予期せぬ便り
椎奈は、階段をのぼっていた。人の出入りが激しい階はとうの昔に過ぎ、椎奈の周りには今、教員も生徒も一人として存在していない。
倉庫として利用されている教室を通り過ぎて、一つのドアまで辿り着く。
加地葵の部屋だった。
椎奈は、必要以上に長い階段の洗礼をうけたおかげでわずかに弾む息を整えるため、深呼吸をした。
そして、スカートのポケットから携帯電話を取り出す。
開いたディスプレイに映し出されていたのは、メールだった。送り主は心当たりのないアドレスで、本文は一行のみ。
『お前の本性を知っている』
ただ、それだけが書かれていた。
***
「はい、どうぞ」
紅茶を静かにテーブルへ置いた葵に、椎奈は微笑をたたえながら礼を言う。
いえいえ、とだけ応えた葵もまた微笑んでおり、来客を心から喜んでいるようだった。どうやらまだ他にこの部屋を訪ねる人間は現れていないようだ、と椎奈は考える。
それならば世間話でもしようかと椎奈が口を開いた瞬間、思い出したように葵が「あ、そうだ」と言った。
「そういえば君、花姫なんだってね」
「……ええ」
椎奈は、自分の身が堅くなるのを感じた。
「いやぁ、どこかで聞いたことがあると思ってたんだ。君の名前。悪いことをしたね、すぐに思い出せなくて」
「いえ……。思い出して頂けただけで、光栄ですわ」
正直に言えばこんなにも早く葵が椎奈の正体に気付くと、椎奈は予想していなかったのだ。だからこそ、椎奈はかすかな焦りを感じていた。花姫という立場が明らかになった以上、葵の態度や振る舞いに少なからず変化が表れるであろう事は容易に想像ができたからだ。
だが、そんな椎奈の様子に葵は少し首を傾げると、ポツリと、こぼすように尋ねた。
「……ねぇ、花姫って、大変?」
この質問は椎奈にとって全くの想定外であった。花姫は、花姫を名乗るのに相応しい人間に与えられる栄光だ。少なくとも聖ローズではそういう認識である。一般的に《大変》と称される類の負担さえもが、《名誉》であるのだと変換される。
その思想を植え付けるはずの教師がよもやそんなことを聞くなんて、試されているのだろうか、と椎奈は思わず悟られないように注意しながらも警戒をせずにはいられなかった。
「……御期待に添えなかった時に申し訳なく思うことはありますが、大変というほどではありませんわ。もちろん、私がそのような立場にいても良いのかと悩むこともありますが……。花姫と呼ばれることを誇りに思っています。たくさんのことを経験させて頂いて、とても感謝していますし、むしろ充実していて楽しいですね」
椎奈の答えは誰が聞いても完璧なものだった。だが、葵は困ったように微笑むばかりで、何も言おうとはしない。その瞳は、一掴みの悲しみさえこもっているような、憂いに満ちたものだった。
そして、自分用に用意していたコーヒーを一口飲むと、言葉を選ぶように椎奈を見つめる。
「……無理しなくても良いのに」
「無理なんて、」
「していない? 本当に?」
葵の追及に、椎奈はそれ以上何も言えなかった。
何か言わなければいけない……そう思うのに、椎奈の声帯は、断固として働こうとしない。
葵は、微笑む。
「君が無理をしていないというならそれでも良いよ。それでも、もし疲れてしまったというなら、ここでくらいゆっくりすればいい。本当の君がどんな人間だろうと僕は気にしないよ。これでも教師だからね、生徒一人ぐらい受け止めてあげるよ」
沈黙したまま、椎奈はカップの中で水面を揺らすレンガ色を見つめた。それは舞華と話したときと同じ、とてつもなく透明で、とてつもなく深い、吸い込まれそうな赤茶だった。
俯いたまま黙りこくる椎奈に、葵はやれやれといった様子で肩をすくめると、思い立ったように席を立ち勢いよく窓を開けた。
部屋に充満していた、濃厚なコーヒーの香りをまとった空気が嬉しそうに外へと飛び出し、残された室内には代わりに花々の匂いを携えて新たな風が吹き込む。
葵はその風を気持ちよさそうに受けると、椎奈にだけ聞こえるよう、穏やかに、しかししっかりと、呟くように歌い出す。
ギョッとした椎奈が顔を上げると、楽しそうに歌う葵と目が合う。椎奈はその瞳から視線をそらすことができなかった。
椎奈には少なくとも今まで、自分の意のままに動かすことのできない他人はいなかった。完璧な振る舞い。完璧な言霊。自分の全てを偽ることで、他者を動かす。それが、椎奈の処世術だったのだ。
だが、今回ばかりは違う、と椎奈は本能的に感じていた。
今までと同じ、普段どおりの行動をとればいい。頭ではそう分かっているのに、体が、無意識にそれを拒んでいるようだったのだ。
葵の瞳は、紅茶とは比べものにならないくらい強い引力を発生させて、椎奈をその中へ引きずり込んでいく。
――ブラックホールというのは、存在を視認した時には既に手遅れであるのだ。
歌はいつの間にか終わっていた。
「先生は、変わっていますね」
視線をそらさずに、椎奈が言う。
「聖ローズにいながら花姫の名前も忘れるくらいだからね」
葵は、おかしそうに笑った。
椎奈は自分の中で複雑に絡まってしまった思考が砂糖と混ざって溶けていくことを願いながら紅茶を胃に流し込んで、それからゆっくりと立ち上がった。
扉の方へ体を向け、葵を見ないまま問いを投げる。
「あのメールも、先生の仕業ですか?」
「――メール?」
心当たりがない、といった様子の葵を、椎奈は少しだけ振り返って一瞥し、その反応が嘘ではないと判断した。
「違うなら良いんです。忘れてください」
きちんと手入れされた艶のあるローファーが、椎奈のスピードに合わせて小さな音を立てる。
「わたくし、本日はこれで失礼いたしますわ」
扉の前までたどり着いた椎奈は、百八十度ターンをして、葵の方に向き直る。その顔には、花姫と呼ばれる少女にふさわしい可憐な微笑が浮かんでいた。
葵はそんな椎奈を見て、一瞬の間をおいてから、わずかに笑顔をひきつらせ、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「……もしかして、怒った?」
椎奈はその問いには答えずに扉と向かい合い、境界線を暴く。
境目を越え、元の世界へ降り立つと、椎奈はちらりと葵を見やった。
「――さあ、どうでしょう?」
椎奈は笑みを携えながら、そっとドアを閉めた。
「……また来てくれるといいなあ」
去り際の椎奈の笑みは、聖ローズの雰囲気とはかけ離れた、とてつもない迫力と妖艶さを放ち、葵の網膜に焼きついて、いつまでも離れなかった。