第82話 夏の洗礼
それは7月中旬の事だった。世間は夏に突入した中、交魔市の教会にて祓魔師ヴァスコ・フィーロは厳しい表情で書類を読み漁っていた。
カソリック宗派の総本山である教皇庁の指令により、真祖ジル・ド・レを討滅するべく交魔市を訪れた彼は、無事その指令を遂行する事に成功した。だが、それは監視対象である半吸血鬼の朱渡 明嗣の協力のおかげであり、ちょうど良いのでそのまま監視を継続しろという指令が下りてきた。言ってしまえば、左遷である。
不満がないと言えば、嘘になる。だが、同時に納得もしている。なぜなら、半吸血鬼はこの世に存在する事が許されないのだから。悪魔に魂を売った魔の存在と人間の間に生まれた者など、それはいつ暴走するか分からない爆弾。もっと言ってしまえば神の造形物である人間という枠組みから外れる穢れた化け物である。そういう神が定めた理から外れた存在を世界から排除するのが祓魔師の使命であり、その使命に背いた自分が左遷されるのは当然の事だ。
という訳で、ヴァスコは甘んじてその罰を受け入れる事にした。そこまでは良い。良いのだが……。
「蒸し暑い……!」
ヴァスコはパタパタと換気するように修道服の襟元をつまんで仰いだ。
現在、交魔市の気温は29℃、湿度は60%である。だが、教会の空調設備は不調で、冷房が利かないと来た。初めて受けた日本の夏の洗礼に、ヴァスコはたまらず修道服を脱ぎ、ラフな格好に着替えようとした。だが、留めているボタンに手を伸ばした所で、ヴァスコは思い直す。
これはもしや、神が自分に課した試練なのではないのか? 生まれ故郷から離れても信仰心を保っていられるのかと呼びかけるメッセージなのではないのか? もしそうなのだとしたら、なんと未熟なのだろうか。
ヴァスコは暑さに負けそうになった自分の弱さを振り払うように首を振る。そうだ。日本には“心頭滅却すれば火もまた涼し”という言葉もある。無心で目の前の事に集中すれば、暑さだってきっと感じなくなるはずだ。
思い直したヴァスコは再び、目の前の資料に向き合う。この資料は現在の交魔市で起こった吸血鬼が関わったと見られる未解決事件がまとめられた物だ。まずはこれを読んで、この街の状況を把握しなければ。
パラパラと紙を捲って行くヴァスコ。やがて、ヴァスコはある事件の詳細が記されたページで手を止めた。その内容は、とある家庭で起こった惨殺事件だった。被害に遭った一家の家族構成は父、母、長男、長女の四人。その内の父、母、長男の死体に首筋に噛み傷が残されており、長女は行方不明となっている。現場には悪魔召喚の儀を行う際に描かれる魔法陣があったらしい。
状況から考えて長女がサバトを行い、召喚した悪魔に願いを告げた後、代償に異能を持った吸血鬼である真祖になったと考えるのが妥当だろう。そして、備考には……。
アイツめ……。いったいどういう……ッ!?
突如、視界が揺れてヴァスコは体勢を崩してテーブルに倒れこんだ。そして、そのまま気を失ってしまい、ヴァスコは近くの病院へ搬送された。
その翌日……。
「って訳で、ヴァスコったら軽い熱中症で倒れちゃったのよ。馬鹿よね〜」
Hunter's rustplaatsのカウンター席にて、ヴァスコと同じく左遷されて交魔市の管轄となった祓魔師 ミカエラ・クルースニクが肘をついて愚痴をこぼしていた。事情を説明し終え、呆れたように窓の方へ向けるミカエラ。ヴァスコの石頭に対してどうしたものか、と考え込むような表情の彼女の前にアイスコーヒーとミルクのポーションが置かれた。
「大変ですね。ヴァスコくん、大丈夫かな……」
ミカエラにアイスコーヒーを届けたウェイトレス、先日この店でアルバイトを始めたばかりの彩城 澪が心配するようにミカエラの話に参加した。置かれたアイスコーヒーを手にしたミカエラは、澪へ礼を口にしてストローで飲み始める。
「ありがとうね、ミオ。まぁ、とりあえず今はなるべく風通しの良い所で静養中よ」
「そうなんですか。それなら安心ですね」
「ええ。あとで冷感シートとか経口補水液を差し入れを持っていくつもりよ」
「昔に比べて日本もだいぶ暑くなったからな。ニュースだと、もう気温が30℃超えたって所もあるらしい。全く近頃はどうなってんだか……」
厨房で仕込みを終えたHunter's rustplaats店主、アルバート・ヘルシングが合流ついでにボヤきながら、厨房から出てきた。彼の手にもグラスが握られており、中はアイスコーヒーで満たされている。
「しかもこの数年、暑さが長引いてすぐ冬に突入するなんて事がしょっちゅうだぞ。このまま行くと第2のハワイになっちまうんじゃないか?」
「ハワイかぁ……。行ってみたいなぁ……」
トレイを抱えて、澪はまだ見ぬハワイの地へ思いを馳せ始めた。リゾートと言えば誰しも思い浮かべる所だけあって、この時期のハワイは観光客がたくさん訪れて、活気づいている事だろう。
「賑やかで楽しそう……。綺麗な砂浜を歩いたりとかして……」
一度で良いから、観光ついでにたくさん写真を撮って回りたいな、などと色々想像する澪。そんな澪へミカエラは現実へ戻ってくるよう呼びかける。
「ミオ〜? 戻ってらっしゃ〜い」
「完全に心がワイキキビーチに旅立っちまったな」
多感な年頃だ。海外に憧れる事だってあるだろう、とアルバートは苦笑いを浮かべた。釣られてミカエラも苦笑いを浮かべた瞬間、ドアベルの音が来店を知らせた。その音で現実に戻ってきた澪はすぐに意識を接客モードに切り替える。
「いらっしゃいませ! 何名様……って、ヴァスコくん?」
来店した客は静養しているはずのヴァスコだった。思わぬ人物の来店に澪は思わず目を丸くした。
「静養中のはずなのに何してるのよ。大人しく寝てないとダメじゃない」
「すみません、シスター。しかし、どうしても確かめなければならない事があったので……」
まるで姉のように叱るミカエラに対して、ヴァスコは淡々と謝罪の弁を述べる。そして、ヴァスコはアルバートの方に向き直り、用件を口にした。
「アーカードに会いたい。どうすれば会える」
同時刻。Hunter's rustplaats地下工房では……。
「また間違えたぁ〜! なんでナイフの綴りが”nife"じゃなくて”knife"なの〜!」
本来、工具を使った分解や組み立てなどの作業を行う作業スペースに女子高生ヴァンパイアハンター、持月 鈴音の悲鳴にも似た叫びが響く。やがて、頭がショートを起こしてしまったのか、机代わりの作業台に突っ伏してしまった。
そんな彼女に対し、男子高校生ヴァンパイアハンター、朱渡 明嗣がうんざりとした表情を浮かべた。
「うるせぇ。知るかよ、んな事。喚く暇あったら手ぇ動かせ、手」
突っ伏してしまった鈴音とは対照的に、明嗣は軽やかな調子でノートにシャープペンシルを走らせる。現在、二人の手元にはノートと教科書が広がっていた。この光景から分かる通り、この時期の学生最大の試練である期末試験に向けてのテスト勉強をしているのだ。現在、明嗣が今取り組んでいる科目は数学で、鈴音が取り組んでいる科目は英語である。ちなみに、澪は先に本日の分をいち早く終わらせて、アルバイトに励んでいた。
「だって、おかしいじゃん! どうして発音しないアルファベットが綴りに入ってんの!? 意味わかんないよ!」
「俺に言ってどうすんだよ。そういう綴りの単語ならそういうモンだって受け入れるしかねぇだろうが。こっちは集中してぇんだから静かにしろ。気が散る」
こんなの間違っている、と訴える鈴音をあしらいながら、明嗣はグラフの曲線と問題文を手がかりに計算式を書いて解答を導いていく。やがて、最後の問題だったのか、ペンの動きを止めた明嗣はペンを置いてノートを畳んだ。
「おーわり、っと。じゃ、お先ー」
「え、もう終わったの!?」
「ああ。やっと準備ができる……」
答えながら、明嗣は腕を掲げてグッと身体を伸ばす。その後、立ち上がって別の作業台へ移動して乗せていた2つの愛銃、ホワイトディスペルとブラックゴスペルをホルスターから取り出した。次に備品が仕舞ってある棚からガンオイルが詰まったスプレー缶と工具箱、そしてウェス代わりに使う布の切れ端など銃のメンテナンスセット一式を用意する。
煩わしいテスト勉強が終わった解放感から小さな口笛を吹きつつ、愛銃の遊底を外し、ドライバーでネジを緩める事で銃把のカバーを外す明嗣。そんな明嗣に対し、鈴音は縋るように呼びかける。
「お願い、明嗣! 勉強手伝って! このままじゃ夏休みに補習だよ!」
「やだね。俺に何の得もねぇだろ」
「じゃあテスト終わったら映画行こう! チケ代奢るから!」
「興味ないね」
「クラ〇ドみたいな断り方しないでよ!」
「ねぇモンはねぇ。つーか、どのタイトル選ぶかで揉めるのが目に見えてるだろ。分かったらとっとと手ぇ動かせ」
「なんでそうやって冷たいの!」
「あの〜……もしかして今って忙しいかな?」
遠慮がちな声が聞こえたので、言い争っていた2人が同時に工房入口の方を向く。すると、そこには困ったように苦笑いを浮かべる澪が立っていた。
「澪、どうしたの?」
先に終わらせてバイト中ではなかったのか、と尋ねる鈴音に対し、澪は頷いて戻ってきた理由を告げる。
「うん。お店の方にね、明嗣くんに会いたいってお客さんが来てるから呼んでくるように言われたの」
いきなり出てきた自分の名前に、明嗣は作業していた手を止めて顔を上げた。
「俺? 誰だ……?」
「それが、その……ヴァスコくんなんだけど……」
「ヴァスコ? ……いねぇと言って追い返せ。どうせロクでもねぇ用で来たに決まってる」
「そう言われると思って、ヴァスコくんから伝言を預かってきたから、一応それだけ伝えておくね」
「伝言? いったいなんだよ……」
客人の正体が分かった途端、明嗣は興味を失ったように愛銃達のメンテナンス作業に戻った。心なしか、その動きも面倒くさいと言いたげな心境が滲み出ているかのように緩慢だ。
だが、次に澪が口にした名前で、明嗣は再び作業を中断する事となった、
「“燐藤 茉莉花について話がしたい”って言ってたんだけど……。明嗣くん、その人と何かあったの?」
ヴァスコからの伝言を聞いた瞬間だった。明嗣は作業する手を止めた。そして、立ち上がると澪へ呼びかける。
「店の方にいる、つってたな?」
「う、うん……」
「分かった」
澪からの確認を取った明嗣は足早に地下工房から出て、階段を上がって行ってしまった。その明嗣の背中を見送った澪と鈴音は、互いに顔を見合わせて首を傾げた。
「どうしたんだろう、明嗣くん。さっきまで追い返せって言ってたのに」
「さぁ……。もしかして元カノとか?」
冗談めかして笑っていた鈴音だったが、先程の明嗣の様子を思い返して考える。燐藤 茉莉花の名前を聞いた瞬間、明らかに明嗣は狼狽するような表情を浮かべ、「燐藤……」と小さく呟いていたのを鈴音は聞き逃さなかった。おそらく、明嗣と過去に何かあった事は間違いないだろう。
そして、今回のヴァスコ来訪をきっかけに明嗣の忌まわしき過去の扉を開けることになる事を、澪と鈴音はまだ知る由もなかった。




