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燕雀鴻鵠  作者: 見城R
18/22

7−1

その日の岩倉県。

相変わらず、平凡な県令・伊乾。

遊説家先生に中心作業は任せて、彼はただただ、

己の県からどうにか産業を生み出そうと躍起になっていた。

時世と土地柄とを考慮しなければ、伊乾はそれなりの政治家だと言える、

地方の役人として、風変わりなそれと言えるだろう。

先の影翁接待において、いよいよ、お茶の使い道に自信を持った彼は、

奴隷ではなくれっきとした県民を使い、必死にお茶の生産に取りかかっていた。


「とりあえず安くて構わない、皆が呑めるものを作るのが目的だ」


熱っぽくでもないが、そう語る伊乾は、茶栽培専門の生産者を本格産地より招き、

数少ない県の農民に講座を開いたりしていた。

この日も、その講座が開かれており、だんだんと彼の思惑の通り、

農民が茶を作ろうという意識を高めつつあった。

この茶にもう一つ価値をつけようと、伊乾の政治において最高傑作であろう、

陶磁器の使用がこの時固まったと言われている。


「茶飲み道具を高級化したりして、しかも、式典風にしたら中央で流行ると見ている」


これは卓抜した、慧眼と言わざるを得まい。

自尊心の高い中央の人種を実にうまく転がすことができる、

素晴らしい商売だと言い切ることが可能だ。

その式典に利用する茶器を陶磁器とすることで、物の価値を高め、

その茶を呑むということ自体が一種の流行となれば、

安いものも出回りが多くなるだろう。

なによりも高級茶葉はより流行するようになるので、

積極的に他方の産地も介入してきて、岩倉県だけでは無理な、

全国規模の大きな流行を呼ぶことすら可能となる。

大流行の中で、少しだけ利益を得られればよい、確実に得られればよい。

この控えめに強欲なところも大変よい、迂遠なようで確かな政略である。

この日の茶生産講座の最中に、伊乾は思いつきがかなりよいものだとほくほくの笑顔を出していた、

そこへ、まったく逆転する事態を告げる声が届くこととなる。


遊説家先生が走り込んできた。


「県令、県令!!!」


「どうされました、先生」


あまりの様子に驚きを隠せない伊乾、息を切らせた先生は、

講義中の農民が狼狽える様を気にとめた様子もなく、

その大事を露わに、言葉よりも雄弁に表情で物語る。

とても悪い知らせだ。


「波が…波がくる」


「は?」


「大きな波だ、時代の波がここで、大きく波濤を上げる」


意味がわからない…。

伊乾は、決して頭がよいほうではない、

だから、こういった比喩表現にはさっぱり疎い。

なんというか、それ、波濤という単語を使ってみたかっただけじゃねぇの?

そこまで思うほどに、言っている意味がわからない。

伝わっていないことに愕然としつつ、さらに言葉を続ける先生、


「逃げなくてはならない、奴隷達が蜂起した、天を衝くばかりの怒号をあげて、今、まさに」


「な、なんとっ」


これは分かり易い、というか、最初からそう言え、

思ったが、思うよりも先に身体を動かそうと焦る。

それは大きな声で放たれていたらしく、講義中のその場はパニックとなった、

蜂起という言葉だけで、これだけの衝撃を受けるのに、

いささか不審が募るとも思われるが、

遊説家先生の狼狽えぶりが、その言葉の意味よりも強い衝撃をもたらしていた。

先に述べた通りである。


ともかく、大慌てで県令と農民達は表へと出た。

そして目の前で、何か旗がいくつも揺らめいている。

その姿が見えて、ますます驚愕した。

誰もがすっかり忘れていた、戦争の風景がそこに横たわっている、

かつて、延が統一される前に行われていたという、

大乱、大戦乱の講談にのぼる話の描写と同じ景色が現実に現れたのだ。

絵空事や、遠い国の話、神話の類と思っていた姿が、

目の前に、祭事や演習でもなくわき起こったということは、

まさに、波を感じるに値する、凄まじい狂気が起きた、その狂気は空気を伝播し、

全員に、理屈を通り超えて理解させる、強要の最果てだった。


「逃げっ……やっ、とりあえず、省令、郡令様に連絡をせねば」


伊乾の優れた点のもう一つは、決して仕事を忘れなかったところにもある。

この逃げていく公人を遠目で見つめる二人分の視線。


「さて、最初から最後まで、県令殿には働いていただくこととなったな」


「本当に、徐粛殿の策は鬼ですら測れぬそれですね」


「さぁ、運が良かっただけと、言い切れますよ」


ここまでの事象は。

そう、言わず言葉は切った。

自信があるらしい、どす黒い、そう称しても構わない、

烏の濡れ羽色に染まった、その長い髪は無造作に束ねられているが、

その艶やかさは、このところの食事で改善され、

取り戻された色が、強さと美しさを練り上げている。

天才軍師が降臨した、髪は無造作に後ろで束ねている、紅い髪留めが洒落ている。

その傍らに、大空へと羽ばたく鳥と称される周雲が居る、

並び立つ二人に従い、多くの奴隷が付き従ってくる。


周雲、徐粛、ついに起つ。



「くそ、この忙しい時に」


墨寧は末期的な仕事病に陥っている。

実力はあるが、それを発揮する暇を与えられないほどの、

凄まじい仕事量に囲まれると、人間は破綻する。

これはどの地位、どの場面、どの階級でも存在することであるが、

仕事を几帳面に自分でやろうとする、責任感の強い輩ほど、

これに罹りやすい、もっとも墨寧の場合は、他人が信用できない、

そこから発生しているのだが、どちらにせよ、

こうなってしまう奴は、さらに上部から見れば仕事ができないのと同意になる。

てんてこ舞いが最早、乗り切れないスピードになってきた時、

一報は飛び込んできた。


大乱起こる。


「そうきたか、なるほどな」


「解っておいででしたでしょう」


「どうだか、忙しくなる」


「墨寧様好みの忙しさですな」


「さてな」


言いながらも、墨寧は少し嬉しそうな雰囲気がある。

このままでは破綻が目に見えていた仕事が反故になり、

今、目の前に転がる単純な、たった一つの仕事さえかたしてしまえばよい。

それを有り難いと思った、事件は後の史実に語られるに充分な大きな反乱だ。

西州と南州を巻き添えにした、大きな大乱、

起こしたのは奴隷身分のそれら、

己の身分解放を謳い、あまりの酷い悪し様に反抗してのことだ。

上層部からすれば、罪人如きが何をぬかすか、

そういうものであるが、平和ボケが始まっているそれなりの中流層については、

下々のものにも理由があろう、

などと、馬鹿げた論理がまかり通っていた、誰が通したか、

この時点ではわからなかったが、そういう通念がこの大乱を大筋で認めさせ、

そして、全延国内の人々に知らしめたのである。


「墨寧、貴様の膝元ではないか」


「面目次第もございません」


深々と墨寧は頭を下げている。

その相手は曹蓋だ、中央より、この大乱を鎮めるために派遣されてきた。

叱責の調子は強い、強いが、それでもどこか嬉しそうな雰囲気がある。


「ここからは、私人としての声である」


「はっ」


「墨寧、お前、いつから掴んでいた」


「…およそ、3ヶ月」


「ふむ、やや異変ありと私に伝えた頃よの」


「はい」


「まぁ、お前の控えめなそれがどういう意図だったかは追求せぬ、この大乱を治めれば、

最高位の勲位を頂けるであろうからな、いよいよ、宰相様の世がやってくるそのサキガケぞ」


「ご随意に」


墨寧は深々と頭を下げた。

墨寧はすっかり政治ができるようになった。

ある程度以上の上役には、嘘の演技をする必要、その手間がもったいないことを知った。

見抜かれる相手に嘘をついても仕方がない、だから、

悪いことは悪いと謝っておき、さっさと次に目を向けさせる。


「御武運を」


「何、お前にも手柄をやる、前線だ」


「……、それは、有り難き幸せ」


もう、本音か嘘か、わからない会話ばかりをこの階級は続けていく。

そして、その嘘とも本当ともわからない言葉を言質にとって、

着々と物事は進んでいくこととなる。

嘘をつくお前が悪い、そういう通念がある、嘘を信じた奴よりも嘘を吐いた奴が悪いのだ。

墨寧は、それらに辟易というよりも、疲れ切ってこの任に当たることとなる。


相手は、岩倉県を発端とした暴徒数千。

ほとんどの労働者がこれに荷担したらしく、大変なこととなっている。

西州と南州は大騒ぎになってる、

墨寧はこの内、前線を預かることになった、そこで、

墨寧は西果てより、岩倉県に攻め入る道程を取った。

これについて、曹蓋は反論の一つもない、彼も忙しい、

彼が手柄を立てるためにはどうしても必要な事件なのだ。


「また前線ですか」


「ああ、一番槍は貰ったな」


「ほぼ守勢で、それもないでしょう」


うるせぇよ、墨寧は顔だけそう晒して、

評定の場にやってきた、そこにはいくつかの将軍格と分隊長が揃っている。

総大将は郡令墨寧、各省令がその補佐として、この評定で発言を許されている。

その場に、県令の身分ながら二人の人物が招聘されている、

鐘豊と伊乾である。


「現状を把握する、伊乾、説明しろ」


「はい、我が岩倉県にて7日前に奴隷が蜂起いたしました、その数は全奴隷と数えられ1000人、

しかし、この7日間に各地で呼応した反乱が連続して発生し、その数は10倍と見ても少ないほどです」


「なぜ、そのような事態に貴様は気付かなかったのだ」


「いえ、その、あまりに唐突で…」


叱責するのは省令だ、担当の省令であれば尚更だ。

彼の担当責任が問われるような事態である。

伊乾は、それでも、まるで気づけなかったとただただ、

無駄な弁明を続けている、ひとしきり集中砲火を浴びることとなるが、


「話題がずれている、既に事は起こっているのだ、今、我々はこれをどうするかについて論じている」


重みのある言葉が墨寧から漏れた。

これは、伊乾を救ったことになる。

個人的に墨寧は、伊乾のことを気に入っている。

伊乾はおそらく、曹蓋と並ぶほどの商売人になれるだろう、

曹蓋は商売を美味くすることで出世した輩だ、それと同じだけの商業力を持っている、

その伊乾を、愛おしく思っている。

いつもの通り、自分にないモノを持つ者を囲いたがるそれだ。

それを助けるためもあって、伊乾はこの場をうまく切り抜けることができた。


「ともあれ、起きたものは仕方がない、うまく鎮圧する必要がある、岩倉県を囲みつつ迎撃」


「布陣はどうなされるつもりか」


「右方を曹蓋殿に任せることとなっている、我々は左方を預かった、そのままだ」


「挟み込むということですかな」


「そうなるだろう、だが、最終的にはこちら側でトドメを刺す」


「ならば伏兵ですかな」


「成功するかはわからんが、三面埋伏とでもしておこう」


「十面にはいたらぬのですか」


「三隊が精一杯だ、他は挟撃役にまわらねばならぬ、苦しいが壊滅が目標だ、以上」


そこで、ぴたり、論を止めるように墨寧は立ち上がった。

閉幕となる、その意見には大多数が賛成したらしく、

そのまま、意気揚々と戦場へと駆けていくこととなる。


「伊乾」


「こ、これは墨寧郡令様…」


うやうやしく、というよりも、ややの恐怖を携えた様子が見てとれる。

伊乾は所詮、県令の立場で右往左往するだけの器だと物語っている。


「この失態は高くつくが、お前の儲けようという姿勢はよかった、それを私は知っている、そう覚えておけ」


「?……!…あ、ありがたき幸せっ!!」


「無駄死にするな、鐘豊とともに生きろ」


墨寧はそう言葉を残して、戦争の現場へと赴いていった。

結局、伊乾は鐘豊とともに後衛を任されている、

鐘豊はもともと、糧秣調達の要であるから後衛は当たり前であるにしろ、

伊乾の後衛はいくつかの噂話を呼んだ。

「伊乾がこの度の大乱の目先を制せ無かった報い」そう写っている。

さもありなん、だが、墨寧はそれを見越した上で、

「伊乾の政治才能をこの戦で失うのは惜しい」それになっている。

戦が働き場であるのは確かだし、それが最も近道になるのだが、

それ以外でより稼げる者が、わざわざ不得意なところへ出る必要はない。

墨寧はそんなことを考えて配置した。


「墨寧様」


「おう、翁、どうだ、ぬかりないか」


「はい、言われた通りの配置となっております、が」


「………」


否定の接続語で止めた影翁に対して、

いつもならば、すぐに言い訳の言葉を放つ墨寧が黙った。

じくり、嫌な汗が滲んでいるのがわかる。

影翁は、あくまで、商売、彼が儲かるための延長線で墨寧を見てきた。

墨寧に仕えることが、結果として自分の生涯に富を与えると踏み、

実際、その通りになってきたから、これまでついてきている。

その期待を主人の墨寧は裏切ってこなかった。

だが、今回はその期待にかなうか、以前の鮮やかな裏切りの時と似た状況だ。


「もう、腹のさぐり合いはよかろう、正直に言う、この賭けは半々だ」


「…」


「俺が勝つか、負けるか、それは様々な理由によることとなるが、大まかに見て、

本当に、表が出るか裏が出るかの二択になってる、今までにないことだ」


「そうですな、常に、己が選べばその道が勝つという便利な地位を得ておりましたからな」


「そう、戦の趨勢で己の態度がその趨勢を支配できるように政治をしてきていたが、今回はそうでもない。

真剣勝負と言われるそれになってる、そこで、俺は、一つの賭けに出た、左翼を担うという賭けにな」


「…それで」


「左翼に、徐粛本隊が出てこなければ勝てる、もし出てきたら走って逃げる」


影翁はこらえきれない様子で一つ笑いをこぼした。

そのいいざまはあんまりだが、それは真実でもある。


「よい方面だけを見ていたいから、説明するとだな、左翼に奴が出てこない。

つまり、右翼に奴らが出てくれれば、曹蓋が死ぬ、そしてその後釜に俺が入る」


「なるほど、ついに中央へと手が届くわけですな」


「その通りさ、もっともこの賭けは反動も大きく、先の通り奴がこちらに出てきたらそれまでだ。

全てを投げ打ってもう一度、最初からだ」


「…」


「そしてどちらにせよだ、成功する時も、失敗した後、俺が生き残るためにも、

影翁、お前の力を既に計算に入れてある」


墨寧は絞り出すように告げた。

今回の事件については、彼がいつも胸に秘めている、

勝てる喧嘩しかしない、それに反したものになっている。

勝つほうも、負けて逃げるほうも、どちらに転んでも、

全戦力を完璧に投入、運用して生きてくる話になっている。

そして、墨寧がその完璧と捉える中の最大の要因として、

影翁の存在を挙げたのだ。

彼がいなくては、結局、勝つとか負けるとか大局の後、墨寧が生きるか死ぬかに関わってくる。

かつて、墨寧が、全ての事象で座り続けた位置に、

今、影翁が座っているわけである。


「私は」


「解っている、爺は、あくまで利欲で動く、確かなほうにしかつくまい、そして言わせて貰う。

お前さえ居れば、ここは間違いなく確かだ」


「ふむ、その言は正しくないですな、正しくは、あなたは間違いなく生き残る、それでしょう」


「…そうだな」


苦笑いを見せる、負けるという大局が墨寧にとっては、

あまり重要ではない、生き残ることが全てになりつつある戦局で、

その趨勢を確かとするのは影翁だが、影翁が望む、栄達への応えにはなっていない。


「しかし、安心なさい、私はあなたの味方のままでしょう」


「!!」


「そんなに驚くほどでもない、そして、もう一つある、墨寧様は徐粛を過大評価しすぎている」


「ふ…む」


「まぁ、わかりますが、何よりも運については、鐘豊を置いた時点で盤石でしょう」


「……」


墨寧はわかっている、鐘豊という運恃みにしてる時点でどうかしてると、

それを、影翁はやんわりと指摘する、それでいて言葉は彼につくと言っている。

気弱な部分を糺せば、墨寧はこの戦で勝利を得られる、そういうことだろうか、

墨寧は、翁の言葉に真実があるように、深読みをしてしまう。


事実は少し異なる、影翁もまた賭けに出ているのだ、墨寧はここで終わらないと。


ともあれ、二人は利害がまたも一致した。

利害とは異なるが、二人の向かう方向が整った。

墨寧は、最大の安息を態度で示す。


「……っ、よしっ、明日からだ、明日、まったく景色を変えるぞ」


「仰せのままに」


墨寧はそれ以上考えるのをよした、考えても仕方あるまい。

そこまで追いつめられているとも思われる。

不安を抱えたままながら、布陣がなされた、

暴挙を沈静するためとは、言えないほどのしっかりとした軍用、

曹蓋は、多くの偵察を放ちながらその場に居る。

彼は、この暴動の裏で天帝派が絡んできていると見ている。

ならば、これを鎮圧すればいよいよ相手方の弱体化はまぬかれまい。



「墨寧」


「ここに」


「埋伏を使うか…追い役を我々が担うわけだな」


「そうですが、埋伏は三枚のみ使います、あとは手はず通り総攻撃に見せかけて出ます」


「お前は」


「…出るほうです」


ほぅ、曹蓋は少し思いと違うところに驚いた様子だ。

絶対に、自分の身の安全を確保するため埋伏側に入ると思っていたが、

囮役をかって出るとは、裏があるかとも睨んでみるが、

墨寧は相変わらずのにやにや顔をしている。


「何か考えているか」


「曹蓋様と同じですよ、大将が前に出なければ戦は勝てない」


「そう、本来ならば大将は後方で指示を出しているのが戦術的にもっとも確かだが、

前線に張るほうが、様々に勢いを呼ぶからな」


「数はこちらが圧倒しているのですから、あくまで追い込んでいく作戦で」


「そうだ、逃げてついてこさせるのではない、最初から圧倒していき、その勢いのまま蹴散らす」


「我々は、逆手から最初挟み撃ちが目的と見せるわけですな」


「ぬかるなよ墨寧」


「わかっております、これをしくじれば、今の地位を失いますからな」


「そうだ、お前は立場をわきまえて、働いておればいいのだ」


「わきまえてから、随分と経ちました、曹蓋様について、気付けば私も郡令まで昇りましたからな」


「ふん、満足しておるまい、中央へ出るのが夢なのであろう?」


「夢…、私は現実に生きておりますのでな、郡令の仕事がおぼつかぬ今、夢に逃げるわけにはいきませぬ」


「どこまで、本心か…くっくっく」


「今暫く、曹蓋様の仕事ぶりを手本とさせていただきますよ」


「そうしろ、俺の場所は命が危ないからな、さて、瞼の裏に見えているか、武勲受賞の姿が」


「無論、御武運を」


曹蓋と別れた。

見えた景色には一人しかいないだろう。

墨寧だけのものか、あるいは、両者が見た景色なのか。

それはわからないが、少なくとも墨寧は曹蓋が死んで、その場には自分が立っていると、

心の底から思っている、揺るぎない、数少ない完璧な事実だ。


「影翁」


「ここに」


「挟撃にする、敵を漏らす位置はあくまで埋伏のところ、わかっているな」


「無論、しかし驚きましたな」


「何がだ」


「いえ、この大乱に乗じて、もう一度あちら側につくという選択もあったでしょうに」


ぱちくり、墨寧は大きくまばたきをしてそれを聞いた。

そしてすぐに、にやりと笑った。


「流石にそれはできまい、正義が乏しい裏切りは酷いことになる」


「ほう、今更正義などと」


「俺は評判が悪い、前回の裏切りもあるが、いつかの賊退治で皆殺しをしたとか、

短期間で出世するのをやっかんだ馬鹿が、そちこちあるないことを言いふらしていやがるからな」


「期待通りに裏切ってやればよろしいものを」


「そこを、裏切らないことで、俺の株を上げるのさ、少々犠牲が大きいがな、ところでどうだ?」


「つかめませぬ、本当に、開戦するまで徐粛の位置は見えぬと思ったほうがよろしいかと」


「そうか…」


墨寧の不安は、キモである徐粛と周雲の位置がわからないところにある。

二人がどこでどう指揮を執っているか、それによっておそらく、

展開が大きくかわるのだろう、戦の趨勢、大勢については徐粛が考えた通りに動くにせよ、

実際にぶち当たるところから離れていれば、その場の力で勝てる可能性がある。

いや、おそらく勝ったまま終わる。

そうでなくては、大乱とされている軍勢がこれ以上勝ち続けることは国家が転覆することにもなる。

徐粛はそれを望まないはずだ、きりのよい線引きで負けを受け入れてくるだろう、

ただ、それまでの間に殺されないようにしなくてはならない、それに、線引きをできるだけ、

有利なところで引きたい、その線を引く場所が勝敗と言って相違ない。

願掛けばかりが続いてしまう、墨寧に多少の苛立ちが見える。


「墨寧様、鐘豊をお側におかずよろしいのですか」


「輜重係を前線にもってくるわけいにはいかぬだろう、蔵慈で我慢する」


「そうですか」


不安はそこにもあると見える。

勝ち鬨を報せる運を本当の意味の手元に置いていないことは、

使い慣れた刀を携えなかった時と似たような不安なのだろうか。


「そうだな、蔵慈を呼んできてくれ」


「は」


「何、開戦は間違いなく明日だ、その前に顔を見ておこうとな」


「それは」


「裏切られてはかなわぬ、目で判断したい」


はは、小さく笑って墨寧に言われた通り、

影翁は蔵慈を呼びに離れた。

ぽつねん、墨寧は一人になった。


最初から独りだったじゃないか。


どうしてだか今回に限って、不吉なことばかりを思い浮かべてしまう、

かつて蹴散らしてきた様々な人との縁が、ここにきて、

首もとをゆるゆると締め上げてくる、真綿のそれのような、

息苦しく、不快が心身を支配していく。

孤独とは、ある時突然気付くものなのだな、気付かなければどうというものでもない、

独りごちる墨寧。

手持ちぶさたでもない、ただ、影翁と蔵慈が戻ってくるのを待っている。

戻ってこないかもしれない。

そう不安に思う、自分がそうしてきたのだからいつかそうされる日がくるように思われる。


「周雲達は、それでも、私を探しに来ていると…考えられる」


我ながら、おかしなことを考えると思う。

執着されることが嬉しいなどと思うつもりもないが、

離れたところで、いつか出会わなくてはならないという運命もあるのだ。

そうでないものが離れていく、そして会うことがない。

それまでの付き合いや、過去のなれそめや、長さや深さなんというのは、

物理的な出会いの前には意味がない。

それが時間が空こうとも、むしろ、時間が空いても設けられることに意味が、


あればいい、なくてもいい。


だんだん、わけがわからなくなってきている。

それでも、珍しく、暗がりの夜に独りでそんなことを考えてしまう、

いつもは、誰かを蹴落とす作戦ばかりを考えていた夜に、

今は、何一つ関係のない、これからにとってどうでもいいことを考えてしまう。

まだ、夕飯や朝飯の心配をしているほうが、はるかに、途方もなく役立つというのに。


ぷつりと、切れてしまえばもう終わるものだ、そういうものだ。


説得の調子を帯びる、それらに、

だんだんと傾聴していく、自分自身を説得していく。

どうにかなる、どうとでもなろう、ここまで来て、

地方から、うらぶれて昇ってきて、今この場所でふと、後ろを見て、

よくやってきたとか、そう、呟くべきか、呟いた時点で何かが終わるのか、

既に、終わっているのか。

振り向かなくては、辿ってきた道がどうだったか、今どちらに向かうかがわからないのではないか、

でも、振り返らなければ迷うことなく真っ直ぐ、本当に真っ直ぐかはわからないが、まだまだ進めるのではないか。


夜が更けた、寝よう、墨寧がそう決心する、月が出ている。

こいつは闇夜にぽつねんと、光り続けて、何億年とかかっているだろう。

まだそれでも光っている、大したものだ、飽きないものか、独り光り続けて、

俺はまだ短い、もっと耐えられる。


「遅くなりました」


「!」


「お、この匂いは…」


「あ、ああ……おう、なかなかいい時間でやってきたな、完璧に焼き上がってる」


「ほほほ、そのようなことだろうと、少々遅くした甲斐がありましたわ、蔵慈はこちらに」


「まかりこしましてございます」


「わけわからん言葉はいらん、さ、受け取れ、天下一のモチだ」


墨寧からモチが配られる。

うまいうまいと、早速影翁はたいらげた。

遠慮がちというか、やや不審そうに蔵慈も続いた。

だが、続いて、そのモチの完璧な焼き加減に喫驚したらしく、

冷たい表情に一つの驚きと笑顔が灯った。

人間らしいそれだ、墨寧は見て改心の笑顔をこぼす。


「うはは、俺のモチを喰って、その顔をしない奴はいねぇんだよ、もう一度喰いたかったら、明日は」


月が照らす、七輪が浮かぶ。

七輪の上には、どうやら、モチは三つ焼かれていたらしい、

同じ時間に焼き上がるように三つだけが焼かれていたらしい、

誰かが来るとわかっていて、焼いていたに決まっている、信じていたに決まっている。

独りだと考えながらも、誰かを待っていたのだ、笑える。


「生きて戻れ、モチを喰いたければな」


「御意」×2


影翁と蔵慈が深々と頭を垂れた。

墨寧は、ぽんと手を打ってその場を散らした、

月はぽっかりと相変わらず浮いている。

目をこらせば、まわりにいくつもの星が出ている。


墨寧は、にまり、それを笑顔で見た。

翌日、大乱の最後を飾る戦が始まる。

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