鈍感ワンコメイドは、お嬢様の溺愛に気づかない 〜わたしの運命の番はお嬢様の想い人。でもわたしはお嬢様が大好きです!〜
百合(GL)です。苦手な方はご注意を。
「お嬢様、おはようございます」
「ああ、ブルネッタ。おはよう。今日は清々しい朝ね」
わたしの毎日は、お嬢様を起こして差し上げるところから始まる。
美しい金髪を寝癖で跳ねさせ、寝起きの眠たげな声をしているお嬢様は可愛い。見ているだけで癒される。
「確か本日はお茶会の予定がありましたね」
「そうね。今日は青空に映える朱色のドレスをお願いするわ」
そんなことを言いつつ、わたしをギュッと抱きしめて頬にキスを落とすお嬢様。
柔らかなお胸に顔を押し当てたわたしは思わずニヤけてしまう。お嬢様独特の心地の良い香りがわたしの敏感な鼻をくすぐった。
そして埋めた顔を上げると、そこにはお嬢様の優しい笑顔がある。
金銀や宝石、どんな宝だってきっと及ばない、この国……いいやこの世界で一番の美しさだと自信を持って言えるくらい素敵。
今日も今日とて思わず見惚れてしまう。
――ああ、好き。
でもすぐに、うっとりしている場合じゃないとわたしは我に返る。お嬢様の命じることを聞くのがわたしの役割。それを忘れてはいけない。
「はい、わかりました!」
ぶんぶん尻尾を振りながら、元気よくお嬢様に答えると、お嬢様の腕の中から飛び出す。
そしてメイド服が乱れるのも構わずにバタバタと走り、部屋を出て行ったのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
わたしはハメティーヌ侯爵家で働く、お嬢様――侯爵令嬢キャロライン・ハメティーヌ様の専属メイド。
容姿端麗、頭脳明晰……。列挙できないほどの素晴らしさを詰め込んだ生きた奇跡、そしてなんと第二王子殿下の婚約者でもあるお嬢様をお世話させていただき、誰よりも近くにあるのがわたしの役目。
この八年間、ずっとお嬢様のお傍に居させていただいている。
こんなわたしみたいなのが本当にお嬢様に付き纏っていていいのだろうか、と思う時もあるけれど、お嬢様はとてもわたしを可愛がってくれていた。
「ブルネッタ、友人からいただいたクッキーがあるの。あなたもいかが?」
そんなことを言いながら、わたしを膝の上に乗せてよく一緒にお菓子を食べるし。
「今度お忍びで街に行きたいわ。ついてきなさい」
有無を言わせぬ口調でわたしを街に連れ出して、可愛らしいアクセサリーを見つけてはお嬢様とわたし、二人分のお揃いを買ってくれることもあるくらい。
何よりも、馬鹿にされがちなわたしの栗色の毛並みと犬耳、それにぴこぴこと動く尻尾を褒めてくれることがわたしは一番嬉しい。
褒められると「アンアン!」と興奮してうるさく鳴いてしまうけれど、そんな声まで好きだと、そんなところも可愛いと言ってくれる。
わたしはそんなお嬢様が大好きだ。
この気持ちは忠誠であり尊敬であり、そして恋だった。
……でもお嬢様はわたしを可愛がってくれているだけで、きっと恋愛感情はないけれど。
お嬢様にとってわたしは忠実なる犬。
それ以上でも以下でもないのだから。
わたしはドレスがずらりと並ぶ衣装室の中からお嬢様が言っていたものを探す。――そして見つけた。太陽を思わせる朱色のドレス。金糸が編み込まれ、きっと陽の光の下では美しく輝くに違いない。
ドレスを手にに取るとわたしは、それを汚さないように気をつけてお嬢様のお部屋まで運んだ。
廊下で転んだり、鋭い爪で破いてしまったりしてドレスを台無しにしたことが一体今まで何回あっただろうか。普通ならとっくにクビになっているわたしがこのお屋敷にいられるのはお嬢様のおかげに他ならない。
お嬢様にドレスをお見せした後は、お嬢様をお風呂に入れて差し上げて、御髪を整えさせていただき、それからドレスの着付けを行う。
そうするとそこには信じられないくらいの絶世の美女が出来上がる。
くるくると巻かれた金髪、切れ長の空色の瞳、そして朱色のドレス。
全てが調和し、麗しいという言葉以外浮かんでこなかった。
「お嬢様、素敵です」
「当然よ。ブルネッタ、ありがとう」
「ふへへ……ありがとうございます。ワンッ!」
ダメだ。嬉し過ぎて声が抑えられない。
お嬢様はそんなわたしの頭を優しく撫でくりまわしてくれた。
しかしそんな幸せな時間は長く続かなかった。
なぜならお屋敷にとある人物がやって来たから。
「お嬢様、第二王子殿下の馬車がお見えでございます」
先輩メイドがわたしたちの前に姿を現し、告げる。
お嬢様はそれに頷くと、先輩メイドと一緒に一人で外に出て行った。
第二王子のビリー様は、月に一度婚約者同士の付き合いでハメティーヌ侯爵家へ訪れてくださる。
お嬢様との仲は良く、プレゼントを送り合うまでの仲だと聞いている。まあそれは当然だろう。何せお嬢様はいずれビリー様の妃になるのだ。
ビリー様はどんな方だろう、とお嬢様の部屋の掃除をしながらわたしは考えた。
わたしは未だ一度もビリー様をこの目で見たことがない。
犬人族のわたしがビリー様の前に出たら嫌がられるかも知れないからとお嬢様は言った。お嬢様が言うのだからそうなのだろうと思い、わたしはこの時ばかりはお嬢様のお傍で見守ることを諦めている。
お嬢様は今、ビリー様と身を寄せ合って楽しげにお話しされているだろう。
想像して胸が痛くなった。
「ビリー様に嫁いでしまったら、お嬢様にお会いできなくなるのかな」
わたしはふと呟く。
お嬢様に大切にしてもらっているわたしだけど、さすがに王宮へ行ってしまう結婚後のお嬢様について行くことはできないだろう。
そうなったらおそらくこの屋敷も追い出されてしまうに違いない。そして、お嬢様に二度と会えなくなる。
――お嬢様はビリー様に嫁いで幸せになるのだもの。応援して差し上げなければ。
考えれば考えるほど湧き上がってくる寂しい思いをグッと堪え、わたしは俯く。
長年の恋を実らせ、誰よりも幸せな王子妃となるであろうお嬢様の未来を心から祝福できるだろうか。それだけが不安でならなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
平民、しかも元奴隷の獣人のわたしだなんて、本当だったらとても就ける仕事ではない。お嬢様の専属メイドになれたのは、お嬢様に救われたからだ。
数十年前の種族間の戦争に負けて以降、獣人は人族より下に扱われるのが常識になっていた。
犬人族の娘として生まれたわたしは、母と一緒に幼い頃は路地裏でゴミを貪るような生活をしていた。
確かあれは七歳くらいの頃だっただろうか。奴隷商人の男に目をつけられ、商品にされたのは。
母は抵抗したため殺された。一方でわたしは連れ去られて売られ、奴隷として痛めつけられながら方々を彷徨った。
『穢らわしいケダモノがッ!』
毎日のように罵られる中でわたしはある日、その時のご主人様だった男の人に罰という名の虐待を受けている最中、一人の少女に声をかけられた。
金髪に美しい蒼穹の瞳の少女。わたしより頭二つ分は背が高かった。
「それ、私にちょうだい」
金貨三枚で、心も体も今にも死んでしまいそうだったわたしを買い上げた彼女。彼女がお忍びで街へやって来ていた侯爵令嬢であり、わたしと同い年だと聞いた時はとても驚いた。
そして彼女に連れられてやって来たお屋敷は夢かと思うほど綺麗だった。
「あなたは今日から私の従者になりなさい。その汚らしい奴隷の首輪、いらないから捨てておくわね。後、この屋敷に相応しき装いをしてもらわないと。……そうね、お仕着せでも着ているといいわ」
それが、お嬢様に拾われて、わたしがこの屋敷のメイドとなった日の話。
メイドになってからは大変だった。
わたしが獣人のせいでお嬢様のお父上である旦那様からは汚いものを見る目で睨みつけられたり、奥様には追い出されそうになったし。
他にも料理や掃除、洗濯はことごとく失敗するし。犬人族だから周囲には下に見られ、「甘えてるんじゃないわよ」と先輩メイドから打たれたりもした。
でもそんな時にいつも助けてくれたのは、お嬢様で。
奥様から責められている時は、いつもわたしを守ってくれたし。わたしがミスをした時はできないわたしを叱りつつも、わたしをいじめたメイドにはもっと激しく怒ってくれる。おかげで皆が皆というわけにはいかないまでも、周囲の人たちは普通レベルに認めてくれるようになった。仲良く喋る同僚もできた。
……旦那様と奥様の態度だけは、あまり変わらなかったけれど。
そんなこともあり、当初は人間に対して恐怖心を抱いていたわたしだったが、お嬢様と一緒にいるとそんな気持ちはいつの間にかなくなっていた。お嬢様は本当に優しくて、わたしなんかを傍に置いてくれるし、抱きしめてくれるし、おはようのキスもおやすみのキスもありがとうのキスもしてくれる。
惚れないわけがなかった。
お嬢様の柔らかい胸の感触が好き。
甘くて優しい薔薇色の唇が好き。
いつもは吊り上がってキリリとしているのに笑うとふにゃりと緩むお嬢様の目尻が好き。
ぬくぬくのお布団よりも暖炉の火よりも、何よりも温かくて気持ちいい、お嬢様の体温が好き。
全部全部、愛おしい。
何ものにも変え難い幸せだった。わたしはお嬢様と一緒にいられるだけでいい。たとえお嬢様のお心が、わたしとは別の人に向いていたとしても。
――そしてわたしの運命の番が、お嬢様ではない人だったとしても。
獣人には、皆一人ずつ運命の番がいるとされる。
適齢期の前に番を見つけられない場合は親しい異性と結ばれるのだが、いくら親しき夫婦であったとしても片方が運命の番を見つけた場合は別れるのが通例。つまり、運命の番が最優先だ。
その理由は獣としての本能が抑えられないから。番を見つけたら一生追いかけてしまう。それがわたしたち獣人の性だと母から聞いたことがある。
だからわたしは、こんなに愛おしくてたまらないお嬢様こそが運命の番なのだとずっと思っていた。
女同士で番だなんて変な話だけれど、あり得ない話ではない。だから何年も何年も不安で仕方がなかった。お嬢様の幸せな結婚を喜べるかが。そして、自分がお嬢様の初夜に彼女を連れてどこかに行ってしまわないかどうかが。
その長年の不安がある日突然解消されることになるなど、わたしは全く予想していなかった。
それは偶然、いや、必然のことだったのかも知れない。
お嬢様が婚約者のビリー様へ贈るために用意していた品を忘れたまま庭園の方へ行ってしまった。
後からそれに気づいたわたしは、他のメイドに頼めばいいのに自分から庭園に赴いたのだ。「一眼でもビリー様を見てみたい」という好奇心も少しあった。
「お嬢様、お忘れ物…………」
お忘れ物です、と言おうとし、わたしは途中で絶句してしまった。
庭園に置かれたテーブルを挟み、麗しきお嬢様に対面していた人物から目が離せなくなったのだ。
それは、伸ばした黒髪を後で束ねた青年だった。肌は少し健康的な小麦色をしていて、服の上からでもわかるほどに男らしい体型をしている。そして何よりも印象的なのは顔。その顔を目にしてしまった瞬間、世界から音が消えた気がした。
美しいというわけではない。もっとも、普段お嬢様の素晴らし過ぎる顔を見ているわたしからすれば、という話なのだけれど。
ではなぜ固まってしまったのかといえば、彼に紛れもない運命を感じてしまったからだった。
「ワゥッ! ワンワンワンッ!」
全身の毛が逆立つ。気づくと吠え声を上げていた。
「こらブルネッタ、殿下の前では姿を見せてはいけないと言ったでしょう!」
お嬢様が慌てて立ち上がり、わたしの手の中からプレゼントを引ったくると、犬耳に口を近づけて「帰りなさい」と優しい声で囁く。
いつもなら喜んで従うはずのそれも、これ以上なく興奮するわたしの脳内には全く届かなかった。わたしはビリー様しか見つめられなかった。
「話には聞いていたが、まさかキャロラインの愛犬とやらが犬人族だったとはな」
「……殿下、これには訳がございますの」
「いい。構わん。だが俺に隠し事とは褒められたことではないぞ。侯爵令嬢の分際で偉そうに。身の程を弁えろ」
「申し訳ございません」
目の前で行われているやりとりも、頭に入って来ない。
一体どうなっているの? その答えはすぐにわかった。わかってしまった。
――この方こそがわたしの運命の番なのだと。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その場をどうやってお嬢様が収めてくださったのか、よく覚えていない。
我に返った頃にはお茶会は終わっていて、ビリー様が席を立つところだった。
「お送りいたしますわ、殿下」
「……今日はいい。せっかく会えたんだ、愛犬に送ってもらうとするからお前はさっさと引っ込んでろ」
「承知いたしました」
不承不承、と言った様子で頷くお嬢様。
本当は最後までビリー様と一緒にいたいはずなのに、お嬢様を差し置いてビリー様をお見送りすることになってしまったことが申し訳ない。でもビリー様の命令に、そして湧き上がる本能に逆らえるはずもなく、わたしはビリー様と連れ添って庭園を後にした。
表面上は笑顔を取り繕う。でも内心はとても平静な状態ではなかった。
――まさか運命の番が、お嬢様じゃなかっただなんて。
信じられない。信じたくない。
驚愕の事実に震えるわたしは、気づかなかった。
なぜビリー様がわたしと二人きりになろうとしたかということに。
門に向かっているはずが、いつの間にか人目につかない屋敷の影にやって来ていた。
「あれ……?」
ぼぅっとしていた間にビリー様に誘導されたのだと気づいた時には遅かった。
がん、という強い衝撃と共に押し倒される。そして声を上げる間もなくビリー様の顔面が迫ってきて、チュッと音を立てた。
――キス、されてしまった。
「愛妾にでもならないか。お前は顔がいい。それに俺の好みだ。愛玩動物として飼ってやってもいいぞ」
「キャンッ! 何、するんですか……!」
そう叫びつつも、本当は受け入れてしまいたかった。
獣の本能に狂いそうになる理性、しかしわたしが正真正銘の犬になってしまわなかったのは、脳裏にお嬢様の顔が蘇ったから。
お嬢様を悲しませたくない。
そう思った瞬間、初めて腕に力が籠り、わたしの腰を掴んでいたビリー様の両腕を振り解いて逃げ出していた。
本当にギリギリだった。あの一瞬、お嬢様を思い出さなければきっとされるがままになっていただろうと思えるくらいには。
屋敷の中に逃げ込んだわたしは、廊下の中で小さくなった。
異種族、しかも人間の男が運命の番だったなんて思いもしなかったけれど、間違いない。ビリー様と出会った瞬間にまるで電撃に打たれたような感覚を覚えたのだ。あれは勘違いなどではなかったと断言できる。
でも、ビリー様はお嬢様の想い人。
奪うようなことは決してできない。
でも獣人としての本能が疼き、今すぐにでもビリー様の元へ駆け出したい衝動に駆られる。
わたしが好きなのはお嬢様なのに。お嬢様にひっそりと想いを寄せるだけで良かったはずなのに。
結局わたしは、穢らわしいケダモノなのか。
そんな自分が嫌で、惨めで涙が溢れた。
「ブルネッタ? ブルネッタ?」
お嬢様の声がする。
逃げなきゃ。わたしは咄嗟にそう思った。ビリー様に押し倒されただなんて知られたら、お嬢様が傷ついてしまう。内緒にしなくちゃ。涙を見られないように、しないと……。
けれどそんなわたしの醜い抵抗は無駄だった。
すぐにお嬢様に見つかって、わたしの全身はお嬢様の柔らかい胸に包まれた。
「ブルネッタ、どうしたの」
「お嬢、様。何でもっ何でもありません! ただ、そこで転んでしまって……。ビリー様の前なのに、ひどい姿を晒してしまったわたしを、許してください……」
わたしのメイド服は泥だらけ。転んだと言えば言い逃れできるかも知れない、と考えたわたしは愚かだった。
怒られる、と思った。
嘘を吐いたことを見抜かれ、とんでもない泥棒猫……泥棒犬だと言って叩かれ、追い出されるだろうか。それとも愛する殿下の前で醜態を晒すなんて、と叱られるのかも。
なのに……お嬢様はわたしを怒るどころかひどく心配してくれて。
抱かれながらお嬢様の胸の中でさらに泣きじゃくってしまった。
「大丈夫。大丈夫よ。あなたは悪くないわ。何があってもブルネッタのことは私が守るから」
そう言いながらわたしの栗色の髪にキスを落とし、頭を撫でてくれたお嬢様の顔が一瞬だけ怖く見えたのは、きっとわたしの気のせいだろう。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――お嬢様が好き。お嬢様が好きお嬢様が好きお嬢様が好き。
呪文のように心の中で繰り返す。うっかりするとビリー様の顔を思い浮かべそうになる自分を必死で制し、心からお慕いするお嬢様のことだけ思い浮かべ続けた。
お嬢様が好き。だからわたしは、獣の本能になんて負けない。お嬢様を影からお支えして、恋を叶えて差し上げるのが専属メイドのわたしの役目なのだから。
――でも、わたしを妾に望むような人に大事なお嬢様を渡していいの?
――きっとビリー様も無意識的かも知れないけれど動物的な感覚でわたしを番と認識しているはず。番同士がくっついた方が相思相愛で幸せなんじゃないの?
「くぅ〜ん……」
ふとそんな風に考え、不安になって鳴き声を漏らしてしまうこともある。
でもわたしは首を振った。だってビリー様はお嬢様が選んだ人。間違いない。お嬢様ならきっとあの人と幸せになれる。ビリー様がわたしを押し倒したのはただの気の迷い。近い未来にはニコニコ笑顔でお嬢様と一緒に結婚式の舞台で愛を誓い合っているに違いないのだから。
「だから、大丈夫」
「ブルネッタ、また考え事なの?」
「あっ、お嬢様」
最近は仕事中に考え事ばかりのわたしを心配してなのか、お嬢様が心配そうに声をかけてくることが多くなった気がする。
そしてそのままわたしをギュッと抱きしめて、冴え渡る空のような青の瞳の中に熱を宿して微笑む。その笑顔を見るだけで、わたしは元気が湧いてくるようだった。
そんな風にして日々が過ぎていく。
変わったことはそれほど多くなかった。強いて言えばお嬢様が近頃忙しそうにしていることくらい。
旦那様の書斎に行っては勉強に打ち込んでいるし、部屋の整理をしたり貴重なネックレスを集めたりとバタバタとしている。お嬢様一人では大変だろうとわたしが手伝おうかと思ったが、「これはみんなには内緒だから。わかったわね?」と言われる。
おそらく花嫁準備を進めているのだろう。
そんなお嬢様の姿を見て、安心していた。いや、安心しようと努めていた。
でもそれが甘かったのだ。まさか、ビリー様がそこまでわたしに惚れ込んでいるなんて思わなかったから。思いたくなかったから。
ある日、お嬢様が夜会のために馬車でお出かけして行った後、彼は屋敷を訪ねてきた。
ビリー様は確か「具合が悪いから」と言って今回の夜会を欠席すると数日前に手紙が届いていたはずだ。わざわざお嬢様を騙し、隠れるようにしてこそこそとやって来たビリー様に一体何の用があるのかと言えば一つしかない。お嬢様に言われて大人しく留守番させられていたわたしは、半ば無理矢理に屋敷から連れ出され、馬車に乗せられた。
そして――。
「侯爵令嬢キャロライン・ハメティーヌ、俺はお前との婚約を破棄するッ!」
キラキラした舞台の中央で叫ばれたビリー様の言葉に、場が騒然となる。
ビリー様の腕に抱かれたわたしも、一体何が起こっているのかしばらくわからなかった。
美しく着飾ったお嬢様へと偉そうに指を突きつけるビリー様。扇子で口元を隠し、わたしには向けたことのない氷のような眼差しを投げかけてくるお嬢様。
正直怖かった。お嬢様がこんな表情をしているところなんて、見たことがなかったから。
でもどうしてお嬢様がここに?
いいや違う。ここにいるべきではないのはわたしの方だ。ビリー様に馬車に押し込まれ、戸惑っているうちに夜会に来てしまったらしいということに気づくと、全身から血の気が引く思いがした。
平民、それも獣人のわたしが夜会なんかに現れた上、ビリー様の言葉だ。
お嬢様との婚約を破棄? 信じられない。だって彼はお嬢様の想い人。想い人、なのに。
「彼女――犬人族の少女を屋敷に監禁し、不当に虐げたそうだな。動物虐待など、令嬢にあるまじき行為だ。
それだけではない。お前の家は数々の不正を行ったと聞く。証拠はあるんだ、言い逃れはできないぞ!」
信じていたはずのお嬢様の幸せな未来が、ボロボロと崩れていく。
お嬢様がわたしを虐げた? 侯爵家の不正? そんなはず、ない。後者はともかく前者は絶対の絶対に真っ赤な嘘だ。
ビリー様の狙いはすぐにわかった。お嬢様を貶めて、わたしが愛妾になるのを拒否したことへの報復を行おうとしているのだ。
「わたしの、せいで……」
泣きそうになった、その時だった。
ビリー様がおぞましいことをわたしの犬耳に向かって囁いたのだ。
「俺が責任を持って君を引き取る。正妃にはできないが側妃程度なら迎え入れてやるから安心しろ。あの女から解放された上俺に嫁げるなんて嬉しいだろう?」
こんな人が、お嬢様の想い人……?
あり得ない。間違っている。きっとこれは全部が夢。そうじゃなきゃ、おかしい。
獣人メイドのわたしが選ばれて、お嬢様がゴミのように捨てられるなんて。
お嬢様は絶対悲しむ。裏切られたと、人生に絶望してしまうかも知れない。
そんなお嬢様の顔を見るなんて絶対に嫌だ――。
そう思ったのだけれど。
「婚約破棄、了承いたしました。追放でも何でもご勝手になさってくださいませ。どちらにせよこちらから破棄させていただこうと思っていたところですもの」
お嬢様の返答は、わたしの予想と全く違うものだった。
泣くでもない。あまりの衝撃に声を失ったわけでもない。ただ淡々と、そんなのはすでにわかり切ったことだとでもいうように。
理解が追いつかない。そしてわたしがお嬢様に何か問いかけを口にしようかと考えたのとほぼ同時だった。
いつも静かなお嬢様が突然爆発したのは。
「ただし、殿下の所業――私の可愛いブルネッタの身に触れ、泣かせただけでなくその腕に抱いたこと、決して許しはいたしませんわ!」
「何を――」
そう言いかけたビリー様の腕から、わたしをひったくるお嬢様。
お嬢様の美しい顔は怒りに歪んでいた。そして、令嬢とは思えないほどの力で引きずられたわたしは半ば転ぶようにしてお嬢様の胸に倒れ込む。そこで待っていたのは、嗅いだだけで狂いそうになる運命の番の香りではなく、心から癒されるお嬢様の匂いだ。
――やっぱりこれが、一番好き。
しかし愛おしさで胸を満たすことができたのは一瞬のことだった。
「ブルネッタ、参りますわよ」
「え、ちょっと……お嬢様!?」
次の瞬間にはお嬢様に抱え上げられ、夜会の会場をものすごいスピードで後にしていた。
ビリー様の声がしたもののそれも一瞬で、すぐに聞こえなくなったくらい。
お嬢様の胸の中から見上げる世界がぐらんぐらんと揺れていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「お嬢様っ、止まってください! それにこれっていわゆるお姫様抱っこというやつでは!? わたしなんかをお姫様抱っこするなんてダメですよ!」
尻尾をブンブンと振り回しながら悲鳴を上げるわたしの声を聞き入れ、お嬢様がようやく止まってくれたのはしばらく後だった。
「……ここまで来れば大丈夫ね」
「お嬢様!」
「ブルネッタ、聞いて。私、今日から侯爵家の娘ではなくなるわ。ハメティーヌ侯爵家は破滅して、なくなるの」
「えっ」
わたしは素っ頓狂な声を漏らしながら、お嬢様を見上げる。
この時にはもうすっかりお嬢様の穏やかな表情は戻っていて、屋敷で二人でお菓子を食べている時の幸せそうな顔つきになっていた。
「実はハメティーヌ侯爵家の悪事を暴いたのは私なのよ。随分前から父が不正に手を染めていることは知っていたわ。早く貴族の身分を捨てたくてわざわざ暴露したのだけれど、その必要すらなく冤罪で婚約破棄されたわね。私がブルネッタをいじめていたですって? 聞いていて呆れるわ。そう思わなくって?」
「そうですね。それは絶対、おかしいと思いますけど。でも、なんでそんな嬉しそうなんです? 婚約破棄されたんですよ? わたしのせいで!」
確かに最近忙しそうにして資料を漁っていたのは、侯爵家の悪事を調べ尽くすためと考えれば納得がいく。
でもわからない、そんなことをする理由が。そんな顔をするのか、そんなに嬉しそうに声を弾ませるのか、わからなかった。
想い人に婚約破棄されたのに。さらにお嬢様の言葉が本当だったら、生家が潰れて貴族ではなくなるのに。
「……あなたは本当に鈍感ね。わかってはいたけれど。
私が好きなのはあなただけよ、ブルネッタ。あんな色ボケ男、好きでも何でもなかったもの。別れられてせいせいしたくらいなのよ」
そう、衝撃的過ぎることを言い放ったお嬢様の顔は、とても清々しいものだった。
――色ボケ男? 別れられてせいせいした? 好きなのは、わたしだけ?
あまりの驚きにしばらく硬直したわたしは、脳内で反芻する。
確かに思い当たることはないではなかった。お嬢様の優しい目つき。愛おしさの伝わってくるキス。
でもそれはあくまでわたしを愛犬として大事にしてくださっているからで。
「じゃ、じゃあ、ビリー様とプレゼントを贈り合っていたのは?」
「あれは作法上よ。そういうしきたりなの」
「ビリー様とお茶会を開いていたのも?」
「あなたと一緒にいられない時間が苦痛だったわ」
そこに来て、わたしはやっと理解する。本当の意味で、理解できた。
――お嬢様はわたしのことが好きなのだ。勘違いしていただけで、ずっと両想いだったのだと。
「本当に、わたしなんかでいいんですか」
「あなたは最高に可愛いもの。貴族令嬢としての全てを失っても、あなただけ残ってくれさえすれば私はそれで構わないわ」
「わたし、お嬢様のことが好きです。大好きです。でも、わたしには運命の番がいます。お嬢様のことが好きなのにビリー様のことを狂おしいほど求めてしまうんです」
「知っていたわ、獣人族の運命の番のことは。
ブルネッタの番が色ボケ殿下ということも、わかってはいたの。殿下とあなたを離れさせて私の手元に置いておくこの選択肢は間違いかも知れない。でも私、今更あなたなしで生きていくなんてできないのよ。あなたに出会って、愛らしさに虜になって、もう離れられない」
お嬢様はふふっと笑って、わたしと唇を重ね合わせた。
それは今までのどんなキスよりも長く、深く、濃厚な味がした。
「お、お嬢様」
「ねぇ、名前で呼んで?」
「キャロライン、様。……愛してます」
「私もよ、ブルネッタ」
「ワンッ!」
わたしは嬉しさのあまり鳴き、泣いたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
婚約破棄事件の後、ハメティーヌ侯爵家は爵位を取り上げられ、侯爵は貴族牢に投獄、夫人は修道院行きになったのだとか。
一方で彼らを断罪した側だったはずの第二王子ビリー様も侯爵家の後ろ盾を失ったことで一気に失墜し、それに追い打ちをかけるようにふしだらな女性関係が顕になって王位継承権剥奪、辺境の領地で一生を過ごすことが決定したと風の噂で聞いた。
でもまあ、おそらく二度と会うことはないだろうし、キャロライン様は「お父様もお母様もあなたのことを蔑視していたし、色ボケ殿下も別に興味はないの」と言っているので、わたしとしてはどうでもいい話だ。
わたしとキャロライン様はあれから二人であてもなく旅をしている。
今までのように豊かな暮らしではない。でも一緒にいられるだけでわたしたちは幸せだった。
お嬢様とメイドという関係ではなくなったけれど、今でもキャロライン様はわたしを可愛がってくれるし、わたしは彼女のことを心から慕っている。互いに互いを支え合い、癒し合いながら生きているのだ。
この関係はきっといつまで経っても続くだろう――。
〜end〜