3−2
また、周雲のまわりに人だかりが出来ている。
そして、その人だかりは時折、大きな笑い声をあげている。
なるほどうまいものだな、
墨寧は、現場でその様子を見て、素直に感心した。
「翁」
「どうされました?仲間に入りたいとお想いですかな?」
軽口は相変わらずだが、翁ですらその様子を認めている、
そういう証拠になる台詞だ。
それだけで充分だったのか、墨寧は笑っただけで、
それについては言葉を続けなかった、その笑った目をゆっくりとそらして、
典晃と呼ばれた、中央役人の手下を見た。
「翁、あれをどう思った」
「なに、私より、墨寧様よりも強い、そんなところでしょう」
「やはり、そうか、欲しいな」
「手に入れたも同然でしょう」
「その主人を手に入れなくてはならないがな」
物を理解した口利きである。
墨寧は、短期間で人間関係をおおよそ把握したつもりでいる。
実際はもっと深く難しいことがあるだろうが、
外から見ていると、それらの労苦をすべてないがしろにして、
単純化することができる、簡略化すれば典晃は州よりも周雲になついている。
墨寧は、周雲さえ押さえればこの地はなんとかなる。
そこまで思っている、それほどまで周雲に力が備わっていると言うべきだろうか。
「それよりも墨寧様、一つ質問が」
「それには答えかねる」
「そう、それはかなりの重要事項ですな」
「すねるなよ、あと少しだ、少しで我々はこの地を離れるぞ」
「重畳であります」
翁は、せんだって現れた州からの役人について、
墨寧が別れ際、何かを告げていた様子を見ていた。
墨寧が何かよからぬことをまた考えて、それが久しぶりに的を射た様子なので、
気になっている、誰も彼もが周雲を主人にと思うなか、
不思議と長く生きることを目標とする影翁のみが墨寧を尊敬している。
「さて、また仕事がある」
「はい?」
「馬を買ってきてくれ」
「かしこまりました」
「良馬は一頭いればよい、あとは駄馬で数を揃えろ、良馬は駿馬を頼むぞ」
「ほう」
この注文に、いかがわしいカラクリがあるのだろうか、
影翁は一ヶ月ほどの旅に出ることとなった。
残った墨寧は、周雲達とひたすら土地の改良につとめることとなる。
その作業中、
「このところ影翁殿の姿が見えませぬが」
「馬を買いにいかせた」
「墨寧様は、各地の商人と通じておられますか?」
周雲の質問はしごくまともに発せられている。
ぱちくりとした瞳が、まだ青年を若いと思わせるに充分な魅力を持つ、
周雲は、墨寧がとりあえずであってもこの土地の開発に貢献していると踏んでいる。
だから馬についても、農耕馬であると考えている。
ただ、それを手に入れるためには地方に繋がりがなくてはならない、
農業が根幹の時世である、それを助ける農馬は主力である。
それを手に入れようというのだから墨寧はただものではないだろう。
「いや、お前も知っての通り、私は余人を信用せぬよ、だから商人と通じているなどということはない」
「…」
「無論、お前のことも信用していない、が、実力を評価しているのだ、理解できぬだろう?」
周雲は苦笑した。
初めてこの人は私に本性を告げた。
告げたが、その内容はかんばしくない。
周雲は残念と思いつつ、短い間にこの男を心のどこかで許しつつあるのを感じている、
民草をどうとも思わないところに悪は感じるが、
自分かわいさかもしれないが、それなりに生きようという力については、
先日のやりとりを見てなんとなく思った。
この男は、現状の価値観では最低部類の男だが、それでも信念がある。
「初めて本心を告げられましたね」
「そうか?」
「はい、少なくとも私には初めてです、いつも、かわされていてばかりでしたから」
「それはお前が、私を追いつめるからだ」
「そうかもしれませんね」
「頼む」
「心得ております」
短いやりとりで、どうしてか二人は心を通わせていた。
それまでの軋轢にも似た障壁は、どうしたことか全てが解消された。
周雲は楽観を好む、だからそう感じたのかもしれない、
周りから見ていて、この二人の仲が悪いという印象は無かったはずだが、
初めて、仲がよいという風に二人の空気は感ぜられることだろう。
「周雲殿」
「これは、典晃どの、どうされました?」
「いや、何かありましたか?」
頭のよい人だ、周雲はそう思った。
彼の台詞は、周雲と墨寧の間のことを言っている。
一日、二日見ただけでその変化がわかるのだから、
尋常な瞳を持っていない、周雲はそう思った。
「初めて、主と交わったのですよ」
「そうでしたか」
言葉に少し不快を含んだ様子が見られた。
典晃は気持ちをはっきりと態度に示す男だ。
精錬だが、それはあまり賢いとはいえない、
周雲はそういう清廉さを好むが、それだけでは事が生らないとうすらもって解ってきている。
その象徴が墨寧ではないか、今ではそう考えている。
彼は悪党ではないような気がする、そういう予感だ。
「墨寧様をあまり快く思っていないのでしょう?」
「はい」
「典晃殿は正直ですな」
「周雲様もそうでしょう」
「いや、そうだった、だよ」
「……」
「急ごう、まもなく馬がやってくるそうだ、さらに仕事がはかどるだろう」
周雲は再び県民に指示を与えた。
州の役人にタンカを切った以上、彼らを人並み以上の工人に仕立てなくてはならない。
それは彼らのためになると信じてそう指示していく、
現状、岩倉県は不要の県だ、それはおそらく全ての上層においての通念だろう。
そこから発生する人間は全て下層でなくてはならないのだろう。
これは、宰相、天帝、両派において通ずるところの様子だ。
だが、この地に別の意味を天帝派はもっている、それを先日感じ取っている、
それが何かはわからないが、土地を肥やすことを許さない。
だが、県民を肥やすことについては何も言わなかった。
周雲は、それを機会ととらえて200人を立派な人間にしよう、そう考えている。
墨寧はどうかわからないが、それでも、この地に利益のあることを考えている、
そう思った。
かくして、一ヶ月、県令も交えたため、
志気高く、県民全ての力を集結してかつてなかったほどの、
凄まじい進行具合を見せた。
灌漑の施設はほぼ整った。
☆
「典晃」
「なにか?」
墨寧が声をかけた、それに不機嫌そうに典晃は答えた。
典晃は周雲をあくまであがめており、墨寧はむしろ下に見ている。
それをお互いが理解したうえで会話は進む。
「貴殿は相当の腕前であろう」
「さぁ、影翁殿とどちらかというくらいでしょう」
不遜な言い回しである。
墨寧はそれを、苦笑いでかわしつつ、
さらに言葉を続けた。
「お前に嫌われるように、私には下に崇められる人徳は持たぬ、周雲とは異なる」
「…」
「それでも、守りたいものはあるのだ」
「利益ですかな」
「否定はせんよ」
からりと笑って墨寧は典晃を見つめた。
典晃は、じっくりとこの男を見定めようと、
州の役人仕えである自分の仕事を思い出した様子でいる。
余談になるが、延の国における地位でいえば、
中央近い役人の側仕えである典晃のほうが、
地方の県令である墨寧よりも上になる。
しかし、現状、典晃は墨寧の部下となるよう命令されている、
だから、墨寧があくまで主人となっている。
「近く、灌漑施設が襲われると私は考えている」
「…」
「典晃、そなたならそれを退けるか?」
典晃は少し考えた。
時間をたっぷりつかって、答えを出す。
「無論」
「安心した」
墨寧はそれだけ言ってその場を去った。
典晃は、少しだけ墨寧を見直す、相変わらず嫌いというか好きにはなれないと思っているが、
周雲がどうしてあの男の下で働き続けるのか、その理由が少しだけわかった気がする。
あの男は、悪人であるが、県令の器でもあるのだろう。
政治にそれなりに優れることは、正義と離れることとなっても、
世の中をよく動かすためには必要なものだ。
墨寧はその点について非凡なものを備えている様子だ、周雲はそれを学ぼうとしている、
そこまででこの件について考えるのはやめた、
先の会話でもう一つ浮かんだことを整理しなくてはいけない。
彼の言葉によりはっきりと自分の心も知った、
襲ってくるのは、自分が属する天帝派かもしれぬ。
それでも、私はそれを退かせると誓ってしまった。
忠臣と呼ばれてきた自分に不思議を感じるほどの異体である。
だが、毛ほどの後悔も感じていない、どういうことかはわからないが、
言った以上、その仕事を守るのが己。
「周雲殿」
「どうした、典晃」
「部下を増やしていただきたい」
「おお、ようやくその気になって貰えたかな?」
「いや、墨寧様に護衛を任されました」
「墨寧様が…話してくれるか」
「近く襲撃があると考えている様子だとか…」
周雲は典晃から墨寧の言葉を伝え聞いた。
墨寧の政治にかける熱意は感じいっている、
いや、民草にかけるべき情熱を、自分の保身に代えている。
そういう風にとらえるべきだが、
墨寧の保身は、やがて民草に繋がる、繋げなくてはならない。
周雲はそう考えている、墨寧のはいつくばりながらも前に進もうとする力は凄い、それは認める。
その力の使い道を糺す、それによって周雲は自らの志を達することができる、
そう結論づけた。
「10人くらいしか付けられぬ」
「充分です」
「頼んだ」
かくして、典晃に岩倉県の屈強と思われる若者10人が与えられた。
めまぐるしく変わるこの土地の景色、
ずっと留まり続け、絶望にいた県民からそれらに不平が出ることはない、
そう思うと、土地の恩恵に授かったとも思われる。
ともあれ、墨寧が懸念した襲撃に対して、周雲から典晃に部下が与えられた。
☆
さらに一月ほど過ぎた、翁がまだ帰ってこない。
その間に水を引いた荒れ地に柵が立ち始めた。
「なるほど、墨寧様、土地を肥やさずということで放牧を思いつかれたのですね」
「……私はもともと北の出だからな、馬には慣れているのだ」
「感服しました」
晴れ晴れとした声で周雲は言った。
水を引いて、低草が繁茂するようになってきた、
よい牧草となるのかもしれない。
農業しかないと考えていたが、そういう凝り固まったことを考えてはいけないと学んだ。
水を売るという手もあると思っていたが、それには少し量が足らない、
農業を始めるには土地の改良を考えれば、相当の時間が必要だった。
だが、放牧なら馬さえ居れば、あとはなんとかなるんだろう。
周雲は何度目かの感嘆を墨寧に覚えた、ともかく利益ということに関して、
短絡でいて、周到なそれを用意できるのはこの男だけだろう、自分はまだまだだ。
反省をしつつ、一つ気になっている話題を出す。
「しかし、戻りが遅いですね」
「良馬を選んでこいと言ってあるからな、簡単には戻ってこないだろうさ」
てきぱきと書類を片づけている。
周雲もそれを手伝っている、外は日が落ちて仕事も解散している。
県民は相変わらず文句も言わずに働き続けている。
むしろ勤勉に学ぶ姿勢も見られるようになってきた、
先生は周雲が担当しているが、その説明がよいせいも当然あるだろう。
思ったよりも上達が早い、万事、良好である。
役人二人が、残業をこなしている頃、外、
「…風?」
夜間の巡視をしている典晃が呟いた。
昨日まで無かった風が強く吹いている。
「持ち場につけ、来るぞ」
「え?どこから」
部下達が戸惑いの声をあげている、一人冷静な典晃。
風上からか、
敵の目的が破壊である以上、火を使ってくると見た。
闇から、迫ってくる物音がある。
「5人、賊かっ!!!!!」
ずわんっ、言うや否や、典晃の矛が一閃した。
一人の賊がそれに薙ぎ倒された。
部下の県民達も手にとった槍で闇からの敵を迎え撃とうと一列に並ぶ、
巡回の一人が松明を投げつけた、ぼんやりと離れた所が明るくなる、
3人くらいの人影が見える。
「一人足らない?」
典晃が不審に思った刹那、その真横を滑空するようにすり抜けた黒い影。
「いかんっ、馬に乗っているのか」
馬上の敵を逃した、追おうとする背中から、
徒歩の賊が迫ってくる、仕方がない。
典晃は振り返りながらまた一閃を放つ。
「後衛っ!!!馬を追えっ、ここは私が掃討する」
「はいっ」
言われるままに8人ほどが慌てて走り去った。
残りの2人と典晃でこの場の敵を倒すことにした。
数では五分だが、なにせ素人ばかりだ、
相手が賊徒である限り、戦闘能力の差が非常に大きい。
部下とした彼らに敵を倒すところを見せよう、そういうつもりで典晃が構え、
待つ間もなく、すぐに前へ出た。
どごっ!!!
一撃でまた一人を倒す。
矛の尻の方を使った、殺さないで相手を捕まえるため、
さらに旋回させて、一人の首もとを強く殴りつけた。
ぐらり、よたれた所にもう一度足を叩く、もう動かない、
あと一人。
「……典晃か」
敵が呟いた、答えるかわりに矛を前に出す。
会話をする気はない。
そして相手が何を言っても、それは耳に入らない。
典晃の中で、相手が呟く言葉はこの戦闘に関わりのない情報だ。
よって、切り捨てる。
「せいっ、ぁあああっ!!!」
どごっ、強くついた。
しかし若干浅い、そのせいか敵はそのまま逃げ出した、
追うか?思う背中で喚声が聞こえる。
馬の男に手こずっているか、そちらに急がなくてはならない。
「いい、捨てておこう、あちらに急ぐぞ」
見ていただけの仲間を引き連れてそちらへと向かう、
喧噪の場所は思ったよりも近く、しかも、既にそれは捕らえている様子だ。
これは意外な。
と、典晃は思った、近づいていくと松明にぼんやりと浮かぶ顔が見えた。
「墨寧殿が?」
「おう、典晃殿、そちらは片づけていただけた様子、ありがとう」
相手はもう縄で縛られている。
どことなくいやらしい感じで縛られているところが奇異だが、
とりたてて怪我の様子もなく墨寧がその縛り上げた敵の上にどっかりと腰をおろしている。
「いや、一人逃しました」
「かまわない、この程度だろうさ、相手も本気ではない、そなたを置いた時点でそうだよ典晃殿」
「墨寧様」
二人の会話に周雲が入ってきた。
周雲は、驚いた様子で走り寄ってくる。
「墨寧様、いきなりいなくなったかと思ったら」
「いや、風が強かったからな、火を使うなら今だと思ってな」
談笑ではないが、そういう和気藹々としたところに、
風にのって、大きな馬群の音が聞こえてきた。
「!?」
「この音は」
「狼狽えなくてもいい」
狼狽した周雲と典晃に対して、墨寧はやんわりと言った。
この男はどこまでわかっていたのだろうか、
周雲と典晃の二人は、驚嘆だけしか抱くことができない。
墨寧のみがその音の主をわかっていた様子だ。
そして襲ってきた相手を天帝派と決めつけている、
それを本当だと思わせるくらいの自信を見せている、
馬のひづめの音はいよいよ近づいた。
「墨寧様」
「遅かったな、翁」
「馬、100頭を揃えましたぞ」
「重畳」
かくして、放牧場の中にとうとう馬が揃った。
墨寧、周雲、典晃、影翁、
それらが揃い、100頭の馬と200人の県民に囲まれて、
この夜が終わる。
襲ってきた相手が何方なのか、それは敢えて訊ねず、
墨寧は全てを解き放った、その解放際にこう告げている。
「役人殿に伝えよ、約束は違わぬとな」
周雲達にはわからない、そして説明もしない。
相変わらずそういった不審があるが、
ともかく、この土地に放牧という新しい文化が始まったのは確か。
噂になっている最後の納税を済ませに墨寧が旅立ち、
この月が終わりを告げる。