第79話 脱出
「もう良い……だと?」
力無く答える結華の言葉を明嗣が確認するように繰り返すと、結華は何もかも諦めたように頷いた。
「はい。私は生きるのがもう嫌になっちゃいました。もうほっといてください。術者のジル・ド・レ様が死んでしまったので、もうじきこの空間は崩壊を始めるはずです。しばらく何も与えなかったので、お腹が空いて仕方ないクラーケンに食い殺されるのが先かもしれません。とにかく、そうなる前に脱出してください」
「それで『はいそうですか』と素直に従うはずねぇだろうが。うだうだ言ってねぇでさっさと立て」
呆れた表情で明嗣は立たせようと結華の腕を掴んで引っ張り上げようとした。だが……。
「嫌ですよ! もう私の事なんてほっといて!」
無理やり立たせようとする明嗣の腕を結華は振り払う。どうやら、ここで死ぬ意思は固いらしい。なので、明嗣は仕方ないとばかりに息を吐いた。
「まったく……こちとらさっさと帰りてぇのに余計な手間増やすんじゃねぇよ。こうなりゃ仕方ねぇ。強引にでもお前を連れて行かせてもらうぞ。“立て”」
命令を下した瞬間、明嗣の紅の左眼が妖しい輝きを放った。半吸血鬼の明嗣でも使える吸血鬼の能力、服従の魔眼を使用したのだ。すると、立ち上がる事すら拒否していた結華が素早く立ち上がった。立ち上がったのを確認すると、明嗣は間髪入れずに次の命令を下す。
「“付いてこい”」
これは自分の意思では言いたげな表情で、結華は明嗣の命令を受け入れる。そして、準備はできたとばかりに明嗣は先程からそこら辺を飛び回って遊んでいる朱雀へ呼びかけた。
「おい、案内頼む。鈴音がよこしたのはそのためでもあるんだろ?」
明嗣の呼びかけに対し、朱雀は一度力強く羽ばたくと、明嗣の少し前の地点で滞空し始めた。どうやら、“付いてこい”、と言っているようだ。明嗣はクリムゾンタスクを肩に担ぎながら歩き出した。
本当に疲れた。重くなった身体が訴えてくる。制限を設けたとは言え、クリムゾンタスクによる自然治癒力強化は、やはり相当体力を消費する。
重く感じる身体を引きずりながら、明嗣は朱雀の後を追いかける。時折、ちらりと背後を確認して結華が付いてきているいるかの確認も怠らず行うと、しっかり明嗣の後を追ってきていた。
それにしても……。
明嗣はさらに後ろ、こちらをジッと見つめているいる巨大なイカ、クラーケンを一瞥した。結華いわく、大海の悪魔とか言われているあのイカは腹が空いて空いて仕方ないらしいのだが、何も手を出して来ないのだ。触手を伸ばして拘束しようとするだとか、主人の敵討ちだとか、こちらへ危害を加えようとする意思が微塵も感じられない。あまりにも静かにこちらを見つめているので、不気味に感じる程だ。まるでタイミングを測っている猛獣のようだ。
余計な事考えるな……。さっさと脱出しねぇと。それしても歩きづれぇな……。
嫌な想像を首を振って頭から追い出して、明嗣は足を早める。足元が砂浜のため、どうにも足が取られてしまう。やがて、歩く感触が泥のような感触になった所で、異常が発生している事に気づいた。なんと、いつの間にか足が水の中に入っているのだ。しかも、水位が踝の辺りまで高さにまで及んでいる。
おい……まさか……!?
明嗣が即座に意識を警戒モードに移行させた。だが、既に手遅れだった。気付いた時には明嗣と結華の踝に触手が巻き付いており、猛烈な力で引きずられていく。
クソッ! やっぱこうなるのかよ!
明嗣は即座にクリムゾンタスクで巻き付いた触手を切断した。次に結華を助けに向かい、彼女の脚に巻き付いた触手を切断する。そして、再び結華に命令を下した。
「“逃げろ! 全速力だ!”」
服従の魔眼のおかげで結華は素直に朱雀を追って走り出した。そして、明嗣もその後ろに続き、全速力で走り出す。
足が取られるのも構わず無我夢中で走る。砂浜の空間を離れてから、周囲は赤い霧に包まれていて景色は何もわからない。だが、地を蹴る感触がどんどん硬い物に変わっていき、出口に近づいて行くのを伝えてくる。
やがて、霧が晴れていき、外の風景も視認できるようになってきた。
その頃、外の方では……。
「そろそろ五分よ。出てこないわね……」
眼前に迫った赤い霧を前にミカエラがポツリと呟いた。現在、ジル・ド・レの『血界の孤城』により発生した異界化の霧は50mにまで迫ってきていた。そろそろ危険域の地点だ。その証拠に、霧を広げている人影の姿が何者なのかはっきりと見えるようになってくる。その姿を目にした澪は、思わず口元を覆った。
「ひどい……!」
人影の正体は無数の少年達だった。だが、その姿は一目で分かるほどに肉が腐り落ちていた。いや、その状態で動けるのなら、もはや人間とは言えないだろう。そう言えば、つい先日に明嗣が説明したジル・ド・レの悪行の被害者に男娼の少年も多数いたらしい。その事を思い出した鈴音が率直に嫌悪感を口にした。
「最低……あんなにするなんて……」
「永い間血を吸っていない吸血鬼はあんな風に腐っていってしまうのよ。それにしてもまだなの……!」
苛立たしげにミカエラが腕時計を確認する。定めた五分というタイムリミットは残り一分にまで時間が進んでいた。やがて、ミカエラは決断を下した。
「これ以上はもう待てない。あの坊やごと吹っ飛ばすわ。ヴァスコ!」
「了解」
ミカエラの指示を受け、ヴァスコが指を動かす。すると、彼が操る操り人形、エクシア フォルマ・ケムエルが稼働音を出し始めた。だが、再び澪が待ったをかけようとヴァスコの前に立ち塞がる。
「待って! もうちょっとだけ――!」
「これ以上は無理だ! 我々も巻き込まれる!」
「おい! 何か来るぞ!」
アルバートが霧の方を指さして叫ぶので、全員がそっちへ目を向ける。すると、たしかに一匹の鳥と二人の人影がこちらの方へ向かって来ていた。
「まさか本当に戻ってきたのか!?」
予想外だったのか驚愕の言葉を口にするヴァスコ。一方、どんどんこちらへ走ってくる人影に向かい、澪が精一杯の叫び声で呼びかける。
「明嗣くん、こっち! 早く!」
やがて霧を抜けて姿を現した人影の一人、明嗣が今の状況を確認して焦りの表情を浮かべる。向かっている方向ではヴァスコの操り人形、エクシア フォルマ・ケムエルがこちらへ銃口を向けており、背後からは浸水する船のように水が迫ってきている。おまけに絹を裂くような聞くに耐えない咆哮と共に巨大な影も追いかけて来ている始末だ。
「ヤッベ!」
たまらず、明嗣は後ろで走るもう一人、結華の身体を左肩に担いで抱え込んだ。続いて、右手に持ったクリムゾンタスクを槍投げのように持ち変えて、狙いを定める。
「避けろ!」
警告するや否や、明嗣はクリムゾンタスクを投擲した。少しでも走る速度を上げるための軽量化だ。担いだ結華を両腕で支えながら、明嗣は全力でラストスパートをかける。そして、すれ違い様に明嗣はヴァスコへGOサインを出した。
「タッチダウンだ! ダメ押しぶち込め、クソ神父!」
「貴様が命令するな!」
口を返しつつ、ヴァスコが指先から伸びた鋼鉄糸でエクシア フォルマ・ケムエルを稼働させた。まずは掌の射出口から小袋が射出され、辺り一面がガソリン撒かれた。その状態で計10門の12.7mm 機関砲から専用に作られた焼夷弾、腹部の火炎放射器が一斉に目標を焼き、辺り一面が焼け野原と化す。
「ハハ……ギリギリセーフ……」
あまりの高火力を前に明嗣は思わず引きつった笑みを浮かべた。あともう少し遅ければ、自分もあのように焼かれていたと思うと背筋がゾッとする。炎の向こうから聞こえてくるおぞましい悲鳴が背筋の寒気を煽る。
「キィアアアアアア!!」
響く悲鳴にその場にいる者全員が耳を塞いだ。まるで断末魔を上げる事すらなく逝った主人の分も、と言わんばかりの叫びぶりだ。
やがて、霧が晴れて悲鳴が収まった頃には、何もかも焼き払われて残骸すら残っておらず、ジル・ド・レが一夜で築いた孤城は一夜にして落とされた。




