第115話 “大人”の世界
「協力関係を結びたい、と言った。私達もお前達の“仕事”に手を貸そう。その代わり、秘密酒場で得た情報をこちらにも共有して欲しい。それが呼び出した用件だ」
嫌々といった表情で、ヴァスコは明嗣を呼び出した理由を口にした。すると、コーヒーを手に余裕の表情の明嗣は、中身を攪拌するように軽く振る。
「へぇー、お前らが俺達の仕事をねぇ」
「ああ。貴様達も吸血鬼と戦うのなら、人手が多いに越した事がない事はよく知っているだろう」
「まぁ、そうだな」
相槌を打ちながら明嗣はグイッ、とコーヒーを煽る。その態度は熱いホットコーヒーに反して、まるで「さして興味ありませんよ」と言いたげに冷めた物だ。だが、ヴァスコは構わずに続ける。
「不本意とはいえ、一度共に戦った者同士だ。貴様も実力不明の何処の馬の骨とも知れない奴と組むより、私達と組んだ方が良いように思えるが?」
「かもしれねぇな」
明嗣は冷めた態度を崩す事無く、今度は2つ目のベーグルを摘みあげて一口齧る。その後、コーヒーを飲んで胃袋へ流し込むと、明嗣は答えを告げた。
「だが断る」
「……理由を聞かせてもらおうか」
「プレゼンが下手過ぎんだよ。もう一度企画からやり直せ」
「なんだと貴様……!」
今まで抑えていたのだろう。ヴァスコが纏う空気に刺すような殺気が混じり始めた。だが、明嗣は痛くも痒くもないと言いたげに、涼しい顔でベーグルを食べながら空いてる方の手で指を1本立てた。
「理由その1。頭を下げる相手が間違っている。俺の飼い主はマスターだ。Hunter's rustplaatsと協力関係を結びてぇなら、マスターに相談するのがスジってモンだろ」
明嗣は次だ、と言わんばかりに2本目の指を立てる。
「理由その2。向こうはカソリックを嫌ってる。あそこに集まっているのは、神も仏もいねぇって事を悟って縋るのを止めた奴らが集まる場所だ。そんな奴らに改めて紹介したって受け入れるとは思えねぇ。時間の無駄だ」
トドメを刺すように明嗣は3本目の指を立てた。
「そして、理由その3。第一、俺にメリットがねぇ。俺もお前らキリスト教が大嫌いでね。そんな俺がお前らを秘密酒場を繋ぐパイプ役になったとしてなんの得があるってんだよ」
「貴様達に手を貸す。そう言ったはずだが?」
さすがに我慢ならなくなったのか、3つ目の理由に対してヴァスコが反論の弁を述べる。だが、明嗣は呆れたようにため息を吐く。
「分かってねぇなぁ……。俺はンなモンに魅力を感じてねぇのさ。間に合ってんだよ。つーか、そもそも……」
残り一口となったベーグルを口の中へ放り込んだ明嗣は、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干す。そして、芝居がかった動きでコッ、と音を立ててコーヒーカップを置いた。
「お前らが俺の周りに現れる時には、必ずと言って良いほど面倒事がセットで付いてきやがる。そんなお前らが俺に手を貸す、だ? 信用すると思ったら大間違いだぜ。もうたくさんなんだよ。分かったらとっとと教会に戻ってメサイアでも歌ってろ」
吐き捨てるようにまくし立てて、明嗣が席から立とうとした瞬間だった。突然、明嗣のスマートフォンが着信を知らせるために震え始めた。
誰だ……?
取り出して画面を確認すると、なんとちょうど話題に上がっていた秘密酒場のバーテンダーにして、ここらの裏社会事情に一番精通していると言って良い情報屋の番号が表示されている。明嗣はすぐさま応答のボタンをタップすると、スマートフォンを耳へ当てた。
「もしもし? アンタの方から俺に連絡してくるとは何事だ?」
『とぼけなくて良い。そこのクリスチャンが私の情報が欲しいので君に接触してきた、というのは既に聞いている』
わーお……耳が早ーい……。
いったいどこから話が飛んでいくのだろうか。明嗣は相変わらず紳士然とした澄まし顔でグラスを磨いているであろう情報屋の姿を思い描き、顔を引き攣らせる。
「そうかよ。なら、ついさっき断ったばかりなのも聞いているか?」
『もちろん。だから今、こうして連絡している』
「はぁ? いったいどういう事だ?」
連絡の意図が掴めず、明嗣は怪訝な表情を浮かべた。すると、電話口の向こうの情報屋は、一つの質問を明嗣へ投げかける。
『時にヘルシングの猟犬。君はハンムラビ法典を知っているかね?』
「世界最古の法律書だ。そいつがどうした」
『いや何、それに書いている通りだ。“目には目を、歯には歯を”。そして……』
そこから先は言わなくとも、明嗣には分かった。目を抉られたなら、同じく目を抉って差し出す。歯を折られたのなら、同じく歯を折る。罪を贖うには同じ痛みを負う事で手打ちにせよ、というのが、ハンムラビ法典の教えだ。ならば、情報が欲しいなら……。
『“情報には情報を”……と言う訳だ。曲がりなりにも吸血鬼を殲滅する祓魔師だ。君が最近出くわした真祖の情報も君以上に持っている事だろう。それを渡すなら取引を考えてやっても良い、と思ったのだよ』
やっぱそういう事かよ、ぼったくりジジイ!
明嗣は忌々しげに歯ぎしりした。先述の通り、この交魔市の裏社会事情に一番精通していると言って良いのは、電話で今話している彼だ。だが、彼の手元には真祖に関しての情報はほとんどと言って良いほどないようだ。そこに持ちかけられた協力関係を結ぶ呼びかけだ。利用しない手はないだろう。
つまり、今ここで明嗣を通して“交渉”しようという訳で明嗣に連絡してきたのだ。
「そりゃ良い案だ。けどな、大事な事を忘れているぜ。俺が今ここで通話を切っちまえばその話はご破算になる」
このまま良いように使われてたまるか、と明嗣は主導権を握ろうと脅しをかける。だが、そんな物は織り込み済みだとばかりに、情報屋は返す。
『君にそんな事はできないだろう。もし実行したのなら……そうだな……。今、君の元に向かっている可愛らしい友人2人に不幸が降りかかる事になるぞ』
「何の事だ?」
『確か……彩城 澪と持月 鈴音と言ったかな? 今、その2人が君を探してそちらへ向かっているそうだ。ここまで言えば分かるかね?』
「なっ……」
思ってもみなかった方向からの反撃に明嗣は言葉を失った。裏社会事情に精通しているという事は、そこに生きる者達の弱みを握っているという事でもある。彼にかかれば、一声かけるだけでこちらへ向かって来ているらしい澪と鈴音が不幸な事故に遭うという予言も簡単に現実になる事だろう。
『自分の立場が分かってもらえたかね? ならば、そのままそこにいるクリスチャンに代わりたまえ』
「……アンタ、そういう奴なんだな」
『今更だろう。この世界に身を置いて良い子のままなどできる訳がない』
考えてみたら当然の話だ。今話している相手はここら一帯のアウトロー全ての弱みを握っているのだ。当然、明嗣もその対象に入っている。あの秘密酒場に足を踏み入れるとは、たとえつま先だけだったとしても、彼の“使える奴”リストの中へ仲間入りする事を意味するのだ。
今、この現実を認識させられた明嗣は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「そうかい……。よーく分かったよ」
とにもかくにも、この状況ではどうしようもできない。口からの出任せや脅しの可能性もあるが、本当にやるかもしれない可能性が振り払えない以上、明嗣の方が圧倒的に不利な立場だ。それほどの凄みが彼の言葉には込められている。
「代われってよ」
不満げな表情と共に明嗣はスマートフォンを隣に座るヴァスコへ差し出した。突然の事に事態が掴めないヴァスコは警戒するように明嗣を睨む。
「相手は誰だ?」
「出りゃ分かる。俺はもう知らねぇ」
警戒の表情のまま、ヴァスコは受け取ったスマートフォンを耳に当てた。すると、ガタリと音を立てて席から立ち上がる。やがて、しばらく話し込むと通話が切れたのか、ダラリと力が抜けたように腕を下ろした。
「おい、終わったんなら返せよ」
呆然とするヴァスコに、明嗣は手を差し出す。対して、ヴァスコは声を震わせて明嗣へ問いかける。
「あの男……いったい何者だ?」
「あの酒場で番人やってるやたら耳の良い情報屋。それ以外は何も知らねぇ」
「……そうか」
テーブルの上に明嗣のスマートフォンを置いたヴァスコは、カツカツと急ぎ足で去っていった。一方、一人残された明嗣は深く息を吐く。
「まったく嫌だね、大人ってのは……」
自分のスマートフォンをつまみ上げ、明嗣は画面に映る通話終了の文字を睨む。いつか自分もあんなやり方をする事になるのか、と考えると気が滅入ってしまいそうだ。自分の未来を憂う表情でスマートフォンをしまった明嗣は、帰って一眠りしようかと店を出る。すると、店を出たのと同時に「あ、いたー!」と叫ぶ声が耳に飛び込んできた。




