3−1
突然の人変わりに周雲は不信を募らせていた。
周雲から見て、お上の言うことにだけ注意を払い、
民のことなど考えることもない、必要もない、
そう言い放った男が、突然お上の意向に背く行為を肯定したのだから。
「周雲、次はどうすればよいと思う」
「早く貯水池を作りたく思いますが…」
「高台にどうやって水を引くかだな…やはり難しい」
二人が頭をあわせて真剣に治水工事のことを考えている。
その方法については、まだまだ、
かなりの難所があり、現状の目標は、
引き当てた水場を井戸に、さらに大きく貯水池に、用水路の整備、
これらをしなくてはならないだろう、周雲はそう思っている。
一度、墨寧に訊ねてみたが、墨寧も「さもありなん」とそれに賛同した。
やはりこの人は、頭があまりよくないらしい。
周雲はそのやりとりでそう思った。
目を白黒させながら、実際どうしなくてはならないのか解らない様子で、
そういった事が墨寧の得意とするところではないのが解った。
墨寧がこの事業を成功させないといけない、そう考えているのは理解できるが、
それに対する方策は全て周雲が提案したそれになった。
周雲は考える。
この人変わりは、おそらく上への新しいおもねりの方法だろう。
それを利用して、それがこの男が出世する方法だとしても、結果、民が喜ぶことをすればよい。
大人の判断ともいえるが、それは言葉として発声するほどやさしいことではない、
智恵がいる。
「墨寧様…」
「おお、翁どうした」
「省から使いが参られると」
「そうかわかった……周雲、工事の方は任せた」
言うなり忙しげに墨寧はその場を去った。
相談をするようにはなったが、相変わらず、
どこからかやってきた役人などの相手をし続けているのも確か。
悪い相談をしているのだろうかと勘ぐりたくなる。
「周雲様」
「!…これは、翁殿」
一緒に去ったかと思ったが、その場に残っていた爺に、
少々驚きを覚えつつ、その瞳を見る。
相変わらず何を考えているかわからない目だ。
「墨寧様は中央役人と話しながら、この地の取りつぶしを阻止することに懸命となっております」
「なんと?」
「今回の件、墨寧様はあなた様に先手を打たれた状態になっておるのですよ」
「そのような、勝ち負けの問題ではないと思うのです…話し合えればよいと常々思っているのですがね」
にやり、翁は不気味な笑顔を見せただけで、
それについては何も言わず、別の言葉を継いだ。
「ともあれ、お二人はあまりお話をせぬ様子ですから、わたくしが橋になりましょう」
くっくっく、翁は笑い、影のようになって消えた。
不気味な男だと周雲は感じている。
悪い役人が暗殺者を雇うという話はよく聞くが、
まさにそれではなかろうか、そうとも思うが、
最近、この二人を観察していて、主従という関係ではないものを見出すようになった。
利害関係が一致しているというか、縦よりも横のような関係、
この老人は、たやすく墨寧を裏切るのではないか、そう思える瞬間が時々ある。
薄情な関係だが、墨寧はそれを良しとしている、むしろそれを好んでいるのかもしれない。
「どちらにせよ、味方がいることはよいことか……味方か」
周雲は、改めて地図を見た。
自分の頭脳では、どうやっても時間がかかる手段しか思いつかない、
ただ、それでも大局で見れば間違いのない理想的な、
そして、時間、費用、これらが揃えば絶対に達成できる目標を立てている。
現状はそれを許されない、息詰まっている感じがする。
外では、大きな声を出しながら、それでも働き続ける県民が何人も見える。
まもなく昼休みとなるだろうか。
「味方……探してみるか」
周雲は思い立って外へと出た。
自分に足らぬ所は、足りる者を探してくる。
周雲は、何の変哲もないこの思いつきが、
どんなに優れた策謀よりも勝るように感じられていた。
☆
「これはこれは、使いの方、遠路はるばるようこそ」
「いや、気遣いなく」
「このたびは、どのような御用向きで?」
墨寧は、ことさら慇懃に相手の様子を伺う。
省から来ているから、十中八九、宰相派のものだろう、
墨寧としては、予定通りだと思っている。
「なに、随分とこの土地で羽振りがよいとのことを聞いてな」
「帳簿を見られましたか、いやはや、毎度少ない納税額でご迷惑をおかけしております」
「いやはや、しかし流石は墨寧殿、森近県での活躍も聞いておりましたが、こうも早くに、
この地にて結果を出されるとは…」
嫌味な顔でそう言う。
これは皮肉だよ、そう告げたそうな瞳が心地よい。
墨寧はそう聞いて、それを、言葉の通り受け取ったふりをする。
「いや、お褒めにあずかり恐悦至極、内心は怖いのでありますが、安心しもうした」
「はて?」
「先日、州のお偉方がたまたま通りかかられたらしく、そこであまり派手にするなと言われておりまして」
「ほう」
使者はがらりと瞳の色を変えた。
それは墨寧を疑う瞳の色だが、墨寧は馬鹿を絵に書いた面構えで、
とうとうと続ける。
「お上の意向に背く形となるため、いつかおしかりを受けるかと思っておりましたが、安心しました」
「いや、お上の意向に背くのはよくありませんがね」
「ははは、ご冗談を、郡令様の言葉ならいざしらず、州の役人の声など聞かずともよいかと」
言葉裏、墨寧が伝えたいのはこれだ、
『宰相派の声は聞いても、天帝派の意向には背いている』
当然、分かり易すぎて、そして、嫌らしすぎるこの言葉、
使者は不快感をたっぷりとするが、その情報だけは得たことになっている。
正式には、不快感のため私感が入り、歪んでしまった情報を得ている。
墨寧の真骨頂だろう。
「墨寧殿は、かなり勉強をされたのですかな」
「それはもう、以前ので果たして、懲りました、この通りでございます」
頭を垂れて、そして、そすっと机の下から包みを渡した。
ぬかりが無さ過ぎて、白々しい、
使者は、この男の下品なところがことのほか気に入らない。
見聞きする田舎の政治家の姿そのままではないか。
「このような田舎づとめ、私、ただ、平穏に暮らしたく考えております」
心を透かしたかのような言葉で、使者を馬鹿にした笑顔を見せている。
使者は、頭に血が上ってきているのを自覚した。
少し落ち着こう、こいつは生まれ持ってこの顔なのだ、可哀想な馬鹿なのだ、
そうやって自分に語りかけた。
その様子を見て、翁が頭に描く、術にはまったという言葉。
「あいわかった、ともあれ、また次回の納税の時にでもまた話をさせて戴こう」
「は、その時はよしなによろしくお願いいたします」
途中まで道案内をし、県境で何度も礼をして別れた。
相手が見えなくなってもしばらくそうした、ここまでしておけば当面よかろう、
墨寧は急ぎ県庁へと戻る。
すがら、工事の風景を見ている。
徐々に進んできてはいるが、遅々とした進み具合だ。
周雲はこの遅さをどうにか打破しようと頭をひねっているが、
墨寧は、遅いなら遅いでともかく力づくでも先へと進めようと考える。
だから毎日仕事をさせているし、
考えることは放棄して、ごり押しすることばかりを考えてムチを振るう機会を伺っている。
「墨寧様」
「周雲か、どうだ、進み具合は」
少し離れた所で周雲が、県令の姿を認めたらしく大きく腕を振ってから近づいてきた。
面倒な、思うがとりあえずの会話はしておきたい、
墨寧なりに見ていて、少なくとも、周雲が指揮を執っている間、
作業の効率と進み具合が好転する。
どういう作用かはよくわからないが、ともかく、県民はこの男を信用しているとか、
そういうことなのだろう、くだらない、だが利用せねばならぬ。
「少し足らないものがありますが、なんとか進めております」
「何が足らないのだ」
「やはり、木材が足りませぬな、古い屋敷などを取り壊して材を得ましたがそれもまもなく」
「それさえあればよいのだな」
「と、言われますと?」
「三日待て」
言うと墨寧は、また急いで県庁へと足を向けた。
翁を探す、書斎にて茶をすすっている。
「翁、仕事だ」
「これはこれは」
「森近県へな」
「ほう…久しぶりに、らしい、仕事でありますな」
「まぁ、そうでもないが」
墨寧は、影翁を使って森近県から木材を買ってこさせることにした。
少し前に補充した生木があるはずと踏んだのだ。
木材は何年か寝かさないことには使えない、だから、
寝かせていない木材は、使いづらいだろうが安いはずだ。
それに、ツテのある商人が居る。
「三日で戻ってこい、頼むぞ」
「三日と言いますと、ああ」
まもなく、天帝派の使いが来るだろう。
墨寧がそう定めた日が三日後になる。
☆
周雲が呼び出されたのが昼少し過ぎくらいだったろう、
辿り着いてみると、そこには物々しい護衛を連れた一人の男が見えた。
護衛は5人、中心に役人の装束をまとった男がいる。
「あれは?」
「なんでも州のお役人の一人だとか…」
「州!?…なぜ、そのような人物が」
いつも不気味な笑いを浮かべている影翁ですら、どこか声が小さく萎縮している。
あれがそうなのか、中央の役人という人種を初めて目にする周雲。
見た感じでは利発そうだという印象が一番強い、
それでいて、心の強さだろうか、威圧的な風を感じる。
その役人と向かい合って、膝をつくどころか、
頭をこすりつけるかというほどの礼をしている墨寧も見える。
少々遠巻きで、翁と周雲はその姿を見守っている。
「約束を守っておらぬそうだな」
「いえ、決してそのようなことは」
「ほう?郡の輩には、そう伝えておるというではないか」
「何かの間違いでござい…」
「州の言うことは聞かずともよいとか、まぁ言葉など信頼できぬこと、外の様子のほうが雄弁であるな」
言いながら、窓の外、整いはじめている灌漑施設をじっと見つめた。
役人は、たんたんと、当たり前の事を言うだけなのに、
言葉だけで墨寧を追いつめているのがよくわかる。
周雲も、自分が叱責されるわけではないにも関わらず、気持ちがすりつぶされるような、
恐怖に似たものを覚えている。
「外にあった木材の山、なるほど、森近県は、そなたの前職場であったな」
「ははっ」
「さて、これ見よがしにその出自がわかる、森近県の烙印を押された木材…あれは、どういう意味か?」
「いや、この工事に際してどうしても必要なため、古くのツテを辿り買い求めましてございます…」
「どうしても必要、それは、あれか、貴様が宰相派と繋がっていると、我に言いたいがための策か?」
「め、滅相もございません」
「ふーん」
役人は、やや口早、そう感じるようなテンポのよい口利きで、
墨寧が謝りの言葉を繋いでいる途中で、すぐに次の指摘を繰り返している。
どれもこれもが図星なのが、とてつもなく重く響いている様子だ。
周雲、影翁共に畏れている、
周雲は、あまり見てこなかったが、それでもこの墨寧という男のやり口が、
あざといまでの罠と、わざとらしい設定で相手を挑発して勝負するそれだと知っている。
そして、それが今までことごとく当てはまってきていたのも見た。
だが、今は、まるでそのハッタリが通用していない、
いないどころか、ハッタリが完全に悪い方向へといざなわれている。
「あとあれだ、何度かやってきている省や郡の役人とも、同じように会っておるとのことだな」
「はっ、小役人故、ご足労いただきました方全てに、このように頭を下げて」
「ほう、それらと同じように、今下げておるのか、この州の役人に対して、三下役人と同じようにか」
「も、申し訳ございませんっ」
「貴様は口と人間が軽いと見えるな、賢くもない、やりようも悪い」
「……愚図故に、間違ってばかりおります」
「なんだ、我に間違いばかりを申すと言うか」
「〜〜〜〜!!」
顔を真っ赤にして、もう、ただ、平謝りに謝るしかない墨寧。
恥も外聞もないとはこのことだろう、
いつもなら、こういう演技だとわかるのだが、
影翁も初めて見る様、本気でどうしようもなくなっている。
他愛のない揚げ足取りだけだというのに、その威風からくる重圧に負けて、
いつもの調子をまったく出せないで、ずるずると情けないままとなっている。
「まぁよい、貴様が間違ったことはわかった、即刻あれを破壊せよ」
「そ、それはっ!!!」
墨寧が即答するかと思った周雲が、すぐに口を挟んだ。
それは困る、墨寧をどれだけ追いつめようと知らないが、それは困るのだ。
周雲は思わず身を乗り出したが、すぐに側近と思しき使いが立ちふさがった。
「よい、典晃さがれ、そなたは周雲であったな、なかなかの慧眼の持ち主と聞いておるぞ」
「いえ、このように軟弱で、まだまだ至らぬことの多きものでございます」
「ならば、至らぬ者のことなど聞くまでもないな」
するりと、役人は切り返してきた。
だが、ここで墨寧のようにやりこめられない。
周雲は、さらに鋭く切り返す。
「至らぬまでも、愚者の訴えをなにとぞお聞きとげください」
「愚者のことなど」
「は、ご助言でありましたらお耳にいれることもありませぬが、訴えは違います。
地を這う虫にしか見えぬものもございます、なにとぞ」
「ふむ、まぁ、よい、なんだ」
「この土地の民が荒む故に、土地を枯らしておられると聞き及びました」
「さもありなん」
「しかし、それは根幹が間違っておられます、荒む民が多いのではなく、
土地が枯れているから荒まざるを得ないのです、彼らは皆、もとは心根の清い、
そして勤勉な民でございます」
「信用ができぬな、何よりも、今までの事実が、貴様の言葉よりも雄弁に真実を語る」
「否っ!、真実ではございませぬ、破壊を命ぜられた施設をご覧ください、
あれをわずか15日で、この何もない土地で構築せしめたのです、
彼らの勤勉さは並大抵ではございません、ただ、指揮を執る私の知能が足らぬため、
ややも遅い進行となっておりますが、決して中央やその他の工を生業とする人族に劣るとは、
到底思えませぬ」
「ふむ…それでどうすると」
「しばしの時間を頂戴いただけましたら、県民全てを立派な工の人として、国のため働かせます」
「ふーん」
「彼らは、今まで税を知らぬものでしたが今は異なります、身を粉にして国のため、そして、
自分たちのためとして、働くのです、この力は万人が集まる時にかならず役立ちます」
「万人が集まる時な…」
役人は少し黙った、小やかましいわりには、大した内容もない。
だが、驚いたことに情熱でこれを語る、希に見る熱血漢と見えた。
少々煙たいが、この志と心意気は、少なくとも墨寧より遙かによい。
それに、指摘した通り、万人が集まる時、すなわち国家の大事業の際に、
優れた献身的な工人がいれば、それは心強い。
精兵が100人で、2000人の農兵を駆逐することを考えれば、
優れた工人も同じ程度となるやもしれぬ。
「しかし、この土地を肥やすわけにはいかぬのだ」
「どうして」
「お上の意向である」
土地の人間が荒むというのは、本当の理由ではないということか。
周雲はそう感づいたが、隠されている真意が何かまではわからない。
「ともかく、ならぬのだよいな」
言い終えると役人は席を立った。
忙しい身分であるらしく、帰り支度を始める様子だ。
周雲は落胆を隠すこともなく、立ちつくしている、
やがて、役人が表へと出た、慌てて墨寧がそれについて出る。
「墨寧とやら、わかっておるな」
「わかりました、土地を肥やさぬように、それは決して破りませぬ」
「?」
役人は足を止めた。
墨寧の表情がまるで変わっている、先までの脅えた様子は微塵も見られない、
不審に思って、そのわざとらしい台詞に違和感を覚えた。
「未だ、約束は守っております、以前の使者様にお伝えしました通り、あと三ヶ月、
かっきりお納めいたします」
「……話が見えんな、くだらん駆け引きはよせ」
「土地は肥やしませぬ、そして、最終月は、大きく祝儀を載せて納税させていただきます」
「………私は、お前の事が嫌いだよ」
くっくっく、墨寧はその言葉を受けて最高の笑顔を返した。
役人はそれを見て、不快だと感じて、一つ気付いたことがある、
ここまで分かり易く、人生にしがみつこうとしている人間は価値があるのかもしれん、
そう思わせるために、この男はこういうことをしているのだろう。
もうどこまでが墨寧に誘導された考えなのか、自分が導き出した考えなのか、
わからないようになってくるのが不快だ。
だが、この男のこれは才能なのだろう。
これで殺されないで今に至っているというのが、何よりも凄まじい能力である。
役人は静観することにした、ただし、
「典晃、貴様はここに残れ」
「は」
「見張れ、いや、手伝ってやれ」
「かしこまりました」
「……随分と、嬉しそうだな」
「いえ、そのようなことは」
「周雲とやら、お前が探している主人になるか?」
役人は突き放すようでもないが、真面目な顔で典晃にそう問いかけた。
典晃は真っ直ぐに瞳を見返して、小さく首を横に振った。
「それはまだ、わかりませぬ」
「そうか、お前を失うことは私にとって、何にも代え難い辛さがある、あるが、約束は約束だ」
「申し訳ございません」
「はげめ」
言い残して、従者の一人をこの地へと置くことに決めた。
典晃と呼ばれた大柄の男は、この役人の護衛役、
信用にたる人物として重宝されていた。
義侠に厚く、以前どこかの豪商のもとにいたらしいが、
その主人が病に倒れ、別れの際に、よい主人の下で働け、
そんなことを言われて、ただそれを実行するために生きている。
役人は、腕が立つということで側に置いていたが、その潔癖さを気に入り、
天帝の側のいずれかに推挙しようと思っていたが、
あくまで主人は自分で見つけたいとのことで、それを固辞した過去がある。
「典晃ともうします、力仕事の類ならば、なんなりとお申し付けください」
「それは助かります、一緒に働いてくださるとは、ありがとうございます」
周雲は屈託のない笑顔でそれを迎え入れた。
墨寧は愛想笑いをしている、翁も似たような顔をしている、
簡単な挨拶のあと、すぐに工事にとりかかる。
あと3ヶ月、墨寧は空を見て、自らも現場に向かった。