空に鯨
しいなここみ様主催『純文学ってなんだ?企画』参加作品です。
風吹く高台。
街を見下ろせる秘密の場所。
自転車を走らせ、しばらく歩き、草木を分け入って、そうしてようやくたどり着ける場所。
俺たちの秘密の場所。
そこで空の風に耳をすませる小学生になったばかりの俺たち四人。
空に耳をすませると、まるで何かの鳴き声のような音が聞こえた。
「あ!
今の聞こえた?」
それは確かに空から聞こえた。
その音に反応する嬉しそうな声。
「んー?
風の音だろー」
「えー、私は聞こえなかったー」
「……俺も」
しかし、空には生き物はいなかった。
だから俺はそれを聞こえなかったことにした。
「あれはねー。
空に浮かぶ鯨の声なんだよー」
楽しそうに話す声。
「おまえバカじゃねーの?
鯨が空にいるわけねーじゃん!」
「う、うん。
私も聞いたことないな」
「……」
ノーコメント。
話がどう転がるか分からない時は簡単に意見を出さない方がいい。
「ふふふ、私もちゃんと見たことはないんだけどね。楽しそうに声をあげて、気持ちよさそうに空を泳ぐんだよー」
「……」
結局、俺はその後も空に泳ぐ鯨を見ることはなかったが、嬉しそうに語るそいつの横顔に惹かれたことだけは今でも覚えている。
時間割の最後の授業は眠気との戦いだ。
高校生にもなれば成長期も伴って食後の眠気は最高潮だ。
あまつさえ、その前の授業で食後に退屈な授業を受けるという拷問を乗り越えているのだ。
最後ともなれば死屍累々。
どいつもこいつも舟を漕ぎながら黒板に書かれるミミズを何とかノートに書き写す。
まもなくチャイムが鳴る時間。
生徒たちからしたら待望の時だろう。
俺もそうだ。
だが、いま教卓に立つ教師にそんな期待を抱いてはいけない。
歴史を担当しているこの教師はチャイムが鳴っても、自分の切りがいい所まで問答無用で授業を続ける。
案の定、チャイムが鳴るまであと5分だと言うのに、この教師の授業に終わりは見えない。
周りを見渡すと、やはり皆一様に嫌そうな顔をしている。
普段はバラバラなクラスも、いまこの時だけは心が繋がっている気になる。
この教師は生徒たちのことなんて見てはいない。
ただカリキュラムに沿って授業をして、期間内に所定の内容をやり終えればいいのだ。
そこに生徒の気持ちや都合が介在する余地はない。
いつから人はこんな大人になるのだろうか。
この教師はチャイムが鳴ったあとに教室のドアの向こうにいる、他の生徒の視線が気にならないのだろうか。
このクラスの授業が終わるのを待つ他のクラスの生徒。
まだやってるよ。
毎度可哀想だな。
そんな嘲笑にも似た同情の視線。
俺たちは被害者なのに、まるで俺たちを非難するかのようなその視線。
それを感じてもモノともしないこの教師は、本当に俺たちと同じ人間なんだろうか。
そんなどうでもいいことを考えていると、待望のチャイムが鳴った。
「……ふむ。
では、今日はここまでにしようか。
次回は続きからやるから予習をしておくように」
おや?
珍しい。
件の教師がチャイムで授業を終えた。
皆もきょとんとした顔をしている。
教師は日直に号令を命じ、皆が一様に立ち上がって頭を下げる。
そして、皆が席に着くやいなや教師は授業道具を片付け、そそくさと教室をあとにした。
「あー、終わった終わったー」
「今日はちゃんと終わったじゃん」
「ほんとほんと、ラッキー」
「なんか、今日は結婚記念日だから早く帰りたいんだって職員室で話してたよ」
「マジか。
あれで愛妻家とか、意外すぎる」
「いやいや、きっと恐妻家で脅されてんだよ」
「ありえるー!」
そこここで弾むような声が上がり、生徒たちが席を立っていく。
今日はホームルームもないので、最後の授業が終わればあとは流れ解散となる。
部活がある者は荷物を抱えて部室へ。
バイトがある者は今日は余裕をもって向かえるようだ。
帰宅部で特段急ぐ用事のない俺はそのまま席に座ってゆっくり片付けをする。
皆が動く様子を見ていたのだ。
今から帰り支度をする俺が、教室に残っている数人のうちの一人になるのは必然だろう。
俺以外には女子生徒が数人いるだけ。
たしか、俺と同じ帰宅部だったはず。
バイトをしている者もいたと思うが、今日はシフトに入っていないのだろう。
「ねー、これからカラオケ行かない?」
「いーねー」
「あ、でもその前にクレープ食べたい!」
「あり!」
教室には俺と彼女たちしかいない。
必然的に彼女たちの会話が耳に入ってくる。
女子高生って生き物はどうしてああもカラオケとクレープが好きなのだろうか。
いや、そういえば中学の頃も女子たちは同じような会話をしていた。
なるほど。
どうやらそれらは彼女たちにとっての必需品であり、ステータスであり、定番のようだ。
実際、クラスの連中に連行されてカラオケに行った時はだいたいの女子が上手かった。
踏んでいる場数が違うのだろう。
幸い俺はそこまで音痴ではないようなので恥をかくことはないが、苦手な人からしたらこれは苦行でしかないのではないだろうか。
「いこいこー!」
教室に残っていた女子たちが姦しく出ていく。
「あんたまだ帰んないのー?」
「ん?
ああ、もう出るよ」
その中の1人が声をかけてきたので適当に返す。
「そっかー。
じゃあまた明日ねー。
ばいばーい」
「ああ、じゃあな」
互いに手を振り終えれば女子たちはもう俺のことなんて興味はなく、なんのクレープを食べるかで盛り上がっていた。
「……」
俺は帰り支度を終え、通学カバンを机の上に置く。
以前から思っていたが、机の使い回しはどうにかならないだろうか。
べつに潔癖症というわけでもないし、経費がかかっていることも知っているし、もったいない精神についての理解もある。
だが、俺の机は卒業生が彫刻刀でキズをつけたようで、何ヵ所か削れているのだ。
プリントを書く時に何度シャーペンで穴を空けたことか。
いっそのこと机と同じサイズの下敷きを張り付けたい気分だ。
「……バカバカしい」
俺は自分でもバカなことを考えていることに気が付き、窓の外に目をやった。
晴れた青空に大小さまざまな雲が流れている。
「……空に鯨、ね」
俺はあの日、そう言って笑っていた少女のことを思い出す。
いや、嘘だ。
本当は片時も忘れたことなんてない。
あの日から、あいつは俺の心のど真ん中をずっと占領している。
今は亡き、あの日の少女が。
「あ、ま、まだ帰ってなかったの?」
「ん?」
物思いに耽っていると、あの日に一緒にいたもう一人の少女が高校生の姿となって教室の入口に現れた。
「おまえこそ。
今日は部活ないのか?」
「あ、う、うん。
今日は吹奏楽部、お休み」
メガネをかけて長い黒髪をおさげにした彼女は見た目通りの気の弱さを存分に発揮している。
俺ともう1人の昔馴染み以外の男と話しているところを見たことがない。
「も、もう帰るの?」
「ああ、帰る。
せっかくだし一緒に帰るか」
「あ、うん!」
俺が席を立ち上がると彼女は嬉しそうに頷いた。
何度も一緒に帰っているのに、なぜこうも毎度嬉しそうに出来るのか。
いつもこうしてニコニコしていれば顔は可愛いんだしモテそうなんだが。
……なんてことを言ったら顔を真っ赤にして怒るんだろうな。
からかわないでよーなどと言って。
それはそれで面白いが、今日のところは見逃してやろう。
「お!
発見!」
「ああ。
おまえもいま帰りか」
彼女と二人で下駄箱に着くと、そこには先ほどもう一人の昔馴染みと俺に呼ばれていた男がいた。
「おまえも今日は部活ないのか?」
「おう!
今日は監督が用事があってな!
自主練という名の休みだ!」
ボウズ頭が陽気に笑う。
野球部であるこいつは昔から元気が良かった。
それなのにこんな俺と不思議とウマが合った。
こいつに絡まれても嫌な気分にならないから不思議だ。
「せっかくだし一緒に帰ろーぜ!」
「え?」
「ああ、そうだな。
そうするか」
「え?
あ、う、うん。
そうだね……」
彼女が少し残念そうな顔をしていた気がするが、俺は肩を組まれて連行されているのでそれに気が付かないフリをした。
「そーだ。
久しぶりにあそこに行かないか?」
「あそこ?」
帰り道。
三人で川沿いの道を歩いていると、頭の後ろで指を組みながらボウズ頭がそんな提案をしてきた。
いきなり突拍子もないことを提案するのは彼の十八番なので、今さらそれに戸惑うこともない。
「あ、あそこって……あ、そっか。
もうすぐだったね」
「……ああ」
「そゆこと」
そこで、俺たち三人の認識が揃う。
もうすぐあの少女の命日だ。
空を泳ぐ鯨の話をした少女。
俺の心にいまだに居座る少女。
彼女がいなくなって、もうすぐ10年が経とうとしている。
あそこは、彼女が一番好きだった場所だ。
「……いくか」
「そ、そうだね」
「おっしゃ!
そうこなくっちゃ!」
たまにはこいつの提案にのってみるのも悪くないだろう。
どうせ、俺は一人でよくあそこに行っているんだ。
帰りが一人なら今日もそのつもりだった。
旅は道連れ。
教室にいた女子よろしく、姦しく行こうじゃないか。
「しっかし、あん時の俺たちはかなり無駄に回り道してたよなー。
ちゃんと道を歩けば十五分ぐらいで行けちゃうんだからよー」
「ああ、ほんとにな」
「そ、そうだね。
でも、それはそれで、楽しかった」
「……そうかもな」
「たしかにー」
小学生の頃はそこに行くことよりも、そこにたどり着くまでの冒険の方が大事だった気がする。
わざと一番行きにくそうな場所から枝葉を避けながら目的地の高台を目指す。
このボウズ頭は途中のぐねぐねした木を敵に見立てて木の棒で攻撃しようとして、女性陣に止められていたな。
あの頃はすべてが冒険だった。
きっと分からないことばかりだったからだ。
ビー玉を太陽に透かしてその日の行き先を占ったつもりで動き回ったり。
桑の実を食べ過ぎて腹を壊したり。
近所の家の柿をとろうとしてその家のじいさんにものすごく叱られて、結局、最後には切った柿を食わせてもらったり。
日が沈み始めた頃に遠くで動く謎のサーチライトを追いかけて迷って泣いたり。
とにかくいろんなことが刺激的で、魅力的だった。
俺は、いつからこんなつまらない人間になったのか。
今や分からないことはすぐに調べられる。
バイトをすれば金も稼げる。
あの頃は全部を知りたかった。
全部に興味があった。
全部が欲しかった。
でも、いざそれに手が届くようになると、いろんなことに対して興味がなくなった。
色褪せた。
世界が、色を失ったんだ。
あの頃は良かった、なんてジジくさいことを今から思っていて俺は大丈夫なのだろうか。
あの頃はすべてが楽しかった。
そして、そのどれもにこいつらがいた。
あの少女も……。
そういや、ツチノコを探すんだって真っ暗になるまで四人で森を練り歩いた時は親に死ぬほど怒られたな。
いま思うと、女の子をそんな時間まで連れ回していたんだから怒られて当然なんだが、その時は、次はどうやればバレずに出来るのかってことしか考えてなかったな。
「……ふっ」
「あん?
おまえなに1人で笑ってんだよ?」
「いや、思い出し笑いだ」
「あっそー」
自分で聞いておきながら適当に返事を返してきたなと思えば、さっさと後ろを歩く女子の元へ。
ずいぶん嬉しそうに話すボウズ頭。
こいつが彼女に想いを寄せていることには、ずいぶん前から気が付いていた。
俺としてはこのままうまいこといってくれればと思うのだが。
「ついたぜー!」
「ふぅ」
「ちょ、ちょっと疲れたね」
短時間とはいえ、けっこうな急勾配な道だ。
女性には少し大変だったかもしれない。
「あ!
俺飲みもん買ってくるわ!」
汗を拭う彼女を気遣って、パッと近くの自販機に走っていったボウズ頭。
「あ、俺お茶」
「わ、私も」
「おっけー!」
料金は後払いでいいだろう。
彼女の分はあいつが出したがるだろうから、この場はあいつの奢りってことにして、あとで俺の分だけ渡すとしよう。
「……」
「……」
2人だけになった高台に今日もいつもと同じ風が吹く。
少しだけ暑くなってきたような気がする。
梅雨が明けるとすぐに暑くなる。
これからもっと暑くなるのだろう。
風が鳴く。
木々を抜け、高台にぶつかり、上空へと空気を切りながら。
ぶつかり合いながら空に昇る風の音。
それはまるで、空に浮かぶ鯨が鳴いているかのよう。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
原理を分かってしまえば、取り立てて興味を持つことでもない。
……そんなことを考えるから、俺はつまらないのかもしれない。
あの子だったら、きっとここから空に飛んでいってるんだね、とか言いそうだ。
「……ね、ねえ」
「ん?」
黙って風に耳を傾けていると、おさげを指でいじりながら彼女が話しかけてきた。
「……そ、その、まだ、あの子のことを、その……」
「……」
彼女の言わんとすることはすぐに分かった。
彼女が俺に抱いてくれている気持ちには気付いているつもりだ。
そして、彼女もまた分かっているのだろう。
俺が、いまだにあの子のことを想っていることを。
「……そうだな。
あいつが俺の中から消えることはない。
たぶん、これから先もずっと……」
「……」
彼女が小さな声で、そっか、と言ったような気がしたが、風の音にかき消されて聞き取ることが出来なかった。
「……ご、ごめん。
私、今日は帰るね。
よ、用事があるの、わ、忘れてた」
「……ああ、分かった」
俺の返事を聞く前に、彼女はくるりと踵を返していた。
「……明日からは、また今まで通り仲良くしようね」
「……ああ。
ありがとな」
彼女は後ろを向いたままこくんと頷くと、目元を拭いながら走っていった。
「おーい!
おまたせー! ……って、なんで一人!?」
「……」
俺がすまなそうな顔で黙っていると、どうやら状況を察したようだ。
長年の付き合いってやつだろう。
「……あいつは、なんて言ってた?」
俺の返答まで理解した上での質問。
きっと、こいつも全部分かってたんだろう。
それでも、それでも人の気持ちは、誰かを想う気持ちは止められない。
きっと俺自身が、誰よりそうだから。
「……明日からは、また今まで通り仲良くしようね、だってさ」
「……かー!
これだから俺の天使は!」
丸出しのおでこにわざとらしく手を当てるボウズ頭。
「……今なら、追いかければ間に合うぞ?」
「わーってるよ。
言っとくが、おまえには負けねーぞ。
んでもって、何がどうなってもおまえは俺の親友だからな!
それを忘れんなよ!
また明日な!」
ボウズ頭は一息でそう言うと、ものすごい速さで彼女を追いかけていった。
「……まったく、どいつもこいつも良いやつすぎるだろ」
気が付いたら笑みがこぼれていた。
当時は、そのまま彼女のあとを追ってしまうのではないかと心配になるほど、俺は気落ちしていたらしい。
そんな俺に、あいつらは毎日「また明日」と言ってくれた。
それのおかげで、俺は明日も生きてみようと思ったのを覚えている。
「……」
高台から空を見上げると、綺麗な青と白のコントラストがどこまでも広がっていた。
なんだか、久しぶりに色づいた世界を見た気がした。
風が鳴く。
空の鯨の鳴き声だ。
「……あ」
そこに、あの子の声が聞こえた気がした。
空の鯨の背にのって、楽しそうに笑う声が。
あの子なら、もしかしたら本当にそんなことをしているかもしれない。
「……あいつはあいつで楽しくやってるのかもな」
そう思ったら、なんだか肩の荷がおりた気がした。
俺も、楽しめる何かを探してみようか。
そんな気になれた気がした高二の夏だった。
(武頼庵様作)