壱
長い山道を抜けて、旅人は遠い景色を眺めた。
霧に沈んだ森。せせらぎと小鳥の歌。もう髄分遠くへ来たのだな。ふう、と息を吐くと、白く煙った。
冴えた早朝の空気の中、旅人は歩き疲れた足に触れる。少し痛むが、村はあと少しだ。頑張れ頑張れ。話しかける相手もいないため、声にはせず。背中に背負った荷物の重みも、自分を励ますと少しだけ晴れるようだった。
旅人の男は、物語を書くことを生業としていた。故郷を離れ、遠くを渡り歩き、そうして見たもの、聞いたもの、感じたことを物語に乗せて紡ぐ。男は今日も、新しい物語を見つけるため、初めて行く村を目指していた。
村は漁村である。特別何か珍しいものがあると聞いたことはない。それでよかった。男が綴るのは、そういう何の変哲もない村の物語だったから。何もないからこそ、これから僕が見つけるのだ。そう、男は意気込んでいた。
道中にあった地蔵に手を合わせ、男はトンネルに差し掛かる。ここをくぐると山向こうの漁村である。
新しい村に踏み入れるときは、自然と胸がはやった。背負った荷物も軽く、足の痛みも感じなくなる。なんとなく、気持ちを引き締めるようなつもりで、着物の襟を正した。
「では参ろう」
自分に言い聞かせるように、独りごつ。さてさて、この村ではどんな物語を紡げるだろうか、と。
暗がりの広がるトンネルを歩き、光の元へ。開けた視界の遠く、海が見える。息を吸い込むと、確かに潮の香りがした。
「もし、そこの方、そこの方!」
切羽詰まった声に、男は驚いて足を止めた。
見れば、村の方から一人の老いた女が駆けてくるではないか。
「旅の方、嗚呼どうか。どうかお助けくださいまし」
「何があった」
駆け寄ってきた女に声をかけ、男は身構える。息を切らす女が、顔面蒼白で泣きそうにしていたからだ。
「嗚呼、どうか。お助けを」
「話してみなさい。どうされた」
女は男の着物にしがみついて、ついにボロボロと泣きだしてしまった。女に泣きつかれた経験などない男は、慌てて彼女の背を撫でてやる。こんなところを他の村人に見られたら、なんて思われるだろう。僕が泣かせたと非難させるのではないか。そんな心配すらしていた。
「人魚が」
女は息も絶え絶えに言う。
「人魚が出たんです。人食いの人魚ですわ。どうか、助けてくださいまし」
「人魚?」
人魚と言えば、水辺に住まう怪異だ。酷く醜い姿をしており、人間の上半身に、魚のような下半身を持つという。
しかし、その存在は伝承や物語の中だけのもの。実在はしないのである。
男は怪訝そうに顔をしかめた。しかし、老女が助けてくださいまし、と未だ泣きついてきている。冗談を言っているような雰囲気ではないし、これが戯言であったとするなら、名芝居だ。金を払いたいほどのものである。
「村人がもう何人も襲われているのですわ。ねえあんた、どうにかしておくれよ」
涙混じりに女が言うものだから、男は村の様子を見に行くことにした。そうして、村に近づくにつれ、確かに悲鳴や怒声が聞こえてくるのだ。
人魚の存在については半信半疑であったが、本当に人食いの怪物がいるのかもしれない。男は懐にある小刀を握りしめて、駆け出した。