7−2
大軍により、文字通り鎮圧していく。
鎮圧という言葉は農業でもよく使われる、
それは、新しく導入した土や耕起したそれを平らにする、
上から押さえつける、それらのことを示す、と思う。
詳しくは己で何事も調べなくてはならない。
ともかく、ここでは、押しつぶす、その言葉の意味をそのまま、
曹蓋・墨寧の討伐隊に適用するのである。
「壮観でありますな」
「前時代的な光景だ、このような軍用、またしばらくは見られまい、あるいは最後かもしれぬ」
影翁の声に墨寧は答える。
馬上の二人は大将揃えのそれに身を包んでいる、
今回、いつもなら影役に徹する影翁が、墨寧の影武者的な役割を担っている。
そして、気配を消した蔵慈がこの二人の危険を除ける位置にいる。
敵の数を不確かにしか掴んでいない以上、これは相当の危険を伴った任務だが、
そういった、兵法の基礎を無視できるほど、
圧倒的大差を産むだけの兵量がここに群を為して、ひた、歩いている。
「祭のようですな」
「似たようなものだろう、曹蓋がこれだけの人数を動員できると示威をしているのだ」
「なるほど、しかしその片翼を担うからには、それなりに顔を売れますな」
「どうだか、最近は俺ではない奴を可愛がっているらしい、派閥内に好敵手がいないから大将は好き放題だ」
「その点はようございましたな、墨寧様には敵が多い故、そのような増長がなく」
「はは、今まで味方を見た覚えがないからな、それに増長はせぬ、いつも謙遜しまくりだ」
「ほっほっほ、人間頭を垂れるのが一番ですな」
「ともあれ、むこうの翼には優秀なのが全部集まってるからな、そこから外れてるだけで推して知るべしだ」
「向こうが全滅すれば、自然と全て貴方様の物になるではないですか」
「ま、そういうことだ」
志気は少しばかり弛んでいるが、そよ風のようなささやかなものだ。
戦闘が始まれば、油に火がつくように、めらめらと、
あっと言う間に燃え広がるだろう。
馬は進む、手下の省令が一人近づいてきた。
「どうした」
「いえ、はたして相手はどこで線引きを考えているかと」
「ふむ」
墨寧にとって、それは気がかりなことだ。
省令に指摘されるまでもなく、反乱軍がどこに落としどころを見つけてきているか、
今ひとつ見当を付けかねている、正直、このままの軍用そして徐粛が平凡なそれであれば、
間違いなく反乱を起こした時点で皆殺しとなる道のみしか無かったろう。
徐粛が率いているからこそ、何かしら、交渉材料を得て沈黙するはずだ。
墨寧はそう考えている、影翁に買いかぶりすぎだとたしなめられても、
そこだけは決して緩めないようにしている。
油断から何もかも失うという例は古来より枚挙に暇がない。
備えるにこしたことはないのだ、まして、戦力があり備えるだけの余裕があるのだから、
徐粛達は蹂躙されない為に、どういった材料で、どの程度の戦果と引き替えに降伏するだろうか。
「貴様は、敵の数をどれほどと見ている?」
「5000も居れば多いほうだと思われます、となると、我々相手に正面攻撃はないでしょう」
「まぁ、それはその通りだが」
「数日前より、ぱたりと消息が絶たれている様子、掴めていた筋から絞り込んでも想定できる場所は広範囲です」
「そうだな」
墨寧は口だけで返事を続けている。
このあたりの、こまごまとした取り調べについては、
おそらく曹蓋の側で掴んでいることだろう。
それは正直、枝葉のことだ。
墨寧が気を配らなくてはならないのは、この戦で、『誤って』死ぬことだろう、
それが周雲徐粛にやられるならまだしも、その糸を裏側で引く者が居ると、
常に疑っていく必要がある。
敵は、曹蓋かもしれぬ。
そこまで、気を引き締めるでもないが、おそらく間違いないと思っている。
「見敵必殺、ともかく発見すれば大声をあげて、味方を呼び集めるこれが肝要だろう」
「そのような、凡百に劣る兵法」
「ふん、それで充分だ、これだけ大きいのだ愚鈍なそれで充分まかなえる」
「そうですか」
省令は少々不服そう、いや、軽蔑を含むほどのものを呑み込み、
すごすごと離れていった、影翁は苦笑してそれを見送る。
相変わらずこの人は、自分が気に入った人間以外と腹を割って話すことをしない、
それを面白おかしくとらえている。
こんなにたくさんの部下がいるのに、たった一人、この男の思惑は、
このたくさんの部下の誰一人として知らない、わからないのだ。
☆
「さて…」
曹蓋が舌なめずりをした。
どうやって、墨寧を殺そうか、やはりそれを考えている。
相思相愛だ、大したものだ、長年連れ添った夫婦のようなものだ、
もう墨寧は充分使い込んだ、そして彼の代わりとなるような、
もっと聞き分けがよく、計算は早いが、賢くない男を何人か見繕っている。
墨寧はもう使い捨ててかまわないコマとなった、それに奴は出世しすぎた。
そう考えて、ごく自然に、後かたづけに思い至っている。
曹蓋のこれまでの活躍は、表にほとんど知られていない、
結果だけは、脈々と、細部にわたってまでしっかりと戦功報告がなされているが、
実際その中身については、報告書類でしか確かめられたことがない。
なにせ、制圧に行った先々で、草の根も残らぬほどの壊滅をしてきたのだ。
報告された資料は、言われたままのもので、
手を付け加えられていると勘ぐることはできても、確かめるつてが何一つ残っていない。
「鬼が笑っている」
部下の何人かは、曹蓋を見てそう呟いてしまう。
まさに鬼畜のそれである、ただ、彼の功績はもう、文句のつけようがない。
治安維持の名目で行われたことごとくの粛正で、おびただしい数の死体と奴隷を造り上げてきた、
今回の反乱は、本来の意味では、彼が造り上げた奴隷達がその不当に怒り狂い立ち上がったそれである。
しかし、延のどこにもその噂はたっていない、中央の諜報部を彼が、
また、宰相派過激派が制圧しているところにも起因する。
ともかく、彼は情報操作と、身持ちの悪辣さで全てをなしてきている。
表だって報告されている事象は、
彼のおかげで奴隷が増えて、公共事業は着々と進み中央が潤っているという事実。
無罪で捕縛されたものが蜂起したと、最初、喚問に現れた曹蓋は、
『今は反乱に加担した罪人に違いありません、すぐに捕まえて参ります』と、
悪びれるでもなく言って、この場に座る。
「曹蓋様、妖しい者をいくつか捕らえて参りました」
「連れてこい」
「……」
「ふむ、東の海近くの出身のものだな」
「!覚えていたか、そうだ、貴様が蹂躙した村の生き残りだ、貴様の悪事を…」
「殺せ」
ずばっ、言うなり捕らえられてきた男は斬り殺された。
そして、同時に新参の兵隊も何人か殺された、口封じだ。
こういうことを当たり前にやってきて、それに慣れきった、慣れ親しんだものしか、
側においていない、だから、こういった不正と言うには、
あまりにも甚だしいそれをでっちあげてしまう。
曹蓋は、何も見なかったことにして、少し考えた。
「なるほど、敵は近いな、ことごとく殺してかまわぬ、これは危険因子ばかりだ」
曹蓋の頭の中で、既に今回の件について報告書類の冒頭が埋まりつつある。
蜂起した奴隷はどれも粗暴極まりなく、殺してしまうほかならなかった。
そうなるのであろう、生かしておく必要はまったくない。
曹蓋にとって、害がある、それが罪だ、そういう罪で殺すという罰を与える、
彼は法という力を手に入れた、そしてそれを、
子供のように振り回す、しかし、彼は子供ではない。
大人が、子供のように振る舞うことの恐ろしさ、言葉面だけでなくわかるだろうか。
この意識した、無意識を装った悪事の底を臨めるだろうか。
「よし、進路を南に取る、墨寧の予定通りに動いてやろう」
「よろしいですか?敵の動きからするとそれでは」
「いい、何も言うな」
この時点で、曹蓋は既に敵の動きの一つを掴んでいた。
だが、それは敢えて悟らせない、自分が知っていないという風に見せかけることにした。
誰のためか、彼もまた、敵は反乱軍だと見ていない、反乱軍を利用して、
墨寧を殺す、そういう場にしようと今回の戦を踏んでいる。
そして、その通りに動いていく、哨戒兵からの報告が飛び込んでくる。
「奇襲がありましたっ!!!、後詰め、墨寧隊の伏兵が暴かれて炎上中とのこと」
「きたか」
鬼が嗤う。
「伏兵の救援に向かう、総員戦闘配備!!!」
☆
「追い散らせ、かまわん、ともかく敵を混乱させよ、戦意を喪失させるのだ」
戦力を殺がせる、それを一番の目標とした。
反乱軍徐粛隊、いや、正式には全軍だ。
反乱軍の全軍は多大な危険を冒しながらも、一体となって攻撃にあたった、
そのため、伏兵はたまったものではない、敵の奇襲、しかも全力のそれを、
まともに浴びたことになったのだ、墨寧はその場にいないのが幸いとも言うべきか、
ともかく、三面に布かれていた埋伏の兵隊はことごとくが散らされた。
埋伏していたはずなのに、敵に露呈している時点でどうかしているが、
神算の為すそれである。
「徐粛っ」
「大成功です、ですが急ぎます、敵主力がこちらに救援をよこすとのこと」
「わかっている、いくぞ、次へとむかうっいよいよ敵本隊だ」
どおおおおうう。
反乱軍達の志気は鰻登りになっている。
昇れば昇るほど、その息巻いた雰囲気が伝播し相手に場所を知られることとなるが、
周雲はそれでも、味方の鼓舞を優先した。
彼は味方を扇動しながら、複雑な想いを抱いている、
彼らを戦場へと誘えば誘うほど死人を増やすことになってしまう。
これは避けられないことだ、と、割り切れるならば周雲はそこまでの男だろう。
彼は、あくまでこの必要悪だと言葉上言い切れるそれを割り切れない心を、
未だ抱いて、それでもなお絶望せずに、何か手があると上へと足掻く人種だ。
神々しいまでに美しいそれは、清廉さをまとい、指揮官の才能の一つとして開花している。
背中に、大きな翼が生えているかのように、
その姿は雄々しく、味方を勇気づけていく。
「急ごう、美しい幕切れのために」
徐粛が声がけをした、それへの対応はやや小さい。
それでも、充分全員が理解をしていることが伺える。
この日のために、こっそりひっそりと蓄えてきた全てを発散させている、
死んでいった仲間も、既に何人かいる、だが、それらは、
この蜂起に荷担するだけの恨みを持っていた人間だ、だから後悔はなかったように思う。
「それでも、辛いものだな」
「大将がその顔ではいけませんよ」
「わかっている、責め苦は全て、最後に受け止める」
言いながら、周雲の表情は曇ったままだ。
どうやっても、周雲達が彼ら奴隷の怒りを利用している、その構図にかわりはない。
ただ、この利用について、曹蓋も、墨寧も、延の国すらも、
全てが利用している、周雲がといったことは枝葉の一つにしか過ぎない、
それでも、彼の正義はこの利用を悪事として呵んでくる。
ぐぎり、奥歯を鳴らし、また、我先にと周雲も駆けていく。
「思ったとおり、敵は仲違いをしている様子、陽動につられて敵の翼が分かれました」
「止まっているほうを叩きに向かうわけだな」
「そうです、周雲様、絶対に何があっても、あなたの心持ちはわかりますが」
「大丈夫だ、無駄死にすればそれこそ、本末転倒するのだろう、わかってる、わかってるさ」
苛立った口調が、納得していないそれを濃厚に伝える。
徐粛はその気弱な部分だけを気がかりとしつつ、
着々と彼の策略が図に乗っていくのを眺めている、彼の次の目標は、
分裂した敵の後衛だ、ここで取った、敵伏兵の壊滅による気勢をそのまま決戦の材料にしたい。
決戦を決勝とするための燃料とする、そのためにも、
さめやらぬ内に、迅速をただただ選んでいく。
彼らが講和までもっていける、その場所まで戦い続ける必要がある。
だが、その講和の線引きがどこにあるか、それは周雲と徐粛の二人の、
胸先にのみぶら下がっている。
奴隷達はこの二人を信用し、ただ、走り抜けていくのだ。
「徐粛、どうとる」
「伏兵救援に向かった隊がおそらく本体でしょう、右翼になります」
「ほう、となると」
「左に…墨寧がいる、奴を殺さなくてはならない、狙い通りです」
徐粛の瞳はどす黒く炎をほとばしらせた。
呟いた言葉は、闇をまとった煙のような不気味さを帯びている。
怒気がここに初めて発露される、戦場において情意の発現は、
褒められる場面が少ない、怒り狂って判断を誤る輩が圧倒多数だからだ、兵法書にそう記されている。
しかし、それでもなお、その情意を制御できるならば、何よりも強い原動力となる。
制御できる怒り、怒りの力部分だけを抽出する、研ぎ澄まされる殺意、
それが今必要で、徐粛はそれを体現している。
無論、周雲もそうだ。
「しかし…これは賭けであります」
「徐粛の策をもってしてもか」
「残念ながら、そうです」
東方兵法書と呼ばれる有名な書物に、
彼我の戦力を適切に量った上で勝利を確信した時に戦は行う、
戦場とは、勝利を確かめに行く場所であり、その場で何かを行うところではない。
そんな一説が記されている。
徐粛は当然この兵法に精通しているし、今までそうして戦場を生き残ってきた。
だが、今回は、その準備を怠って立っている、
全ての事象が揃うような戦は、恵まれた戦というべきだろう。
現実には、そういった暇を得られない、不用意に発動する戦がある。
それを今、体験している、この後生き残ることができれば、徐粛は兵法家として、
もう一つ、上の位を望むことができるようになるだろう、余談。
「現在の兵力で、はたして本隊を引き連れた奴をやれるかどうか、正直はかりかねます」
「そうか」
「はかりかねながらも、一番確率が高いのがこの時機です、逃すわけにはいきません、運を天に任せます」
「………」
周雲は徐粛のような男から、願掛けのそれを聞くとは思いも寄らなかったが、
不思議と、それを情けないとも、だらしないとも思わなかった。
人間的なそれを見て、安心したというのが近い表現となるかもしれない。
考えつつ、しかし、迅速な行動はすぐに結果を目の前に横たえることになる。
「まもなく、敵本隊駐留地に着きます」
「……」
報告に、徐粛は確かめるような視線を周雲に向けた。
周雲はしっかりと、その視線を受け止めて、頷く、
そして、伝令に伝える。
「このまま、突撃だ、狙うは、敵大将墨寧」
反乱軍は、旋風となって正規兵を襲う。
☆
「大変です、伏兵が暴かれ全滅、さらにそのまま敵前方に出現!!!」
「なっ!!!!」
墨寧の狼狽は筆舌に尽くしがたいそれとなった。
速すぎる、その言葉が一番正しいだろうか。
わからないが、よこされた情報は想定していたことを遙かに超えていた、
伏兵を破られたことも驚きだが、既に目の前に現れた事も恐ろしい、
完璧に先手を取られている。
急ぎ、脳は次のことを考える。
「曹蓋隊の動きはどうしたっ」
「約束通り、南への進路をとっていた様子、しかも伏兵救援に向かったとのことで大きく迂回中!」
「……」
はかられたか。
墨寧は、がりり、思わず親指の爪を噛みきった。
この動きを知っていながら、迂遠となる方向を曹蓋は選んでいる気がする。
しかし、今からそれをなじるには、相手が遠すぎる、
今はともかく、現存の兵力で反乱軍を相手にしなくてはならない。
「狼狽えるな、明らかにこちらの方が兵量は上だ、落ち着いて対処すればなんともなるはずがない」
朗々と詠唱すると、その言葉は力強さを産む。
伺った省令達はすぐに自分の持ち隊へと分散していく。
追い立てるはずだった攻め手が、どうしたわけか、守勢にまわらざるを得なくなった。
しかし、鉄壁をもってすればなんとかなる。
曹蓋の狙いは反乱軍と墨寧隊両者を消耗させたところに到着することだろう、
動き上、陽動にのったとはいえ不審がまったくない動向だ、よく考えられている。
しかし、奴が到着するまで墨寧が生き残れば、話はかわってくるはずだ。
墨寧は、自分の軍用が下手のそれだと解っている、解っているが、
それを理解して下手なりに基本をとらえれば、大多数であるかぎり負けない。
信仰している、鉄壁の防御陣がすぐさま布かれることとなった。
「ほうっ」
驚きの声を上げたのは敵方の徐粛だ。
舌を巻くまではいかないにしろ、見事な、
教科書通りのそれが目の前に出てきたのは称賛に値する。
にやり、徐粛はわけもなく戦場で笑いを見せた。
仕事人は、時に、非常識な時分でも自分が気に入ったものを見ると、
微笑むものだ、今、まさにそれなのだろう。
「楽しそうだな」
「いや、これはなかなか、中等教育の試験のようです」
「その程度になってしまうのか」
「なんの大人が足下を掬われるのはこういったものです」
言いながら、自信にあふれている。
徐粛の瞳の炎はさらに黒みを増して、
一層に気合いが入ったらしい。
周雲は、もう、見て従うしかない、この鬼となった軍師を、
止める術はない、大将として情けないとも思えるが、
軍師がその仕事に専念できる環境作りをしたという点が彼の功績だ。
徐粛は、わずかに口の端を上げた。
「本命です、間違いない、確信できました」
「……」
周雲は答えない、沈痛な面もちとなる。
ここにきてもなお、まだ、墨寧を悪とは思えないでいる。
正式には、墨寧よりも曹蓋の方が圧倒的に悪だと思っている。
「ご安心ください、曹蓋など、墨寧に比べればなんということはありません、ここで逃しても近い内必ず殺れる」
「そうか…」
「しかし、墨寧はそうもいきません、この軍用、彼は離れている間に成長した。
敵にしておく、生かしておくと必ず危険となります、今の弱い内に叩いておかなくては、
殺しておかなくては、生きている限り災いを、我々の前に常に現れることとなる」
周雲は、前に現れるだけならば、敵か味方かわかるまい、
そう考えられると瞳だけ、そう色を呈した。
徐粛にはそんな気配を察する余裕は残っていない、
今、降りた僥倖を掴むために、整っていないぎりぎりの兵力で敵と対する。
幾重にも折り重なる偶然をかいくぐって、自分にとって最高の幸運をつかみ取る。
その結果は、墨寧の首を身体より離すことに他ならない。
ばばっ、馬の尻を大きく叩いた、徐粛が変化したかのように、鋭く、獣のように突撃を見せる。
「けぇええええええっっ」
不気味な声は、心のすみずみまでをざらざらと騒ぎ立てた。
周雲は置いていかれる、徐粛との間が広がり、
その間を奴隷達が埋めていく、徐粛の戦上手が口を開いて、鉄の壁にとりかかっていく。
呼応する相手方の声も上がる、間違いなく味方にも大きな損害がでる戦となる。
「いいか、私に続けっ、速度だ、速攻でかたづける、止まる暇はない、止まるのは死んだときだ」
どおおおおおおっっ。
徐粛が先頭で鉄壁布陣の墨寧隊に突撃をする。
どむんっ、軟体に大きな衝撃が吸収されたような、
不気味な、重みのある音だけがそこから、大地を湾曲させるように広がった。
そこからが、すさまじく早い、徐粛隊の動きは敵伝令の動きよりも速い、
それが決め手となる。
「墨寧様っ、敵左舷より突撃してきた模様、守備隊形にて応戦中」
「左からきたか、真ん中まで引きずり込んで飲み込んでつぶすか」
墨寧が、その指示を与えようとする前に、
すぐ、次報が飛び込んでくる。
「墨寧様、味方分断っ!!!!まっぷったつに割られた部隊が、敵の第二部隊と挟撃にあい、苦戦中!!」
「なっ」
「墨寧様っ!さらに分断され各個撃滅の兆候!いかが」
「建て直しだ、やられた奴らは助からん、残ったこちら側の戦力ですぐに盾だ、盾の布陣にきりかえろ」
墨寧はほえて、陣地より飛び出したい欲求、
いや、逃れたい恐怖を感じた。
一瞬にして3倍以上あった兵力差を埋められた気がする。
鉄壁に守っていたのだから、第一波の戦況を聞いてから、二次策で撃退できるはずだったのが、
それよりも先に敵が動いてきては、話にならない。
前線の、まさに戦っている最中に軍師がいるということは、このような速度をうむらしい。
優秀な指揮官による戦争は、机上のそれを凌駕するのだろう。
墨寧は目測をあやまった、だが、すでに心はきまっている。
こうなった以上、すぐにでも奴らはここにやってくるその前に、
「翁っ」
「馬はすでに用意してあります」
「敵襲っ!!!!!あがっ!!!」
「もう、来たかっ、っつうかどこからっ」
墨寧本陣は大混乱になっている。
そこに伝令のどれよりも正確な、まさに目の前に起きたそれが、
どのような情報よりも確かな危険をあらわした。
見慣れた顔が映った、むこうと視線も交わった。
「予想以上にうまくいったっ、墨寧観念しろっ」
「……翁っ」
言われるとすぐ馬がやってきた、それにさっと墨寧は手をかけて飛び乗った。
徐粛が小さく声をあげる、目の前から勝利が逃げていく。
この様子はこの場の全員が見ていた、見ていたものたちの考えることは、
交錯に交錯が重なった、複雑なものとなった。
墨寧は勝ったと見た。
徐粛は負けたと見た。
墨寧隊は負けたと見た。
反乱軍は勝ったと見た。
戦の趨勢は、墨寧の脱走によって混乱した墨寧隊敗北が決定的となるだろう、
だが、徐粛はそのようなものを欲しがっていない、この場で、この瞬間に、
なんとしても墨寧を殺しておかなくては勝利とはいえない。
道程の勝利など意味がない、最後に立っていなくては意味がないのだ。
墨寧が馬にのって逃げていく、逃がしたくない、だがその動きは迅速きわまりない。
逃げられる。
「待たぬかっ!!!!!!!悪党っっっ!!!!!」
「遠吠えっ、またの機会に茶でも飲もうぞ、徐粛っ」
刹那、声が降りた。
「そう急くな、久しぶりの再会だ、茶を馳走してもらおう、名産だと言うではないか、墨寧郡令」
「なぅ!?」
すれ違うかというところに一騎の騎馬武者が立った。
墨寧が後ろに気を取られていたため、対応に遅れる、
遅れるところへ、銀色の刃が紫雷の如く走る。
「ご主君っ!!!!」
「貴様、従者かっ」
「待っていた、典晃!!!蔵慈推参っ尋常に勝負だ」
パァンっ、刃の柄が派手な音とともに揺れた、
間一髪で蔵慈の剣が墨寧を守った。
しかし、体勢を崩し落馬しかける墨寧、その横にすぐ影翁が助勢に入る、
そして、そのまま馬へとのしあげて先へと走らせた。
背後に敵の気配がせまる、ちぃっ、影翁が舌打ちをする。
「翁っ」
「賭けに負けたかもしれませぬな、オサラバです、墨寧様」
「おきなっ!?おい、じじぃっっ!!!!」
墨寧は叫んで一時的に狼狽えた。
あっという間に馬は最高速度になり影翁の姿は見えなくなったもう振り返らない。
すぐに我を取り戻し、手綱を握り馬を走らせた、牧場で競馬に使われていた名馬だ。
なんとか逃げられるだろう、逃げなくてはならない、どこへか、
この戦、どう終わらせるのか、考えろ、考えて最高の選択をする。
ずぐっ!!
「っっ痛っ!」
背中に矢が刺さった、遠間から狙われたそれだ。
ぎりっ、力をこめて肩口から抜く、鏃を見る、毒が塗ってあればそれまでかもしれぬ、
血にぬれたそれ、その矢に文字が彫り刻まれている。
琴の音は消えぬ 女淑の声。
「…洒落てるじゃねぇか…」
古都の怨は消えぬ 徐粛の声。
わざわざの歌詠みという念入りが、その怨みと怒りの大きさを知らしめる、
打ち手が誰とわかった途端、もう、助からないと気づいた。
一瞬で何もかもが消えていく、オサラバという影翁の声、蔵慈の姿、
総大将の地位、全てがこの馬より、今、落ちる。
ずるり、身体が痺れを覚えた、毒が回り始めた、もう踏ん張りがきかない、
身体はこの駿馬の躍動に見捨てられる。
はしっ。
「墨寧様、お気を確かに、墨寧様」
「……?」
しと、しとしとしと。
戦場に雨が落ちてきた。
混戦の声は急に遠くへと埋没していく。
雨となれば、逃げるには好都合、隠れるにも好都合、
まだ、墨寧に運が残っている。
それも、野太い運が残っていた。
「鐘豊か」
「輜重を届けに参るところでした、今しばらく、すぐにここを脱しましょう」
「伊乾はどうしてる」
「ついてきておりますが、今は離れております」
「私は毒矢を受けている、奴に茶と薬、そうだ、薬茶を探させろ、たの…む」
承知、という声が届いたか届かないか、
わからない内にすさまじい熱を発して墨寧の意識は沈んだ。
混戦の中から、またいくつか矢が向かってくる、
鐘豊は、いつものとおり、ふぅふぅと太い体を揺らしながら
懸命に墨寧を支えている、太いながらに器用な身体さばきで、
墨寧の馬に乗る、ずしり、明らかに動きが遅くなったが、
それでもまだ走れる余力がある、すばらしい馬だ。
「追っ手がこぬうちに…」
鐘豊には飛びぬけた運動能力や明晰な頭脳があるわけではない。
ただ、運がよいというだけだ、それでもここから、
一旦逃走せしめたことは、やはり彼の運によるところだったのだろう。
彼の背後では好都合なことが起きていたのだ。
「徐粛様っ、墨寧の死体を見つけて参りました、徐粛様の矢が背中を貫いております」
「!!!」
徐粛は、確かな手ごたえを覚えていた右腕をそっとさすった。
乱刃の最中、驚くほど集中された指先の神経が、
きりりと一矢を報いた、己の魂がその鏃に乗ったよう錯覚する。
それほど、離れていく矢の視界が写るかのような感覚に、
確信を強めている、しっかり見なくとも間違いなくそれだろう。
徐粛はこのとき、その異常な感覚が戦場特有の興奮状態からきていると気づいていない。
徐粛をもってしてまだ、経験が不足していたと後々なら語ることができるだろう。
運びこまれたそれは、確かに墨寧と同じ装いの死体だ。
それに背格好もよく似ているし、毒により顔が不気味な色に染まっているとはいえ、
見間違えることがないように、似ている、それで徐粛は信じた。
信じようとしていた面もあったのだろう、ともかく、総大将を失った左翼は大混乱に陥っている。
総崩れという言葉がとてもよく似合う内容だ。
腰抜けの司令官が、敵の奇襲に尻尾を巻いて逃げ出した。
いや、この時点では、奇襲で命を落としているわけだが。
この場所には徐粛がつれた、
反乱軍の半分の奴隷しかいなかったのである。
残りの半分は周雲とともにある、
ともに別働となっている。
この戦の、どこで戦いどうやって戦うかその実務的部分は、
ほとんど徐粛の策によってなっている、だから奇襲につぐ奇襲にて、
散々に打ち破って、ありえない勝利をもぎとりつつある。
しかし、もうひとつ、戦争という大きな事件の流れにおいて、趨勢を決めたのは、
周雲だ、彼がこの変事の線引きを確実にしていた。
しかも、その確実さは圧倒的である。
事前に漏れることがなかったのは、参謀である徐粛ですら全貌を知らなかったからだ。
戦場は勝利を確かめに行く場所だ。
周雲もまた、東方兵法書に精通している。
敵情と味方の事情を把握し、量った上で物事を進める、
大将の想像力が勝利を左右することがある。
もっとも正しい予測を立てていたものが勝利する。
墨寧は、周雲と徐粛がどこかで講和となるよう有利な勝利を目指していたと考え、
それを愚策ながら、じっくりと守ることで勝ちを得る兵量に頼った戦略を打った。
曹蓋は、反乱軍との講和を認めず、そうさせぬため戦を続けるしかない。
継続的な戦争状態を想定し、墨寧と反乱軍たちを戦わせてその最後をたいらげる二虎競食の計を用いた。
徐粛は、墨寧、曹蓋が上記のように考えていると看破し、講和を目的と見せかけて、
戦争での勝利を考えていた、油断した相手に奇襲という当たり前ながら強い戦術を取った。
上記三つにて、徐粛の戦術があたったことになる。
奇襲は、虚言と偽伝令による、いたって古風なそれだったが、
あたりに当たった、墨寧隊の性格をよくつかんだものだ。
仲の悪いもの同士が組み合っている組織、墨寧単独支配の独裁性、
墨寧さえ混乱させれば容易に潰せるとにらんでいた。
さらに、固まって構えた墨寧の布陣を見て、突撃と速攻の捨て隊攻撃で陽動し、
裏をついて徐粛本隊は墨寧の前に現れたのだ。
本当ならば、徐粛達は小勢の上に分隊している、通常絶対やってはいけない布陣だったのだから、
墨寧さえしっかりしていれば、徐粛は死んでいたはずである、典晃達が来たとはいえ所詮多勢に無勢、
しかし上記のとおり、踊り狂わされた墨寧は敗北した。
ここで、すぐに墨寧隊の副隊長格が戦線をまとめて、
徐粛達を皆殺しにすることができただろうが、もう一人この戦場に人物がいる。
周雲が、三人が描いた戦風景よりも、大きな絵を書いて待っていた。
終戦の形が、夢語りから現実に投影される。