第38話 トラブルの足音はすぐそこに
翌朝の土曜日。雀の鳴き声が響く朝の時間の事。
「997……998……999……1000……!」
明嗣は自室でルーティーンの自重トレーニングを行っていた。本日のメニューは片腕で逆立ちをしながら腕立て伏せ、左右で1000回ずつを2セット、計4セットである。余談だが腕立て伏せやスクワット、懸垂などの自分の体重で負荷が変わるメニューはゆっくりと時間を掛けて行った方が効果のあるトレーニングとなる。
「よっ」
設定した回数をこなした明嗣は、ハンドスプリングの要領で飛び上がった。衝撃を吸収するように足先から着地し、猫のように静かに床に降りた。その後、シャワーを浴びて汗を流すと、明嗣はベッドに飛び込み微睡みの時間を楽しむ。
この寝てるんだか、起きてるんだか分からねぇ微妙な時間が心地いいんだよな……。あー……今日はずっとこうしていてぇ……。
どうせ何も約束はない。休日の朝くらいはダラダラ過ごしてもバチは当たらないはずだ。
窓の外では二羽の雀が電線の上に留まって戯れている。穏やかな朝はどんな朝か、と問われたら、きっとこんな朝だ、と明嗣は答えるだろう。
だが、事件や面倒事というものは、そんな時に限ってやってくるのが世の常であった。
ヴー……ヴー……
突如、充電ケーブルに接続して放置していたスマートフォンが震え出す。振動のパターンから見るに、おそらく着信を知らせる物だ。
誰だよ……。
明嗣は緩慢な動きでスマートフォンから充電ケーブルを引っこ抜く。そして、この穏やかな朝の時間を邪魔する者の名を確認した。
ゲッ……。
発信者の名前を目にした明嗣は、露骨に嫌な表情を浮かべた。なぜなら、発信者の欄にあった名前は持月 鈴音。明嗣の休みの日に最も会いたくない奴ランキング第一位に名を連ねる鈴音からの電話だったのだから。
あー、無視無視。こういう時は気付いてないフリして寝るに限る。
おそらく、何やら用事に付き合えという趣旨の電話だろう。明嗣は画面に指を滑らせてスマートフォンを振動だけの状態から、何も音も出さないサイレントモードへ切り替えてベッドの適当な場所へ放り投げた。そして、掛け布団を被って二度寝の体勢に入る。
起きたら積んでた本を一冊読んでから……あー……銃にオイルも塗らないと……。
明嗣は半分眠っている状態で本日のToDoリストを頭の中で思い描く。他にも新しく手に入れた武器、炎刃クリムゾンタスクを扱うスキル向上のための鍛錬。父から譲り受けたバイクへと変化した戦車馬、ブラッククリムゾンの手入れ。さらに吸血鬼狩りの依頼が来ている場合は夜の街を走り回らなければならない。さらに、そこへ面倒事の予感しかしない女子からの電話? そんなの、無視するの一択だろう。
数少ない安心できる時間なんだから邪魔すんなよな……。
再び明嗣は水の中へ沈んでいく感覚に身を委ねた。
日が落ちかかり、空が茜色に染まった頃。二度寝から目を覚ました明嗣は自室で小さなテーブルの前に座り、分解した二丁の愛銃の銃身の内部にオイルを塗り込んだり、クリーニングクロスとブラシを用いて汚れや煤を落としていた。
これで良し……。
あらかたの整備工程を終えた所で、明嗣は元の形へ戻していく。シャッ、と音を立てて取り付けた遊底が戻ったのを確認すると、明嗣は弾倉を挿入口へ挿し込んだ。そして、それぞれに照星の歪みなどの異常が無い事を確認し、脇の下に吊っているホルスターへ納める。そして、フルフェイスの真っ黒なヘルメットを手に、ガレージへと変貌した物置小屋へ向かった。シャッターを上げて中に入ると、バイクに姿を変えてしまった父の戦車馬、先日に明嗣が名付け親となったブラッククリムゾン号が主人が乗るのを静かに待っている。
シートに跨った瞬間、主人が走り出す瞬間を今か、今か、と待ち焦がれているように感じたので、明嗣は龍のペイントが施された燃料タンクへ手を当てた。バイクに姿を変えた今、特に反応が返ってくる訳ではないけれど、なんとなくバイクの中にある魂が喜ぶように鼻を鳴らす息遣いが聞こえたような気がした。
キーを捻り、スタートに合わせた明嗣はアクセルグリップのスターターボタンを押した。すると、エンジンが回り始める音と共に回転計の針が上限12000回転を指す12まで動き、その後に1000回転の1付近まで戻り、先を震わせ始める。
計器に異常がない事を確認した明嗣は、ギアを入れてHunter's rustplaatsへ走り出した。
場所は移り、Hunter's rustplaats。こちらの方では現在、店主であるアルバートが固定電話の受話器を肩で挟みつつ、メモを取っていた。
「ああ。そんで? ああ……。分かった。じゃあ、情報料はいつも通りな。また頼むぞ」
アルバートはフゥ、とため息を吐いて受話器を置いた。そして、どうした物かと言わんばかりの表情を浮かべ、白髪混じりの頭を手ぐしで梳き始めた。
その様子を見ていた鈴音と澪、二人の少女が心配するように声をかけた。
「マスター、どうしたの?」
「何かあったんですか?」
「ん? あぁ……ちょっと厄介事の予感がする話を聞いてな……。ったく、こんな時にアイツがいないとは……」
「アイツって明嗣?」
鈴音が確認するとアルバートは頷いて、嫌な情報についての概要を語り始めた。
「ああ。海外の方から一人、同業者が日本に入ってきたと教えてくれたのが今の電話だ。それはまぁ良い。各地を旅しながら吸血鬼狩りで日銭を稼ぐ奴もいるからな。問題は……」
一旦、言葉を切ったアルバートはティーポットを手にして、空となった澪と鈴音のティーカップへ紅茶を注いだ。そして、本当に困ったと言いたげな表情を浮かべた。
「入ってきた奴がヴァチカンからやってきたって事だ」
「え、ヴァチカンってあのヴァチカン!?」
「ああ。そのヴァチカンだ」
内容を聞いた鈴音が驚きの声を上げたのに対し、その情報の意味がいまいち理解できていない澪は頭に疑問符を浮かべた。
「ヴァチカンって一番小さな国のことだよね? イタリアのローマにあるっていう。日本にやってきて何かまずい事があるの?」
「まずいっていうより、メンドイが近いかな……」
「メンドイ……?」
吸血鬼とそれを狩る者達の世界の事を知って日が浅い澪は、やはりピンと来ない、と言いたげに首を傾げた。すると、アルバートが無理もないと言いたげな苦笑いを浮かべて、澪へ軽い解説を始めた。
「まぁ、ヴァチカンってのはその認識で合ってる。だが、ヴァチカンの吸血鬼ハンターはどいつもこいつも熱心なキリスト教徒でな。歴史の授業で習ったろ? 魔女狩り裁判だとか異端審問だとかの宗教弾圧をやったって話。あれを現在も裏でやってるって噂が立ってる。分かるか、澪ちゃん? ヴァチカンの吸血鬼ハンターは中世の辺りで時計が止まってるんだ。カソリックじゃなきゃ人間じゃねぇ、ってな。ついでに、明嗣がロンドンにいた頃、一度バッティングした事があるらしいから、どんな感じだったか聞きてぇんだが……」
「その明嗣は今いないね……」
続きを引き取った鈴音が不満げにドアベルがぶら下がる店の出入り口のドアへ目をやった。
「そういえば明嗣の奴、今朝電話をかけても無視したんだよ? ひどくない? 今日のお昼にちょっと組手の相手してもらおうと思ってたのに、連絡つかなかったから今日の予定はもう台無しだよ。だから、今こうして澪とお茶飲んでるんだから」
「あはは……きっと明嗣くんも忙しかったんだよ……」
苦笑いで澪は紅茶を一口すする。すると、鈴音はまだ納得いかないと続けた。
「でもさ、知らない番号ならともかく、明嗣に一回かけて『アタシの番号だからね〜』って教えてあげたんだよ!? 普通、折返しの電話とかしてみるでしょ!?」
「まぁ、明嗣はそこらへん無頓着だからなぁ……。いや、面倒事の予感がしたら出ねぇって時も普通にあるな……」
「え、それってアタシが面倒って事……!?」
思ってもみなかった一言にショックを受ける鈴音。それを受け、澪がすかさずフォローに回る。
「鈴音ちゃんは面倒くさくないよ! だって、ちゃんとはっきりと言ってくれるし!」
「うぅ……ありがとう澪……。そう言ってくれるのすごく嬉しい……」
「っと、噂をすれば……。明嗣の奴が来たようだな」
アルバートの一言で澪と鈴音が話を止めて、耳をすませた。すると、わずかながら大排気量エンジンの音が聞こえてくる。そして、店の前で音が止み、30秒が過ぎると、ドアベルがチリンと鳴る。すると、アルバートの言う通りに明嗣がヘルメットを肩に担いで店の中にやってきた。
「お、全員お揃いで」
談笑している光景を一瞥した明嗣は一言だけ口にすると、鈴音がさっそく明嗣へ詰め寄っていく。
「明嗣、なんでアタシの電話を無視したの? 今日は明嗣に組手の相手してもらいたかったんだけど」
「あー、あれはそういう電話だったのか。てっきり、暇つぶしに付き合えとかそんな電話かとばかり……」
「それなら普通に他の人誘うし! もうここらへんにはアタシの相手になる人は明嗣しかいないんだからね!」
「前に剣道部で打ち合いの練習するんだっつってたろ。あれはどうした」
「もうレギュラーの人達全員倒して終わっちゃいました〜。今じゃ逆に指導しないかってスカウトされるレベルなんだから」
「お、おお……そうか……」
それで金をもらっているのだから、考えてみれば当然の話である。明嗣の予想ではまだかかると読んでいたが、とんだ計算違いだったようだ。困惑している明嗣と話しているうちに、鈴音は何か思い出したように続けた。
「あ、そうだ。アタシの刀、そろそろ本格的に研いでもらわないとだから、鍛冶屋とか研ぎ師を紹介してよ。家でできる手入れだけじゃやっぱ限界あるしさ〜。たまにはプロに見てもらわないとね!」
「知んねぇよ。俺が知ってるのはガンショップだけだっつーの」
「でも、その店員さんから紹介してもらうとか、そういう職人が集まる場所を教えてもらうとかあるでしょ? 連れてってくれたらあとは自分でなんとかするからさ! ね、お願い!」
両手を合わせて鈴音は明嗣へ食い下がる。ついでにサービスとばかりに、小首を傾げて可愛らしく笑顔も浮かべていた。そこに澪が話に加わる。
「明嗣くん、困ってる人に手を貸してあげないのって良くないと思うよ」
「うぐっ……」
澪の加勢で明嗣の立場は一気に不利になった。さらに、女子二人を相手すると言うただでさえ口では勝ち目がないこの状況へ、トドメと言わんばかりに出迎えのエスプレッソを明嗣へ出したアルバートも、澪と鈴音の陣営に加わる。
「そういや、黒鉄の爺さんが『そろそろ銃の感想を聞きたい』とか言ってたな……。顔出すついでに連れて行ってやったらどうだ?」
「マスターまで!? つーか、マスターが連れてってやりゃ良いだろ!? なんで俺なんだよ!?」
「明日は団体の予約が入ってて俺は忙しいの。どうせ暇してんだろ? なら、ちょうど良いタイミングだし、場所を知ってるお前が連れて行くのが自然な流れって奴だよな?」
取り付く島も立つ瀬もない。もう何も言えなくなってしまった明嗣はギリギリと奥歯を噛み締める。それを敗北宣言と受け取った鈴音は、話は決まりだとばかりにスマートフォンのスケジュール管理アプリを立ち上げた。
「じゃあ、明日の10時に駅前集合ね!」
チッ……。貴重な休みが一日潰れた……。
半ば押し込められる形で明日の予定が決まってしまい、明嗣は頭痛を抑えるようにこめかみに指を当てた。だが、頭痛の種はこれだけではなかった。考え込む明嗣に、今度はアルバートが深刻な面持ちで呼びかけた。
「あー、明嗣。頭痛めている所で悪いが、今度は俺の話を聞いてくれ。ヴァスコって名前に聞き覚えはあるか?」
その名を聞いた途端、明嗣の表情が一気に真剣な表情へ変わり、空気に緊張感が走った。
「ヴァスコって、まさかブラッティナイオ・ヴァスコか!?」
「ブラッティナイオ?」
聞き慣れない単語に澪は首を傾げて、頭に疑問符を浮かべた。鈴音も思い当たる節が無いのか、同様に困惑した表情を浮かべる。すると、明嗣は無理もないとヴァスコなる人物について語り始めた。
「ブラッティナイオってのは、イタリア語で“人形使い”って意味だ。本名はヴァスコ・フィーロ。髪は金髪、目はグレー。性格の方は……まぁ、あんまお近づきになりたいとは思わねぇ奴だ。なんせ、あの泣く子も黙るヴァチカンの祓魔師だからな……。で、その人形使いヴァスコの名前がどうして今出てくんだよ」
「さっき新幹線に乗って交魔市にやって来たって情報が入ったんだよ。だからヴァチカンの祓魔師と一回バッティングした事があるって言ってた明嗣が知ってるかもって訳で待ってたのさ」
「マジか……。あの野郎、何しに来やがった……」
アルバートから理由を聞いた明嗣は、頬に手をやり唸り声を上げた。そんな明嗣の様子を前に、鈴音がおそるおそる呼びかけた。
「そ、そんなにヤバい奴なの?」
「ヤバいなんてレベルじゃねぇ……。アイツの前に立った吸血鬼は、全員吊るされて天日干しにされたっつー噂が立ってる。他にも、アイツが吸血鬼共の溜まり場に行ったら、何を思ったか同士討ちを始めてアイツ自身は戦う事無く全滅させられたって話もあるぜ。人形使いはそこからつけられた異名さ」
「嘘でしょ……!?」
話を聞いた鈴音は信じられないと言いたげに明嗣を見つめる。さすがに話を盛っているだろ、と言いたげな表情だ。対して、明嗣は鈴音の疑念を一蹴するように話を続けた。
「秘密は得物だ。人形使いヴァスコが使うのは鋼鉄糸、なんでも銀を混ぜてるって話らしいぜ。それで首を刎ねても良し、縛って吊るすも良し、おまけに手足に結びつければ操る事もできるってんだからタチ悪ぃぜ。屋内ならまず勝ち目はない」
「どうして屋内だと勝ち目がないの?」
あまり理解が追いついてないのか、澪が明嗣の話に口を挟む。すると、明嗣は嫌な物を思い出すような苦々しい表情で澪の質問に答えた。
「屋内ならありとあらゆる所に鋼鉄糸を張り巡らされてそこら中がクモの巣になるからさ。下手に動けば絡め取られてそれでジ・エンド。煮るなり焼くなり好きにできるって寸法だ。動かなくても投げナイフや杭で串刺し。もちろん、避けるために動けば糸で絡め取られる。実際、俺はそれで殺されかけた」
明嗣の話を聞いた澪は息を飲んだ。そして、黙って聞いていたアルバートは参ったと言った表情で腰に手を当てていた。
「なるほど……。あんま関わり合いにならない方が良い奴だってのが分かった。だがそうなると、今度はそんな奴が交魔市へ何しに来るんだって話になるよな? 明嗣、お前なんかやったのか?」
「んな訳ねぇだろ。『ヴァチカンの祓魔師』なんて厄ネタにちょっかい出すほど命知らずじゃねぇってーの。てか、俺がちょっかい出した前提で話してんじゃねぇよ……」
心当たりがない、と明嗣は肩を竦めて見せた。澪はもちろん、アルバートも鈴音も心当たりがない。さらにこの間、“切り裂きジャック”が暴れた後のこれだ。何か得体の知れない物が裏で蠢いているような気がして、この場にいる者全員が不気味な寒気で身体を震わせる。
だが、向こうの目的が不明な以上、手の打ちようがない。よって、この問題については、ひとまず保留となった。そして、せっかくなので……。
「それじゃ、せっかくメンツが揃ってるし、メシにするか。澪ちゃんも一緒にな」
「あ、もうそんな時間なんだ。それじゃあ……って、あたしは今月ピンチなんだった……」
「奢ってやるよ」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
奢って貰えると分かって、澪は目を輝かせてメニュー表に目を通し始めた。すると、その横で鈴音が明嗣へ、小声で呼びかけた。
「アタシらは食べ放題だから良いけど、やっぱり奢って貰えるって響きは羨ましいよね」
「なんで俺に振んだよ。それに食べ放題なら羨ましがる必要なんてどこにもねぇだろ」
どうでもいい、と言いたげに明嗣が返事をした、すると、その短い会話を耳ざとく聞きつけた澪も参加してきた。
「え、このお店って食べ放題コースがあるの? 良いなぁ……。どうやって頼むの?」
「頼むっていうか、契約するんだよね……。食べ放題はその特典っていうか……」
期待するような表情の澪へ、鈴音が言いづらそうに説明を始めると、明嗣がじれったいとばかりにその先を引き取った。
「俺らは依頼を受けて吸血鬼を狩る。マスターはその仲介と飯の世話をするってギブアンドテイクさ。で、仲介マージン含め依頼料の六割をマスターに差し出して、残りの4割は俺らのモン。分かりやすい契約だろ?」
「なぁんだ……。メニューにある訳じゃないんだ……」
もしかして自分も参加できるかも、という期待していた澪はガックリと肩を落とした。羨ましがる澪へアルバートは苦笑いを浮かべて声をかけた。
「ごめんな、澪ちゃん。この店はHunter's rustplaats、狩人の休憩所だからな。まぁ、表向きは普通のレストランで通しているから、こういう感じで特典をつけねぇとな。さて、それじゃ注文が決まった奴の料理から作るが、誰が一番最初だ?」
アルバートの一言で、明嗣と鈴音もメニュー表で本日の夕食の品定めを始めた。そして、まかないとして出したのが好評だったので、そのまま限定メニューへ格上げとなったホワイトアスパラガスのスープパスタを、澪が注文したのを皮切りに各々が注文を始めた。




