である。

 耳まで隠れるさらりとした銀白色の髪、力強い紅玉の瞳、すっきりとした鼻筋に艶やかな唇と、老若男女を虜にする美貌の持ち主であり、人格者としてもその名が知られていた。


「クラリス様……」


 クラリスの名を呼んだのは、アルバートの隣に座っているハリエッタ・ジェスト。彼女はジェスト公爵家の令嬢で、アルバートの婚約者でもある。やわらかな翡翠色の瞳は慈愛に満ちており、金色の髪は豊かに波打っている。穏やかな性格のハリエッタは、社交界でも人気が高い。王太子アルバートの隣に並ぶ女性として、もっともふさわしい。


「クラリス。君は、あのパーティーでわざとハリエッタにぶつかって、彼女が手にしていた飲み物をこぼしたよね? そのせいでハリエッタのドレスは汚れ、退席せざるを得なかった」


 アルバートの目はめらめらと怒りに満ちていて、まるで炎が宿っているように見える。


「それは……」


 事実である。否定もできないし、反論のしようもない。それも、二日前の二人の婚約披露パーティーでの出来事だ。


 ダンスを終えたアルバートとハリエッタは、給仕から飲み物を受け取った。クラリスはそこを狙って、ハリエッタにドンと体当たりした。よろけたとかつまずいたとか、そんな可愛らしいものではない。

 ハリエッタの手からはするっとグラスが落ちて中身がこぼれ、ドレスに大きく染みを作った。数滴跳ねたというものではなく、ビシャッと音が聞こえ、周囲の視線を集めてしまうほどであった。


 クラリスは間違いなくその場の邪魔をした。むしろ意図的に邪魔をした。

 アルバートは、すぐさまハリエッタをエスコートして退席する。残されたクラリスは、近くにいた給仕からグラスを受け取り、それを一気に飲み干してから周囲を見回した。


『このような下品な飲み物を準備したのは、どなたかしら? わたくしの口には合わないわ』


 安っぽい酒だとでも言うかのように威圧する。こそこそとクラリスを揶揄する声が聞こえてきた。もう一度会場内を大きく見回したクラリスは、カツンカツンとヒール音を響かせ、その場から立ち去ったのだ。


 しかし、今振り返ってみても、確かにあれは失敗だった。誰が見てもどこからどう見ても、悪いのはクラリスである。


「……それに、クラリス」


 アルバートは、まだまだクラリスに咎があるような言い方をする。


「君は私の側にいすぎなんだよ。私の隣にはもう、ハリエッタという女性がいる。立場をわきまえてほしい」


 クラリスはぎゅっと唇を噛みしめる。


 アルバートはハリエッタと婚約した。つまり、近い将来、二人は夫婦となる。

 だけど、ハリエッタという女性が現れるまで、アルバートの一番近くにいた異性はクラリスであった。いや、これからも二番目として側にいるつもりだった。


 ハリエッタはクラリスよりも一つ年下で、彼女と結婚を考えているとアルバートから紹介されたときには、脳天に雷が落ちたのではないかというくらい、衝撃が走った。


 しかしクラリスだってベネノ侯爵家の娘。父親は王立騎士団の近衛騎士隊の隊長を務めている。だから、アルバートの側にいてもおかしくはない身分を持ち合わせている。


「わたくしは、殿下のことを思って……」


 誰よりもアルバートのことを考えてきた。その気持ちが彼に伝わっていると思っていた。


「そういった気持ちが迷惑なんだ。いい加減、自分の立場をわかってくれないか?」


 言い方はやさしいが、その視線はひどく冷たい。


「アル様。クラリス様も素敵な殿方と出会えたら、きっと考えを改めてくださると思いますわ」


 口元を扇で隠しながら、ハリエッタがそう言った。


「つまり、クラリスに結婚をしてもらえばいいと?」

「……嫌です」


 クラリスは、ハリエッタが答えるより先に言葉を奪った。


「結婚だなんて、わたくし……。結婚は足枷にしかなりません」


 力強く両手を握りしめる。怒りでおかしくなりそうだった。


「クラリス様。これはクラリス様のことを思ってのことなのですよ?」


 ハリエッタの声色もやわらかい。それでも目つきは針のように鋭い。


「ですが……わたくしが嫁いだらベネノ侯爵家は……」

「デリックがいるだろう?」


 デリックとはクラリスの四つ年下の弟である。今年で十七歳になった。


「あれだってもう一人前だ。いつまでもクラリスが出しゃばる必要はない」

「……そうですが」


 それでもデリックは弟なのだ。いくつになっても弟は弟。


「君だって、もう二十歳を過ぎた。婚約者の一人くらい、いたっておかしくはない年頃だろう?」


 それはずっとアルバートの側にいたからだ。今までもこれからも、彼の側にいられると思っていた。必要にしてくれると信じていた。


「アル様。私、クラリス様にお似合いの殿方を知っておりますの」


 二人は口元を扇で隠しながらも、見せつけるかのようにしてささやき合っている。残念ながらその声は、クラリスの耳には届かない。


「なるほど、それはいい。さすが私のハリエッタだ」

「アル様にお褒めいただき、光栄ですわ」


 クラリスは悔しくて、奥歯を噛みしめた。目頭が熱い。

 十歳になったときからアルバートの側にいてずっと彼を支えてきたというのに、ここにきて放り出されるとは思ってもいなかった。


「殿下、御慈悲を……」


 先日のハリエッタのドレスに飲み物をかけてしまった行為は、やりすぎたかもしれない。だけどあのときは、それしか方法が思い浮かばなかったのだ。


 今となって、あれは浅はかな行為であったと自覚する。もっとやりようがあっただろう。今では後悔しかない。


「だから慈悲を与えるのだよ。君は、ウォルター辺境伯のユージーンと結婚したまえ。この件は父にも伝える。もちろん、君の父親にもね」


 アルバートの父親となれば国王である。そうなれば、国王からの命令となる可能性がある。


「殿下。殿下はわたくしがいなくてもいいと、そうおっしゃるのですか?」

「そうではない。君には感謝をしているよ。だからこそ、君にも幸せになってもらいたいと、私もハリエッタもそう思っている」


 そんなのは言いようだ。邪魔だから結婚しろと言うよりは、幸せになってもらいたいから結婚しろと言ったほうが、周囲に与える印象はよい。


 だけど、結婚の先に幸せがあるかどうかは、人によって異なる。少なくともクラリスは幸せだとは思っていない。

 むしろ結婚なんてしたくない。よりによって辺境。そこへ嫁いでしまったら、もう二度とアルバートの側に戻ってくることなどできないだろう。王都に足を運べるかどうかもわからない。


 もしかして、クラリスを辺境に追いやろうとしているのだろうか。邪魔になったから、捨てようとしているのだろうか。


 クラリスの目の前が真っ暗になった。


「クラリス様!」


 ハリエッタの驚いた声が、頭の中に響いている。



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