最終話
燕雀とは小さな鳥のことを指す。
彼らなりに必死に生きてはいるが、
その声は小うるさく、また臨める高さは大鳥のそれに及ばない。
そんなものだと言う。
鴻鵠とは大きな鳥のことを指す。
鳳凰や大鵬といった、天を覆い尽くすほどの翼を持ち、
数多の生物の頂上を優雅に羽ばたく大きな鳥。
その声は天を貫き、その視界は下界の全てを臨む、
そんなものだと言う。
燕雀鴻鵠とは、
小さな鳥には大きな鳥のことはわからない。
そういう有名な例え話を短くまとめた言葉だという。
☆
「ようやく片づいたか」
「長いことかかりましたな」
「まったく、鬱陶しいことこの上ない」
中央役人と南州州令は愚痴大会を始めている。
酒を傾けながら、よほどこの二人の仲はよいと思われる。
酒は清酒だ、この頃流行りの透明な飲み物、
すっきりとして飲み過ぎてもさほど翌日に残らないため、
広く親しまれるようになっている。
肴は、鶏肉を油に通したものに甘酢の餡をかけた凝ったものだ。
雇われの料理人があり合わせで作ったらしいが大層美味そうである。
「中央はいかがですか」
「元に戻った、ここ数年のいかがわしさが嘘のようだ、天帝、宰相様ともに満足な結果だろう」
「自浄作用というのも考慮せねばなりませぬな」
酒をあおった、中央役人は苦々しい顔を一つさらした。
清酒とはいえ、やはり飲み過ぎては身体に障るのかもしれない、
しかし、肴がうまければ自然と酒は進むものだ。
苦い顔は、おそらく、その話の内容によるところなのだろう。
「今後、このような大乱は起こすわけにはいかん、騒乱という汚点を残した」
「確かに、しかも根絶はできませなんだな」
「そうだ、結局つきつめても完全に消し去ることは無理なのだ」
この話とは異なるが、投降した反乱に荷担した者達は、
ほとんど全てが斬首など、極刑とされた。
一度罪を犯したものは易々と二度目を行うと、
信憑性は無いが、さもありなんとも思えるそんな戯言を畏れての醜い所作だ。
この様子を見て、中央役人の高級官吏は二度とそのようなことを起こしてはいけない、
そう強く思うのだ、起きたことは仕方ない、
次に同じことを起こさないようにするのが彼らの務め、
反省の位置が違う、死んだそのものに対する畏敬は無いのかもしれない。
「どこまで絞っても漏れる、ならばいっそ絞ることなく最小限にくい止めるのがよい」
「その通り、絞りすぎると袋が破れます、穴が空いては大変ですからね」
裏切りは最前線でいくつも起きていた。
捕まえたはずの反乱兵の何人かが、忽然といなくなるなど茶飯事だった。
帝お仕えの兵隊でありながらも、買収される、あるいは、
その一時の感情によって、可哀想だと感じて敵を見逃す輩がいる。
その考えは立派かもしれぬが、それが大乱の芽となりうる。
しかし、こればかりは、人間である以上無くなるわけもない、
そこを考えて、また、酒を一つ不味くした。
「ともかく、過ぎたことはよしましょう、また教訓を得たのですからね」
「そうだが、州令、貴様罪人を囲ってどうするつもりだ?」
「お耳が早い」
「当たり前だ、まさかお前が取って代わろうなどと思っておるまいな」
ははははは、州令は大きく笑った。
到底そのようなつもりはない。
それを解って、二人は会話しているが、
その台詞はやはり面白いと覚える様子だ。
「天帝派、宰相派とは馬鹿なことです、もっとも延という国を保つためには、
そういう仕組みが必要なのは重々承知」
「州令どもは本当、悪党揃いだな」
「何を、これほど国を思う人物は他におりますまい」
「ぬけぬけと」
州令は5人存在する、5つの州があるのだから当然だ。
ただ、その5人それぞれは、旗幟を明白にしていない、
派閥のどちらというものでもない、念頭にあるのは、
延の永劫存続のみ、その永劫存続こそが、全ての民草を救うと当然信仰している。
正直、天帝であろうと、宰相であろうと国を治める形が乱れなければよいと、
そう思っている厳格な人物だ。
だから5人は、どちらの派に力が偏ること、それを憎みその調整をする。
琴の調律の如く、常に気を配り、日に日に移ろうそれを糺している。
「今後、大乱は起きますまい、となれば軍隊など意味がない、警邏を任とするものを増やします」
「それは当然だな、そもそも軍隊というものがあるから相手が身構える、それもよくわかった」
「ええ、ですが犯罪は好むところではありません」
「犯罪、なぁ」
「無論、窃盗や強盗もそうですが、政治犯もそうです、目論むような輩、しっかりと統治のできない役人、汚職」
「ふむ、今回かなり片づけたはずだがな」
「無くなりませんよ」
今回の大乱に荷担したのは、それなりの思想にかぶれた危険な役人が多い、
それらを一気に粛正できたのは大変ありがたいことでもある。
そうではあるが、裏返すと有能な役人を多く失ったのである、
つまり、今後、地方は混迷が予想される。
しっかりとした統治を行える役人の数が減ってしまい、
自然その質が落ちることが予測されている、南州州令はそれに備えるべく、
今、生きている。
「何時から考えていた」
「さぁ、この度の動乱半ばくらいでしょうか」
「ほう、曹蓋が中央に来るころか?」
「そうですね、あれが入って来た時に事は成ったと確信しましたので、次のことを考えておりました」
「流石、政治家様は違うのう」
「冗談を、貴方もそうではないですか」
腹黒い二人、また酒の旨さがわかるようになったのか、
少し箸が進んだ、ほどよい固さの肉は、少し噛むと解けるようにして、
その中に隠していた味を口中に拡げ、そのまま胃までゆるゆる伸びていく。
「戦ができぬ以上、法の強化も急ぎますが、所詮法は人が作るもの全てを裁けません」
「非合法を作りそれらを律するか、自ら、禁忌を破る、ロクデナシだな」
「なんとでも」
「わざと破らせようと考えているかのようだな」
「そうかも、しれませんね」
州令は少し疲れたような顔を見せたが、
まだまだ、その聡明な頭脳は眠ることを赦さない様子だ。
清酒が空いたらしく、また、古い濁り酒が出てきた、
これはこれでよい、濁りがあるものも美味い。
むしろ、複雑で粗雑なそれのほうが良い時すらある。
「腹黒いことだな」
「何を、私の腹には白酒ばかり、ほら、真っ白でござろう」
「うはははは」
言いながら、中央役人も濁った方に手をつけた。
肴は、どちらの酒にも合うらしい、絶妙な料理人の技だ。
人間の究めた技というのは大変素晴らしい。
そういう一つ一つを愛でたい、そう思う輩が役人には多い。
「暗殺を担当する者を育てます」
「なるほど、確かに最も効率のよいことかもしれぬ」
「暗殺にこだわるつもりは毛頭ありませんが、世の中を糺す者を育てます、外法と裏仕事という奴」
「そのサキガケがあれか?」
「ええ、皆、個々にそれぞれ様々な技能というべきか性質を備えております、ちょうどよいでしょう」
「任せるさ」
「無論、ダメなら一網打尽ですしね、犯罪者どもですからどうとでもできます、試験は小さくたくさんが基本でしょう」
「願わくば、その試験がそのまま本番へと移行できるとよいな」
「祈っておいてくださいな」
二人の会話は、つれつれ。
そのまま、あとは他愛のない話題に移ろった。
やれ、天帝の女癖が悪いとか、それ、天帝の女数寄に困ったとか、
ほれ、天帝の女遊びに手を焼くとか、それは不届きなことのはずが、笑って語られるそれだ。
おそらくここ以外のどこでも、天帝のその話題はのぼるだろう、
愛されているのだ、そう思ってよいと考えるとする。
ともかく、この大乱の裏側ではおおよそ上記のようなやりとりが行われていた。
いつも、ずっと、長く、結局支配層が支配をしたまま、制御した、
全て行われるべくして行われた出来事だったのである。
☆
「どうだ、墨寧殿、今晩一杯付き合わぬか?」
「申し訳ない、貧乏暇なし、無能の長仕事、今宵も残業でございますゆえ」
「そうか、働き者だのう、達者で務めてくれ、警邏総監殿」
墨寧は慇懃な笑顔を見せている。
いつになく座った、実によく作られた笑顔だ、
その側で、影翁がいつものように同じ顔で笑っている。
「何がおかしい、忙しいんだ、手伝え」
「わかっております、おりますとも」
「モチを焼く暇もないわい」
墨寧はその後、表面上、先の大乱にて公の将軍として生き残った、
つまるところ、希代の英雄という箔を付けて帰ったのである。
無論、全て州令達、政治妖怪達の仕業なので、
嬉しくもなんともないはずだが、
結果だけ見れば、墨寧は念願であった中央進出を果たしたわけである。
曹蓋の跡目を継いだ形で、警邏の総大将、警邏総監を任ぜられた。
「おい次は」
「はい、西州の、懐かしい岩倉県にて治水の要請であります」
「南から帰ってきてる工夫隊が居たろ、奴らを出動だ」
「生憎、長雨で足止めをくっているらしくまだ到着しておりませぬ」
「だーーーっ、もう、なんで治水工事にいった奴が長雨で足止め喰うんだよっ」
「工事現場と違うところで治水に難ありということでありましょう」
「そこ治させておけっ、こっちはあれだ、北に回す予定だった隊を分隊してつけろ」
「了解しました」
警邏の任よりも、中央からの人夫派遣業務そのとりまとめの仕事をしている。
当然、治安の悪い場所があればそこへ、警邏隊を派遣することもしている、
混乱の後だけに大変忙しい、忙しいが墨寧はよく務めている。
人材の発掘と適材適所を見極める能力のおかげであろう、
短いなりにも務めてきた、歴任の仕事で覚えた、
適当な他人任せも功を奏し、大成している。
「ところで翁、たまには離れていてもいいんだぜ?」
「ほっほっほ、仰いますな、私は見張りでございますよ」
「さて…今度はどっちに着く気だ」
影翁は見張り役として墨寧の側を離れない。
今までと一緒だ、つまるところ、今までも、
墨寧は見張られていたのだと、この頃ようやくわかった。
「お話の途中申し訳ございませんが墨寧様、手を休まれては困りますな」
「…お前は、何時まで経っても小姑みてぇな野郎だな周雲」
「仕事が貯まると民が迷うでしょう、さぁさ、お早くお早く」
そんな会話をしながら、
墨寧と周雲がこの組織の表を飾っている。
炎上する戦場で別れたかと思われた二人の絆は、
結局なし崩しで守られたまま、周雲も憑き物が落ちたように、
あの戦場で見せた非情はなりを潜め、
いつかと同じように、デキの悪い上司に嫌味を言う補佐官として過ごしている。
この警邏隊の内で、特殊部隊として、南州州令の言う特務部隊が養われている。
そこに、その他の者は配属され、部隊員の育成に務めている。
「蔵慈殿、どうか」
「ふむ、腕のいいのが集まっていると私は思うのですが」
徐粛が喋りかけたのは、訓練所の上座だ。
上座は師範に値する者が、訓練風景を見学する場所にあたる、
そこに、現在師範である蔵慈が座している。
視線の先では、その集まってきた「いいの」を典晃が値踏みするごとく、
適当に相手をしている。
「典晃が相手では、話にならんのではないか」
「いや、御大も最近は手加減を覚えられたようですから大丈夫でしょう」
「ふむ、けが人ばかり増やしても困るからな、早く使える人数を増やしたい」
「わかっています、伊乾と鐘豊がそれぞれ募集に走っているようです、しばし」
「朗報を待っているよ」
「それよりも徐粛先生、座学の方はいかがですか」
「ぼちぼちだ」
こんな仕事と生き方があるのだな、
全員がそう思っているかはわからないが、それまでとは全く異なる世界にいる。
それも自分の意志ではなく、大きな力に強制されて従事している。
事実としてはそうだが、不思議と不快と不満は昇ってこない、
過去に目をつむれば、ここまでよいことはないだろう。
「蔵慈殿、いつかここを出るつもりか?」
「どうして、感謝しておりますよ旅人なんて不逞の輩から公人になれたのですから」
「しかし、義侠がそれを赦しているか?お前が恩を感じているという宰相様とは」
「難しいことは私にはわかりません、ただ、義憤などについては貴方のほうが大きいでしょう」
今、南州州令付きとなっている。
州令はどちらの派にも属さない、が、この組織は明らかに天帝派として作られている。
それは全員が自覚できるほど色合い強く打ち出されている。
徐粛は、州令がもう一つ同じような集団を宰相側に作るのではないかと思っていたが、
もう少し思考を進めて、先だっての戦から逃れた生き残り分子が同じように、
宰相に同じ形で雇われると、アタリを付けているのかもしれない。
むしろ、こちらにこの組織があれば対抗処置という理由で、宰相派は作りやすいと思ったのかもしれない。
ややこしいが、ともかく逃走し表世界にいられない人間を増やすと、
治安が悪化するのだけは確かだ。
それらをどのような形であれ把握するため、州令はこうしているのかもしれない。
罪人崩れや、日の当たる場所を避けるべき人物がやがて集められるのかもしれない。
推測ばかりだが、おそらくそうだろうと思っている。
それとは別の話だが、蔵慈は宰相を尊敬していたのだ、今は天帝の下で宰相に向かう側である、
それでよいのか、徐粛はそれを訊ねた。
「宰相様の政治にも感服していましたが、もっと目先にいましたから」
「墨寧殿はモテモテだな、周雲といい、そなたといい」
「鐘豊と伊乾もです」
「仲間外れか、私と典晃は」
苦笑いを見せる徐粛。
「おーし、これまでっ、後はあちらで筆記の試験だ……徐粛、さぼってていいのか?」
「典晃、お疲れさん、どうだ手応えは」
「まずまずだろう、とりあえず頭数を揃える方が先だ、徐々に鍛えていくさ」
「流石、鬼とよばれた軍隊上がりだな」
「言うな、それよりどうした、楽しそうな会話だったな」
「なに、墨寧殿のことをどう思うかという話さ」
「ああ、嫌いだ、好かん」
即答する典晃、悪びれた風もないし当然反省というか、
伺うような様子もない、蔵慈がどう思っているかも知っているが、
己の信条は絶対に曲げない。
「しかし、周雲様が慕われるのだ、我々はそれに従う」
「奇妙な関係だ、貴方達は」
「健全だろう、主君が迷うことがないように補佐をするのが王佐の務めだ」
墨寧を慕う周雲、
それはそういうものなので徐粛と典晃は従う。
だが、慕う周雲に危険が及ぶことはこの二人が絶対に退ける。
その退く手段は、当然墨寧に攻撃を加えるということも範疇になっている。
組織は別に、仲良しだけで組み上げられるわけではない、
仲がどうであろうと、機能さえすればなんでもよいのだ。
構成している全員は、多分、考えるのが面倒というのもあるだろうが、
そういう大人というべきか、考え方をして、今の状態を受け入れている。
考えるとこうなるようにし向けたのかもしれない、
州令は非常に優れた頭脳の持ち主だ。
組織内でも見張りがあることにより自浄作用が産まれ、
意図しない不測の事態を防いでいる。
誰かが面倒を見なくても、勝手にそうなるような規則作り、
それが社会を組み上げる、もっとも確かで最も優秀な手段、
そういう信仰が州令の中にあり、事実、今現在「延」という国の中では機能している。
鳥はトリカゴの中で飼われなければならない。
☆
話は少し急ぐ。
それから半年の経過を見た。
「働けるのか?」
「はっはっは、既に各地の治水や開墾などに精を出しております、成果も上がっておりますよ」
「はぐらかすな、その仕事じゃない」
「わかってます、間もなく仕上げます」
中央役人と州令の会話だ。
総監墨寧の下で、派遣特令として鐘豊と伊乾、希に周雲が、
地方へと派遣されては、任務をこなしている。
その任務の合間合間、むしろこちらが主軸であるかのように、
新しい人材の発掘を急いできた。
おかげで、それなりに人数も揃い、徐粛、典晃、蔵慈により、
実際使えるようになるまで鍛えられている。
すっかり組織の萌芽期は過ごしたといえるだろう。
播種箱の中で育つ幼苗のようなものだ、芽は出て双葉は開いた。
「そろそろ、だな、目の届かない所では早くも腐敗が始まっている」
「そうでしょう」
「使えるようになったのか」
「まぁ、初期構成員だけで本来の仕事ができるわけですから造作もありません」
「そうか、さて最初はどこにするか」
「一番効果的なところを狙わなくてはなりません、こういった機関があると暗にして知らしめるそれ」
「となると、むしろ中央に必要ということか?」
「そうです」
にこり、州令は笑って頷いた。
中央役人はその顔から、またここから随分先のことまで、
考え尽くされた結論が出ているのだろうと感じ取る。
そのままやらせるさ。
無責任にも見えるほどの信頼を置いている。
州令はそう思われていることもわかっているのか、あっさりとその最初の任務の展望を告げる。
「標的はもう決まっております」
「いつやる」
「明日中には」
「!…流石に無理があるだろう、ということはもう進めていたのか」
「いえ、仕事は教えてありますが、目標は告げていません、口の数だけ漏れることになりますから」
「ならば、準備は?それなくして、打開できる仕事内容であるまい」
「ええ、それについては、ぬかりありません」
「もったいぶるな」
州令は、中央役人が焦れる姿を見て、
充分楽しんだのか、詰め寄ってきそうなそれを手で制して静かに言う。
「目標は中央警邏総監、墨寧です」
「…は……いや、なるほど…そうか」
「騒乱中の事もありますし、あの仕事量をこなしたのは褒めるに値しますが、
随分あくどい方法も使った様子、現に気に入らないと覚えられた役人何人かが、
唐突に行方不明となっています」
「それは」
「既に、彼らは機能しているのでしょう、墨寧の指令と思われます、しかし越権行為です」
「表向きの話はわかった、それよりも狙いがあるのだろう」
「戦後の混乱期の場つなぎとしては充分に機能しましたから、そろそろ本格の、
あの地位に相応しい人間にすげ替えなくてはなりません」
「ふむ、確かにまだ墨寧では、功績が足らぬな」
「まぁ、それも表向きの一つですが、一番は奴に裏切りの癖があるところです」
「……」
「かつて鮮やかな裏切り劇を見せている、あれは直るものではありません。
そういう人となりですから、それを発揮する前に摘んでおきます」
その後はどうするのか、中央役人はそこも思ったし、
誰にさせるか、また、それで大丈夫か。
全てに疑問が浮かんだが、全てに備えて答えを用意されている、
そういうのが、州令の表情から伝わった。
これ以上質問すると、自分の知能が足らないように思えてくる。
馬鹿馬鹿しい、そう思ったのか、それ以上質問はしなかった。
「手飼いが増えて嬉しいことこの上なかろう」
「いやいや、これは天帝に仕える者達、私がどうというわけではありません」
「そうか、それよりも天帝がこれを認めるのか?」
「いずれ、必要だと思われるでしょう、それまでに形を作っておきます」
天帝の行動すらも意中にあるのか、
そう思うと薄ら寒いものを覚える。
しかし、こういった妖怪じみた政治屋がいるからこそ、
うまく回っているのだろう、中央役人もその一人である。
この件とはまた、別のところで彼も同じように想像と理想と現実とを、
ごたまぜにして生きている。
「朗報を待っている」
言い残して中央役人はその場から去っていった。
一人残された州令、明日行うが、それをどの時機で伝えるべきか、
悩みが少しだけある、事前に察知されれば、
墨寧は必ず逃げる、そういう男だ。
逃がして、生かしておいてもよいように思われるが、
かつて、州令の考えた構想に破綻を呼び込んだ男である。
頭が悪いくせに、人間も悪いから思わぬことになる、
気味が悪い、だからできれば消したい、そう考えている。
「しかし、それにしても惜しいか…」
不思議なものだ、人望や人徳といった備える天分は、
間違いなく周雲の領域だと思っていた。
しかし、触れているにつれて、不思議と墨寧にも何か感じるところが芽生え始めた。
そうでなくては、周雲、鐘豊、伊乾、蔵慈、さらには影翁までもが、
何かなくては、ついていこうと思うはずもない。
不思議な魅力を備えているのかもしれぬ。
低俗だが、はっきりと自分の輪郭を見せている分だけ、むしろ信頼ができるのか、
理解できないものは頼もしさよりも、恐ろしさのほうが大きい。
やはり、この決断に間違いはない。
「影翁にやらせる、どうか」
「……!、私がいると知っておられましたか」
「当たり前だ、お前がいると部屋の空気が不必要に滞る」
部屋の闇から翁がぬぅと出てきた。
元来、影翁はこの州令に雇われていた。
雇われていながら視察を兼ねてだったのか、ふらりといなくなり、
気付けば墨寧の側で何年も過ごしていた。
過ごしている間も、ちょくちょく州令下へと帰ってきて、
平然と過ごした、肝の太い、嫌な爺だ。
今もまた断り無く部屋の中でじっと影となっていたらしい、
ただ、その気配は中央役人が帰ってからのことである。
昔からそうなのだが、影翁は決して最重要な時分にはその場にいない。
立ち聞きはしない主義だというところが、長生きの秘訣でもある、
年齢に相応しい、知らないでよいことは絶対に知ることがない。
その生き様は感嘆に値する。
「今は、鐘豊、伊乾、それに周雲も外へと出させていたな」
「はい、いずれも地方の統治にまわっておられます」
「仕事は容易であろう、最初の指令である、特務の総監を消せ」
「…大義は」
「公私混同となっておるその様、公儀仕えを己の道理で使ったことによる」
「なるほど」
翁は一つ考えた顔を見せた。
いつもは、笑っていない笑顔を見せたまま、
すぐにでも闇へと消えるというのに。
その不審に、すぐ、身が凍えたのがよくわかった。
産まれて始めて、いや、最初は抱いていたであろう、
この男への警戒が呼び覚まされた、ぬかった、遅いっ我ながら浅ましいっ。
州令は狼狽えて、三歩後ろに動いた、その目線の先では、
考えた顔をそのままゆっくりと笑顔にする爺が座っている。
背後から、もう一人出てきた、まったく気づけなかった、
州令はその顔を見て、さらに驚かなくてはならない。
「なかなかどうして、さて、指令の通りとなりますと、州令様、貴方を殺らねばなりませんな」
「…墨寧、貴様、いつから」
「据えられた時から、こうなるだろうと思ってましたよ、少し時間をかけすぎましたな」
「すっかりと、新たな手足を使いこなしているということか」
「その機関で一番になるのが目標でしたのでね、さておき、どういたしますか?」
「確かに、今回のお前を殺す命令は、言う通り、私の私見による私事であるかもしれぬな」
「そう、もっともまだ発動しておりませんので、その罪は成立しておりませんがね」
墨寧得意の高圧態度による圧迫対話。
脅迫と取引をいったりきたりしながら、
相手の思考能力をすり減らし、最終的に尋常では選ばないほどの着地点へともっていく。
いつもそうしてきた、それだ、この男の一番の能力はやはり、この交渉能力だろう。
州令はこの期に及んでも、まだ、墨寧という一人の人物について、
性質を見極める作業を怠らない、職務に忠実な人柄なのだ。
「矛を収めたら見逃すということか」
「何も、そうはっきりと仰る必要はございません」
「墨寧、お前、どこまで昇りたいと思っている?」
「はて、今回のことでよもや、私が州令の地位になろうとは、流石に考えておりませんよ」
「人臣の身で上れる最上階は宰相だな、墨寧」
「そうでありますね」
「目がそう言っていない」
墨寧の瞳が暗闇によく輝いている。
その顔が一瞬だけ、厳しくなったが、
すぐに相好を崩して、ナイショ話だと、
断るかのような仕草のあとに、少しだけ言葉を落とす。
「宰相五人は、世の中がうまく機能するならば頂点がなにであろうと構わぬと仰っておられましたな、天帝でなくともと」
ぞわ、身の毛が逆立つ。
しかし、すぐにそれまでとは別の顔を作って墨寧はさらに続けた。
「民草を思われるその心は、確かに立派なものです、墨寧その思われる心に打たれて働いております、ご安心を」
「貴様という男は…」
「ご安心を」
にやにや、いつもの顔をしている。
先に言ったこととは表情がまるで違う、
それは、別人が言ったのではないか、
そう思うほど、今、目の前の男はがらりがらりと雰囲気を変えている。
大したタマだ、功績が足らず地位に相応しくないなどと言っていたが、
器はそれになんとかおさまるやもしれんな。
州令はそう思って、破顔する。
「何か、面白いことがおありですかな」
「なに、お前は大したものだと思ってな」
不意に余裕の表情が現れた。
不審だ、墨寧が今度は狼狽える番になってしまう、
この、未だ押しに弱いところは経験が足りないせいかもしれない。
「貴様のその力、やはり失うのは惜しいらしいやめておこう」
「…そうですか」
「不服かな?」
「いえ、あまりにもあっさりとされていて、疑ってしまいますよ」
「ははは、そうか、なら面白いことを教えてやろう」
州令は立ち上がった、勘弁してくれとか、
観念したとか、お前には負けたとか、
なんとなくそういう雰囲気をしている。
そのさっぱりとした負けっぷりが、潔すぎて墨寧のように、
そういう清純さからほど遠い男からは理解できないでいる。
勝った後は、相手が罵るなど黒い泥を吐いてこそと、今まで育ってきたからそう思っている。
「まず、お前がこの場に来て私に手をかけようとするところ、ここまで来られると正直思っておらなんだ」
「……」
「だが、やれる奴ならそこまでやるだろう、私はそう考えていたのだ」
「どういうことですかな」
「私は州令ではない、南州令の影武者だよ」
「なぁっ!?」
驚く墨寧、完璧に相手の裏をかいたと高をくくっていたが、
その突然の言葉に狼狽をそのまま声にだす。
うそか誠か解らない状態ではあるが、その直前の余裕の表情と、
仕草から、その言葉に信憑性を嗅ぎ取った。
「さらにいうと、そうなるだろうと思い、この館、既に囲んである」
「ご冗談を」
「周雲が、徐粛、典晃を率いて囲んでおるわ、まぁ別用があり呼びつけたのだがな」
「…なるほど、私から周雲が離れることは不思議だと思いましたが、州令様が関わっておられたか」
これには影翁も驚いたらしい、自分もたばかられたと、
今気付いた様子だ、墨寧は横目でその表情を確認し、
自分の上位がまったく約束されないものだと悟らざるを得ない。
その場に、人の気配が近づいてきた。
「これは、墨寧様に影翁殿まで…州令様、参上いたしましたが、はて」
戸惑いの周雲が参上した。
墨寧は急ぎ、己の身の振り方の一番正しいところを探っている、
それを殊更愉快そうに州令の影武者は見て笑っている。
しかし、先に言った通り、墨寧の実力について、
消すには惜しいと思ったのだ、どうであろうと今殺すことはしない。
影武者は周雲に告げる。
「何、お前らを労おうとな、それよりも今墨寧にも告げたところだが、私は州令の影である」
「!」
「まぁ、影というと少し語弊があるのだが、州令は5人というではなく5つの型がある、
そのそれぞれに数人が携わっているのだ、わかるか、南州州令という人は数人いるのだ」
「そ、それは…」
「要職になるとな、色々やることなすこと身を晒していると危ない、それに死んでしまった後、
様々に問題が併発する、それを防ぐため、その地位を型にして何人かが演じるのだ」
「そう…な、なるほど」
驚きながらも、周雲はすぐに理解した、
確かに最も素晴らしい方法かもしれぬ。
しかし、驚きの事実であるが、いささか突然の話題のように思われる、
ここに墨寧がいたことから、本来は何か別のことがあったのだろうと思う。
相変わらずのことだな、少し批判の視線を墨寧に投げかけてみるが、
いつものように素知らぬ顔だ。
「しかし、本日はそのようなことのために呼んだのではない、お前達の働きの見事さ、
そしてこれからが本当によく働くことになる、そのために一つの催事を用意した」
「催事ですか?」
「帝への謁見を許す」
「なんと」
驚いた声は墨寧の声だ、分かり易い男だ。
平生絶対に身分のせいでできぬことができる。
そういったことに驚きの声をあげている、やはりまだまだ、
この男は上を見たいと見える、それが原動力となり生きているのだ。
「正規となりえたもの全員の拝謁が叶ったのだ、鐘豊と伊乾は明日には戻るな」
「は、はい」
「明日、夜にそうなる、用意をしておけ、以上だ」
州令はそう言って、その場を散開させた。
外で周雲より事と次第を聞いた徐粛と典晃も驚きの声をあげている、
珍しく喜びの表情というのすら見えている。
それだけの大事だということだ、墨寧も少し惚けた様子になっている。
各人が少しばかり興奮を携えたまま帰路につく、
その途中、墨寧と周雲に会話が起きた。
「墨寧様、先のはどういうことでしょう」
「なに呼びつけられたのよ」
ぽくりぽくり。
二人の馬が同じ音を鳴らして歩く、
少し寄るようにして、二頭の間が縮まった。
「そうでしたか」
「…嘘だよ、わかってるだろう、州令殿と取引をしたのだ」
「命と地位とですか?それとも」
「周雲、お前どこまで見抜いていた」
「なにやら」
「徐粛あたりなら気付いていただろう、州令がいつか俺を殺そうとすると」
「そうですね、させまいと私は務めておりましたよ」
「信じている、が、己の身は己で守る性分でな先手をとってやられる前にやりに行ったのさ」
「ところが、相手の方が上だった」
「ま、そういうことさ」
ぽくりぽくり。
二頭の間が少し離れた、真っ直ぐの道だが、
まだ舗装がしっかりされていないらしく、馬がときおり、
大きく揺れることがある、墨寧はそれをじっと見て、
また次の治安箇所に挙げておこうと考える。
「俺から質問がある、周雲、今日どうしてあの場に居た?」
「……」
「お前は確かに他へと出る仕事ができていたはずだ、
そして州令は本当のところ、お前ではなく、徐粛と典晃を呼んだのではないか?」
「深読みしすぎでしょう」
「お前、自ら『俺を殺すため』の相談をしに行く予定だったんだろう?」
墨寧の瞳はそれを責める調子ではない、
そうだろうと確認をとる優しさに溢れている。
周雲はその瞳から逃れない、真っ直ぐに見返す、
その瞳は、いつもの、出会った頃と同じ、だらしない上司を仕方ないと見守るそれだ。
「そうですよ」
「正直だな、おい」
「それ以外の言葉は欲しくなさそうじゃありませんか」
「そうか、いや、だが、安心した」
墨寧は苦笑いを零した。
この主従の関係は複雑怪奇になっている。
墨寧の中のなんともいえない薄弱な部分が周雲を欲している、
周雲がいれば、自分は外道にならず出世ができるかもしれない、
あるいは、外道となりつつある自分をいつか諫めて欲しいなど、
そんなことを脆弱な部分は周雲に求めているのかもしれない。
周雲はどう思っているのか、それはどうでもいいのだ。
側に優秀な部下がいる、そこで思考を止めるべきだ、
墨寧は、そこまで考えて、もう考えるのをやめることにした。
面倒くさい、いちいち全てに気を配ってると狂っちまう。
「墨寧様」
「なんだよ」
「いえ、ただ、貴方が帝となった姿というのも、見たら面白いと思いましてね、そしたら私は宰相だな」
「周雲、お前」
慌てた様子で墨寧が振り返った。
あたりに耳がないかを気にしているらしい、
やはり小悪党という仕草がこの男にはとても似合う。
周雲は笑っている。
「冗談ですよ、冗談、それよりもこれ以上様々裏切ることはなさいますな」
「しないよ、そもそも俺は裏切った覚えがない」
「ほう、それはそれは」
「俺についてくるとはそういうことだというだけの話だ、それに義侠が無いと言われようと、
そうなのだから仕方があるまい、俺は自分を曲げてまで生き残るつもりがないのだからな」
屈託のない笑顔を見せた。
周雲は、その言葉をとても大事そうに聞いて何も答えなかった。
ばつが悪そうに墨寧が居住まいを少し糺す、
その先に迎えにきたのであろう、一人残されていた蔵慈がやってくる。
「さて、明日が楽しみだな、蔵慈なんぞどんな顔するやら」
「私は、貴方の顔が楽しみですよ」
「どういう意味だ」
「言葉の通りです」
墨寧さまぁ、大きな声が響いた。
答えて大きく墨寧が手をふる、馬は並んだまま道を進む、
驚いた様子で森に居た鳥の群が飛び去っていった。
規則正しく並び、それらは先頭に引き連れられて、
陣を組んで空に消えていく。
☆
「いいか、何度も言っておくか、失礼を働くなよ」
「わかっております、どんだけ心配なんですか」
「…私も公人として長い故、下々の格について思うことがある、それが、
差別や偏見などと罵倒されることもある、周雲お前なんぞそう思っているのだろう、
だがな、やはり、本当の天人を前にすれば、その者の本質が出てしまうのだ、
それはもう生まれついたものだから仕方ない、いいか、何度も言うぞ」
「州令様…そこまで度を失っておられるとは、何かあったのですか」
「これからあるのだ、頼むぞ、本当に」
州令はとんでもなく不安そうな顔をしている。
昨夜、あれほど喜ばしいなどと喧伝していた割に、
今は全く違う、なんというか彼らを完全な下人として、
触れると汚れると言わないかというほどのいいざまだ。
今までなかったことだが、久しぶりにむかつく、そんな気持ちを、
全員が抱いてここまできている。
水先案内人として失敗してるようにも思われる、というよりも、
「不思議だな、本来州令様ですら、俺達では話などできぬというのに」
「まぁ、なんというか、身分を感じさせない人ではあるな」
徐粛が遠回しに、威厳がないなどと揶揄してしまうほど、
彼らは、目の前の州令を対等のように見てしまっている。
もしかしたら、昨夜の州令とは別の州令なのかもしれない、ただ顔はまったく一緒だし、
それを確かめる術などない、そんな勘ぐりをしてしまう、
そういう所が州令の心配を産んでいるのかもしれない、そう思ったが、
そうではない。
やがて大きな広間に通された、待つように言われる。
「まもなくだ、全員、いいか、失礼を」
「働きません」
全員で口を揃えていう。
子供じゃあるまいし、そういうことを思ってしまうのだが、
どうにも、様子が弛緩しきっている。
そこへ、靴の音が聞こえてきた、はた、気付いて静かになる、
静かになるが、空気が張り付くようなことはない。
不思議と、弛みはいよいよ頂点に達する、靴の音が生で響いた。
「待たせた、お前らか、いい、頭をあげよ」
「はっ」
全員が顔を上げる、自分たちが緊張していないその事実に、
何か、不安を覚えているままだ。
その不安が判断を鈍らせた、どれだけ許されようと、
帝の顔を直視することなど許されるわけもないというのに、
全員が顔を上げる、そしてその目でしかと見る、
アホ顔だ。
呆気にとられる、徐粛と周雲など頭のいい奴は、
何かの罠だと思ったのか、そのまま驚いて目を見開いたまま、
真面目腐った顔でそれを見る。
なぜだ、なぜ目の前の男は鼻の頭を指でつり上げながら、
白目を剥いて、あまつ舌の先で鼻の穴をほじっているのか。
馬鹿な、理解できん。
「…………あれ、ウケねぇな…」
「帝っ、何をしておられるのです、呆気にとられておるではないですか」
「いや、ほら緊張してるだろうと思って、こうなんだ、ほぐしてやろうとしたんだが…」
「え、本物?」
「なんだ、今のは、本物の馬鹿かどうかと訊ねているのか?答えてやろう、本物の馬鹿だ、うははははっ」
高らかに声をあげて男は大笑いをした。
まだ何もわからない。
居並ぶ男達は、唖然として、ただ目の前の人物を見つめる、
最初、お付きの者全てはその高笑いをする男を諫めるというか、
子供を叱るみたいなことをしてばっかりだったが、
はたと、馬鹿みたいに惚けている集団に気付いて一喝。
「阿呆っ、貴様ら頭が高いであろう、直視できると思うてかっ」
「いや、でも、これ」
「これとか言うな馬鹿者っ!!!」
「ほら、だから言わんこっちゃない、この下々の出がっ、敬えともうしたであろう」
「ああ、し、しまった…いや、でも、え?」
閑話休題。
「さて、楽しい面会もこれまでだ、残念ながら朕もなかなか忙しいのだ」
「はは、お声がけいただけまして嬉しく思います」
重々さが足らない、筆頭であり口上を伸べる役を墨寧がやっているが、
どうも、もう一つ慇懃さが出てこないで四苦八苦している。
「朕の失政のため、お前達には苦労をかける、先に謝っておく、すまぬ」
「…」
初めて、男達はその場所で緊張を覚えた。
目の前の人物が入れ替わったのではないか、
そう感じるほど、居住まいが者変わりを催した。
ちりん。
涼しげな音が一つ響いた、また緊張が幾ばくか薄らいだ。
そこに、麗々とたなびく、よく通る高貴な音が通った、
鼓膜を振るわせるそれは、冷たく透き通って、
それでも優しさを失わない、判然として聞き間違えることがない発音。
これは、まさしく天のそれだ、
このお方は、天帝であらせられる。
全員は、気付くと全身にうっすらと汗をかいていることに気付いた。
緩やかで涼やかな気配なのに、身体は緊張を高めている。
「この鈴は、朕が手ずからお前達の名を彫り刻んだものだ」
手から、少し大きめの鈴を一つ下げている。
墨寧達はそれを見ることができないが、
面に「墨寧」と彫り込まれている。
複雑な細工は他の職人が行ったのであろう、
名前の部分だけ、やはり、他よりも細工が劣る、劣るが、
それ故にその場所は、間違いがなく天帝の手より産まれたのがわかる。
下手ではある、が、不味くはない。
そんな細工だ、音はただただ、とても涼やかでいずこでも誰の耳にも、
おそらく、耳が聞こえない者にも響くであろう、
そんな魔術めいたものを覚える鈴だ。
「朕は随分と不自由でな、だがだからといって、決して民を迷わせるわけにはいかない、
お前達にその代わりをして貰いたいのだ、頼む」
「はっ!!!」
先の気の抜けた返事とは全く異なる。
男達は、頭を垂れたまま、精神から、全身全霊をもって、
頭を垂れた、目の前の男に大して最敬礼を行っていた。
「この鈴を持つことで、朕の代わりとなることを自覚せよ、民を思い、
民のためになるよう生きて欲しい、そして、お前達に名を与える」
天帝はそれだけ言うとその場で、
少し下がった様子だ、面を上げよ、付き添いの文官の声がした。
恭しくまた頭をあげる、天帝の姿は御簾の向こうにある、
続けて文官が続ける。
「本日より、貴様ら警邏特務を『鈴音御使』と名付ける」
「ありがたき、幸せっ!!!」
「帝に成り代わって、世の平穏を守ることに務めよ」
「はぁっ、身命を賭しまして、任務を遂行いたします」
「帝の退出である」
ば、また男達は頭を下げた。
靴の音が遠ざかっていく、潔さというべきか、
洗練された、美しさがそこに残った。
全員の心にもっと語り合ってみたい、そんな残滓もあった、
退席を促される。
「…これで我々は、名実共に、天帝の直属となったわけだな」
しみじみと墨寧は呟く。
誰に言うわけでもない、言い聞かせるようにそう告げる、
全員の顔から、憑き物が落ちたように、
晴れやかな姿が見受けられる、それを見て州令が言う。
「よいか、貴様ら、こうなった以上、言葉の通り身命を賭して務めよ」
「わかって、おります、州令様」
州令への礼儀も戻っている。
あの不躾な様は、天帝という人が近くにいることにより起こるのかもしれない、
天帝の弛緩した空気が全ての人間を和ませ、天帝以外の平等を知らしめる、
そういう状態だったのかもしれない、詮索するのは無駄なことだ。
こうして、鈴音御使という、天帝直轄の特務部隊が成立した。
この後、その力を駆使して延の国に平和と秩序をもたらすこととなるのは別話。
その創生に、数人の男達が携わったのである。
「周雲」
墨寧が呼び止める。
「墨寧様、なにか」
「俺は、帝に仕えるよ」
「これはなんと」
「だからな」
墨寧は見つめる。
この契りが、この後の時代を築いたのかもしれない、
それから先の永劫続く物語は、彼らの紡いだ糸を引継、
ただ、連綿と続いていくのである。
「お前も裏切るな、俺のマネをして馬鹿なことだけはするな、民に尽くそう、その方法を俺に教えてくれ」
「その言葉、お待ちしておりましたよ」
「ま、それでももう少し出世したいがな」
「それはお手伝いしますとも、墨寧様」
小鳥は大鳥の高さを知らない。
知らないが、
大鳥が大きいということはわかる。
それは、見ればわかることだから、
なので、彼らもわかったのだ。
天とはよほど大きく、それでいて、身近であるということが。
燕雀は、喧しい声をあげるが、
その声はいずれも、楽しそうである。
天は彼らが飛べるほど広く、邪魔と言わぬほど大きい。
延の空は広く蒼く高くなった。
時代が一つ、歩みを進めた、そんな日の空だったように思われる。
終劇
長文、お読みいただきましてまことに
ありがとうございました。