第62話 揺れるアイデンティティ
朝の一件の後、ヴァスコは特に何かしてくる訳でもなく静かだった。あまりにも静か過ぎるので、不気味に感じるほどだ。
だが、学業をおろそかにする事もできないので、明嗣はただ粛々と学生業をこなしていく。
やがて、何も起こらないまま放課後に突入した時だった。突如、教室に設置されたスピーカーからアナウンスが流れ出した。
『一年A組の朱渡 明嗣くん、ALTのミカエラ・クルースニク先生がお呼びです。至急、職員室まで来てください。繰り返します……』
今度はクソ修道女の方か……。
予想はしていたが、実際にこうして呼び出されてみると、なんともまぁ面倒くさく感じる。しかし、無視する訳にもいかないので明嗣は渋々といった様子で席から立ち上がり、呼び出しに応じるべく職員室へ向かった。
職員室に到着した明嗣は、軽く咳払いで声を整えると職員室へ足を踏み入れ、自分が来た事を伝えた。
「失礼しまーす。呼び出されたんで来たんスけど……」
「こっちよ。いらっしゃい」
声がした方を向くと、デスクの上に置かれた何枚かの書類を前に、難しい表情を浮かべるミカエラの姿があった。明嗣はミカエラのデスクへ歩いていくと、表向きの教師と話す時のような口調で声をかけた。
「なんか用ッスか」
「それがね〜。英訳するのに手こずっている単語があってね〜。だから、バイリンガルのあなたにちょっと手伝ってもらおうと思ったのよ。これなんだけどね」
と、ミカエラはボールペンで問題の単語を指し示した。その単語を確認した明嗣は、あからさまに嫌な表情を浮かべた。
寄りにもよってそれかよ……。
ミカエラが英訳に困り、明嗣が嫌な表情を浮かべたその単語。それは……。
「ねぇ、この『やばい』って単語はどう訳せば良いのかしら?」
尋ねるミカエラの表情は至って大真面目だ。彼女が困るのも当然のである。なんせ、生み出した日本人ですら感覚的に使っている不思議な単語なのだから。
やばい。基本的には危ない状況など追い詰められた時に使う単語だが、場合に寄っては嬉しい時にも用いる日本語が世界一難しい理由を象徴するような単語である。
明嗣は頭痛を抑えるようにこめかみに指を当てた。その後、さっさと終わらせてしまおうと思い、手を差し出す。
「ちょっと見せてもらって良いスか。たぶん、文脈によって意味変わってくるんで」
何に使うのか分からないけれど、とりあえず原文を読まない事にはどうしようもない。テストに使用する資料かもしれないので、渡す事を渋られる事も視野に入れながら明嗣が原文を見せるように要求すると、予想に反してミカエラは素直に書類を明嗣へ手渡した。
やけにあっさり渡したな……。 テストの問題に使用するって訳じゃねぇのか……?
その対応に違和感を覚えつつ、明嗣はまずは問題の書類を流し読みした。そして、読み終えた後、明嗣は静かにミカエラに告げた。
「ちょっと場所変えてもらって良いスか」
「ええ。良いわよ。なら、ちょっと飲み物を買いに行きましょうか。長くなりそうだから」
これが狙いだったのか、ミカエラは微笑みを浮かべながら明嗣の申し出を快諾した。そして、二人はひとまず自動販売機へ向かった。
自動販売機の前にやってきた瞬間、ミカエラは明嗣へ呼びかけた。
「何飲むの? せっかくだからお姉さん奢っちゃうわよ」
「いらねぇよ。ここに来たのは口実だってそっちだって分かってんだろうが。それよりもなんだよ、あれは」
「何ってこれでも一応この学校で教鞭を執る身だから、真面目に先生をやるために一番成績が良さそうな生徒の成績を確かめようと思っただけよ?」
ミカエラはとぼけた調子で明嗣を煙に巻こうと笑う。ならば、とばかりに明嗣は先ほど見せてもらった情報から組み上げたシナリオを懇切丁寧に説明し始めた。
「ああ、そうかよ。なら、期待にお応えして100点満点の答えを言ってやる。あの書類に書かれていた“やばい”の意味はな、交魔市に大量の銃火器の密輸されたから『危ねぇ』って意味のやばいだ。しかも受領したのが人間だと? ヴァチカンは吸血鬼以外に興味示さねぇのはよーく知ってるぜ。わざわざ地中海から来日してきた理由も、吸血鬼となって墓から出てきたジル・ド・レを追ってきたから、だからな。なら、さっきのあれもジル・ド・レ絡みと考えるのが自然な流れだ。と、なりゃ話は簡単だ。あれはジル・ド・レがなんかやらかす前兆なんだろ、違うか?」
「よく分かったわね。日本だとパーフェクトアンサーには花を書いてあげるんだったかしら?」
「いらねぇよ。どうしてもなんか渡してぇなら、俺にこれを教えた理由をお聞かせ願おうか」
「なりふり構ってられなくなったからよ。たぶん、ジル・ド・レが考えているのはフランス革命のリベンジでしょうね。あなたを引き入れようとしたのは、ジャンヌに代わる希望の象徴、といった所かしら?」
忌々しげに明嗣は舌打ちをした。考えてみれば当然の話だ。本来、人間の助けなどいらない上にむしろ餌として見ているような奴らがわざわざ人間を囲う理由なんて、利用する以外ないだろうに。
「朝、ヴァスコがあなたを訪ねた理由もそれよ。事態は思ったよりも切迫しているの。あなたが考えているよりもずっとね」
「で、今度はお前が来たって訳か?」
「そういう事よ。分かったらさっさと根城の場所を教えてもらえるかしら」
「なるほどねぇ……。話は分かった」
事情を聞いた明嗣は考え込むように腕を組んだ。そして、一拍置くように息を吸い込み吐くと、明嗣は答えを口にした。
「答えはNoだ」
「あなた、さっきの話を聞いてたの? 子供みたいな反抗をしてないでさっさと情報を教えなさい。でないとこっちとしても強硬手段を取らなきゃならなくなるわよ」
「何言われても答えは変えねぇ。これは『良い警官と悪い警官』だ。今は悪い警官パートを終えて良い警官役であるお前が情報を聞き出すパート、だろ? 知らねぇとでも思ったか」
良い警官と悪い警官。警察などの取り調べを行う機関で使われる事情聴取のテクニックであり、なかなか口が重い容疑者に対して悪い警官役が不安を与える事で揺さぶった後、良い警官役が好意的に接する事で安心感を与えて情報を聞き出す手法である。この場合、悪い警官役がヴァスコで良い警官役が現在のミカエラという配役だ。
「お前、こういう時は何かにつけて良い警官を選んで、悪い警官を相方に押し付けてきたクチだろ。修道女さんを警戒する奴なんてなかなかいねぇからな。納得して誰も不満を言わねぇから、自然にそういう流れに持って行けるだろうさ。けどな、俺はそういう綺麗な奴が気に入らねぇんだよ。そんなの、人に面倒事を押し付けて自分は綺麗事吐いて回るだけの偽善者じゃねぇか。何が神のもと皆平等だ。笑わせんなよ」
冷たく突き放すような物言いと共に、明嗣はミカエラを鋭い眼差しで射抜いた。おそらく、このままだと交魔市の街は銃弾飛び交う戦場と化す。個人の心情ともたらされる街の被害を天秤にかけたら、ここは素直に根城の場所を教えるのが大人のやり取りという物だろう。だが、朱渡 明嗣はそこまで大人ではない。
「俺にはお前らに協力する事でこの事態が解決するとはどうしても思えねぇ。全部終わった後、残された奴らをヴァチカンはどうするつもりだ?」
ミカエラは何も答えない。明嗣が頭の中で思い描いているシナリオでは、神の尖兵として生きる事を強制されるか、処分されるかの二択だ。何も答えない事が明嗣の疑念をさらに深めた。
「吸血鬼ハンターの業界はいつだって人手不足だからな。けどな、だからってやっと地獄から抜け出した側からまた新たな地獄に引きずり込むようなマネなんかしちゃなんねぇ事は弁えているつもりだ。けど、お前らはどうだよ? 行き場がないことにかこつけて神の尖兵を増やそうと考えているんじゃねぇのか?」
「仮にそうだとしても、このままだとこの街は地獄になるわよ? それはどうするつもりなのかしら?」
「それは……」
たしかにミカエラの言う事も事実だ。このままだと交魔市がとんでもない戦場と化すのは想像に難くない。だが、それでもミカエラ達に事の主導権を渡す事もできないだろう。ならば、答えは一つだ。
「俺が決着をつけてやるよ。巻き込まれちまった以上、もう傍観者決め込む事なんてできねぇんだ。だったら、俺が全部カタつけてやる。お前らの思う通りにさせてやらねぇからな」
はっきりと「自分が決着をつける」と宣言した明嗣はミカエラに背を向けて教室へ戻っていく。ミカエラはその背中を黙って見送っていたが、その顔には面白い物を見つけたとばかりの微笑みが浮かんでいた。
荷物を取りに教室へ戻る明嗣は、階段を登る途中で先程のやり取りについて思い返していた。
やっちまったよ……! 決着つけるったって何をどうすりゃいいのか分からねぇてのに……!
その場の勢いもあるが、あの場ではそう宣言するしかなかった。苛立ちをどこにぶつけて良いのか分からず、明嗣はギリッと奥歯を噛む。
クソッ……! 言っちまった以上は俺がやるしかねぇよな……。けど……。
ただジル・ド・レを討つだけで解決するような問題では無い事は肌で感じる。あの場で出会ったメイドの少女、結華のように社会に居場所がない人間と、同じように社会に居場所がない吸血鬼によって出来上がったのがあのコミュニティなのだ。生贄を差し出さなければならないとはいえ、そこは「自分が生きて良い」と言ってくれる場所。そこを壊す者への憎悪はとてつもない物になるだろう。その上、明嗣は人と吸血鬼の間に半吸血鬼。おそらくあのコミュニティの理想を体現したような存在だろう。明嗣が壊す事は、それこそ自分自身の否定と言っても差し支えない。だからこそ……。
俺があれを壊して良いのか……?
結局の所、傍観者でいられなくなった明嗣の一番の問題は“人と吸血鬼の間に生まれた自分が否定して良いのか”、この一点だった。
分かんねぇ……。どうするのが正解なんだよ……!
「明嗣くん?」
ふと、自分を呼ぶ声で明嗣は我に返った。辺りを見回すと、いつの間にか一年の教室がある階まで来ていたようだ。そして、目の前には心配するように明嗣の顔を見つめる澪が立っていた。




