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燕雀鴻鵠  作者: 見城R
17/22

6−4

中央で警邏の任務にあたる曹蓋は、

その後、破竹の勢いとも言うべきか、延国内、いたるところで戦果を上げていった。

無論、でっちあげもいくつか含んでいるが、

その勢いは、不正を覆い隠すだけの力があった。

その勢力をそのまま、人事にまで反映できているのか、

いよいよ、墨寧含む西州の役人の質が高品質化してきた。

中央ですらそれなりの業績を治めた輩がことごとく、

宰相派過激派として、西州で政治を執ることとなっている。

これには、流石の墨寧も辟易している、なにせ優秀と呼ばれる、

自分とは異なる人種がやってくるのだ、それが下にも横にも多い。

上は幸いなことに中央となるので少し距離がある、だからなんとかなる、が、

同僚手下の全てが優秀と歌われるそれという状況は、いささか尻の落ち着きがない様子である。


「だから、言われる通りにお前らは利潤を追求してりゃいいんだよ」


「お言葉ですが墨寧郡令、それでは民草がついてきません、民草をほだてることで、

より一層の利益をとってこそ、政治、政略ともに優れていると思われますが」


「五月蠅い馬鹿野郎、くだらねぇ御託と、理想論並べてるなら俺の言う通りに働きゃいいんだよ」


「話になりませんね、私の理論が間違っているという論述が成り立っていません、

もっと分かり易く説明してください、上司なんでしょう」


「失せろっ!!!もういいっ、てめぇみたいな奴ぁ降級降格処分だ、ウスノロの木偶野郎っ」


「なんたるっ…失礼を承知で言うが、やはり貴方は下品の出だ、

その口きき、そして物事の本質をわきまえない、

旧態然とした馬鹿役人をそのまま絵にかいた人ではないかっ」


「はっ、絵にかけるほど美しい馬鹿役人に、てめぇがなってみろってんだ、

これができるとできねぇで具合が違うんだよ」


「話にならん、中央に報告させていただく」


「やれよ、馬鹿野郎、頭でっかちの双六野郎がっ、今ぁな、

馬鹿役人が造った国で生きてんだ、学べ阿呆」


喧嘩別れ、いつものことだ。

影翁は、その様子を、後ろでほのぼのと、比較的安穏と見守っている。

その対照とも言えるほど、墨寧は、怒り続けてばかりいる。

上記のようなやりとりを、省令や県令といった、

下々の本来ならば手下である役人とやり続けている。

どれもこれも賢いと思われるのが集まっているので、

こういった諍いは当たり前のように横たわる、

墨寧ももっとしっかりと考える時間があれば、

あるいは彼らと意見を同調させることができるかもしれない。

だが、墨寧は現在郡令である、郡令はいくつもの省とあまたの県をまとめる、

地方役人の中で最も高いそれである。

その処理しなくてはならない事象は、消しても消してもやってくる。

その案件潰しだけをしていたら、自然、自分の理念ややりたいこと、

うまいことやってきた実情など消し飛んでしまう。

そして、消し飛んでしまっている隙に、手下である省令や県令がぐいぐいとごり押してくる。


一つも思い通りにならない。


それが、出世した男の一番の嘆きだった。

ただ、この事象については墨寧が地位に仕事ぶりを合わせられていないと帰結できるのだが、

まだその思考段階まで経ていない、曹蓋はそこをすんなり割り切ることで、

墨寧に時間と仕事を与えて、自分は出世してさっさと去っていったのだ。

墨寧も、早くそうするべきである。

嫌な仕事は、他人におしつけて、自分は安全な場所に逃げる、それが、

組織に属する人間の最も正しい生き残り方だ。

いつまでも同じ仕事に固執して前に進めなくなるのは、

馬鹿のそれだと気付かなくてはならない。


「また随分派手にやられましたな」


「現状を知らない馬鹿ばかりで驚く限りだな、頭がいいとかいうが、

四則計算に優れるだけだろう。あれは馬鹿と何もかわらん、話にもならん」


「そうですかな、周雲殿とまれに似たことを言う輩もいますが」


「周雲は優秀だった、あの物言いと、奴らの言うところは根底から異なっている。

周雲はもともと貧困層の出だろう、社会というか、暗部をわかって、

虐げられてきてたから、その言動と考えるところが、

現状の組織や通念に促されていた、それを度外視にする理想論というのは、

暴論だ、話にならん、空論ほどアホな非生産的活動は存在しない、

奴らは生きているだけでゴミだ」


「辛辣極まりないですな」


「ぬるいくらいだぜ」


墨寧は忌々しい、そういう顔で書類に乱暴な印鑑を押していく。

その仕事だけでも、腱鞘炎になるほどの量がある、

暇がない、策を練る暇がない。

暇を作るには優秀な手下が必要だ、それらにこの煩雑な全てを任せて、

自分は別の手を考えたい、そうやって欲するようになっている。


「しかし、おなじ賢人でも、周雲殿には肩入れがありますな」


「…自分でも不思議に思ってるさ、お前に指摘されるまでもなくな」


「素直ですな」


「隠すこともあるまい、よくわからんが周雲の言うところは今思うと、

理にかなっているところがあった。ただ、理想を掲げた上でのそれだから、

俺が短期間で出したい結果とは繋がらぬところがあった、それだけだ」


「だから生かしておられますかな」


「それもある、それに、俺には無いものを間違いなくあいつは持っている」


「情ですかな」


「俺にだってあるんだぜ?若い頃は、飲み屋のねーちゃんにつぎ込んだりしたんだからな、

だが、それが魅力に、人徳に代わったことは無かった、周雲にはそれがあったように思う。

あいつは押さえておきたい、できれば部下として使いたいな、壮絶な片想いだろう?」


「多情なことですな、徐粛殿にも同じ気持ちでしょう」


「ふん、典晃も、鐘豊も、蔵慈だってそうだ、無論、影翁、お前もだ、

俺に無いものを持つ男は全て欲しい」


「欲張り欲張り」


「そうだ、強欲でなくてはこの地位、さらに次は望めぬさ」


墨寧はふふり、一つ軽く笑って、

また、書類に判子を押していく。

影翁もほっこりしているではないが、久しぶりに本音をぶちまける主人に、

ほくそ笑んでいる、極短い、平穏をここに感じ取っているのである。

やがて、まもなく、すぐそこまで来ている。

波乱の毎日の前の静けさ、そう感じているのだろう。


「ふん?」


「どうされました」


「おい、この県令、こんなに優秀だったか?」


一枚の書類に目をとめた。

それを影翁に見せる、じっと考える、

それは岩倉県の資料だ、当たり障りのない県令が置かれていたように思われたが、

そこで進められている事業、南州との境界を作る長城作り、それの進捗状況が、

富みによくなってきている。


「はて、ああ、確か中央から補佐が一人回されておりましたな」


「補佐一人でか?…」


「調べますか」


「頼む、いや、調べるというよりは、確かめるだ」


「仰るとおりに」


墨寧は少しだけ顔を引き締めた。

そこに、周雲がいる、そう直感した、

それの活動がわずかとはいえ表に出てきた。

つまり、顔を出せるほどの何かが揃った合図だろう、

徐粛の影が鈍く揺れた気がする。



岩倉県。


「よーし、休憩をせよ!!」


長城作りの現場で大きな声が響いた。

太陽が南中する時分、その声とともに長い昼休みが始まるように出来ている。

奴隷達は、かつての悲惨な現状から異なる、労働者としての姿をそこにたえている、

相変わらず内容は非常に厳しいものだが、労働環境が大きく改善されている。

はかどらない時はいっそのこと休む、

このメリハリが、奴隷の労働能力を向上させた。

させたのは、中央より派遣されてきた補佐官である。


「いかがですか県令殿」


「流石、中央で役人をされていただけありますな、頭があがりません」


「なんのなんの」


大いばりで中央の男は満足げな顔をさらしている。

彼もある意味で旅人に近いそれである。

遊説家と呼べばよいか、理想や思想を語り組織の仕組みなどについて、

様々な含蓄を持つ男である、そういった商売をして、

中央でそれなりに結果を出した男である。


「かなり遅れていた作業もすっかりと取り戻しております」


「なに、その内に予定よりも早く終わらせることができるでしょう」


得意げにそう言うと、うはははは、大きな声で笑った。

これらのやりとりは、現場からは少々離れた県庁にて行われている。

相変わらず岩倉県は貧乏県のままで、

役人は県令とこの中央からの男の二人だけであるが、

そこに、労働力が1000人以上やってきている。

大所帯と言うべきだろう。

期せずして、町のようなものができた、それは、

全て寝床を作ったというわけなので、一見すると宿場町のように見えなくもない、

ただ、管理人がいないそれではある。


「さて、現場を私は視察して参ります、県令殿はごゆるりと過ごされなさいませ」


「はは、ではお言葉に甘えて」


平たくデキが悪い、そう言っても差し支えがないかもしれない。

一つ一つの能力は平凡のそれを保っている、おそろしく平凡な男だ。

優秀な役人が増えてきた中で彼は落第している部類に入る。

岩倉県は既に要所ではなくなっているので、

彼のような県令で充分つとまるのであるが、その土地の重要性とは異なり、

抱えている事業については重要なものがある。

それが、長城作りである、その現場、そこへ遊説家はようようと近づいていった。


「これはこれは先生」


「言った通りにしているか」


「はい、仰られた通りに、休みを充分に与えております」


「よし、気力を充実させてやればさらにはかどる、だが、気を許すでないぞ」


「心得ております」


衛兵の男と言葉をかわして、視察をかねて、

現場を歩いていく、また、午後の作業がはじまったところらしく、

そこかしこで、半裸の男達が固められた砂を運んで長城を作っている。

その様子を見ては、自分の思想が正しかったと確信していく、

少し歩くと、目をかけている奴隷を見つけた。


「おお、徐粛に周雲」


「これは、先生」


「どうだ、我が愛を知ったか」


「はは、感服つかまつりました」


「そーだろうそーだろう」


得意げに先生こと遊説家は笑った。

それを、苦笑ぎみに二人は見ている、奴隷の中でも、

少しだけ身分が高いとされているのか、徐粛と周雲は監督のような地位にいる。

以前、視察にきた先生は、この二人と論をすることで、

この天啓を授かった、いや、先生曰く、ひらめいたのである。


「理念とは愛である、天が与えた愛を感じることで、

人間はどこまでも極限までも辿り着くことができるのだ」


「いやぁ、流石です先生、我々はただ与えられるだけで見えませぬ、それでも、

与えられました休息により、そのありがたみから身体の動きがよくなりました、

おかげでこの通り、仕事は順調に進んでおります」


「そう、徐粛が言う通りに今では、労働者皆が、息を吹き返しております、ただ」


少し、周雲が顔をかげらせた。

機会を見計らったかのように、一瞬だけ太陽が雲に隠れた、

全体が少しだけ暗くなった気がする。

その雰囲気にひきずられるでもないが、逆接で止まった台詞の続きを気がける先生、

急かすように瞳は周雲をつつく。


「いえ、折角気力を取り戻しましたが、身体がまだついてきていないのです」


「それはどういうことか」


「さぁ、これはなかなかわかりません、こう、力を入れようにも入らず、

立ち上がろうにもけだるげ、ほら、あの男を見てください」


周雲は、奴隷の中でも一際痩せた男を指さした。

そして、困惑顔をさらして、先生にもう一つ告げる。


「あのように、体力の無い、優れぬ身体となってしまうのです、

おそらくは我々が奴隷であるから、天が我々の身分相応にしか力を与えてくれぬ、

そんな証拠でありましょうが…」


「もう少し、我々も先生の、せめて足下ほどにまでの地位となれましたら、

さらに、働きを強めることができるのですが…」


殊更悔しそうに徐粛が言葉を接いだ。

そう言う二人もやはり、げっそりと痩せている、

先生は、ぴきーーーーんっ、ひらめいた、そう、

先日、周雲と徐粛に、

『皆、寒い地方の出なのですが』

『もう少し力を蓄える時間があればなんとかなるのですが』

『仲がよくない者たちがいるのですが』

という言われて【ひらめいた】時と同じ、

「暑い時間に休憩を与え、労働者を二部に分けて時間差で仕事させる」という

天啓を吼えた時とまったく同じように、先生は思いついたのである。


「そうか、ならばだ」


先生は、ことさら、その言動に重みを乗せる、

軽々しく思いついたそれではない。

そういう雰囲気が滲みでている、先生は少しだけ身をかがめたようにして、

低い声できりだす。


「地位はそのままでも、天から力を得ることができる、酷く単純なことだ、だが、

それを為すのは、私だ。それを忘れるな、私の力がそうさせるのだよ」


「おお、また、何か天啓が」


「酷く簡単なことだ、明日から一週間もすれば効果が出るだろう」


言い終わると、急いで、それこそ走って先生は消えていった。

その背中が見栄終わる頃、ようやく我慢していた笑いが口元から零れた。


「くっくっく、周雲様の演技は傑作ですな」


「馬鹿を言うな、徐粛…お前、どれだけ他人を見下して馬鹿にしているんだ…」


「おっしゃる顔が笑っておりますよ」


「それはな…」


苦笑、そういう具合で、周雲も笑いを誤魔化さず、ひと思いに大きく笑った。

釣られて徐粛も噴出するように笑い上げた。

その声に驚いたのか、幾人かの労働夫が振り返ったが、

声の主を見て、また近々よいことがあると悟った、そういう顔をして、

また作業に没頭はじめた。


「これで、食生活の改善もできましたな、周雲様」


「先生には感謝せねばなるまい、やはり、持つべきは良き師だな」


「なんと、貴方が一番酷い」


からからから、二人でまた大きく笑った。

こんなことで、奴隷達の生活改善がされている。

馬鹿が相手で助かった、そういう具合で、周雲達、この奴隷達一群は、

めきめきと力を蓄えていったのである、無論、作業をする力ではない、

いつかに備えるための力だ。

二人が出会ってから、この酷く単純な操作が始まった。

いきなり出来るんなら最初からやっておけよという気がせんでもないが、

徐粛が、下準備を進めて、周雲と出会ったからこそ、できたことである。

周雲が労働者のほとんどの心を掌握したのが大きい。

これはもう、理屈じゃなくて、天命なのだ、そういうことにしておく。


「しかし、これだけ速度があがったということは、流石に気付かれただろう」


「まぁ、狼煙のろしですからね」


「その後、典晃の行方はどうか?」


「わかりません、中央へは戻っていない様子、どうも戦死扱いになったそうです」


「本当に死んだわけではあるまいな」


「大丈夫でしょう、先の墨寧戦で捕まった奴隷の何人かに聞きましたが、

逃がされたとのことですから」


「逃がしたか…墨寧殿は、どうされたいのか」


周雲がため息にも似たものを吐いた。

徐粛はそれに答えず、ぐっと言葉を飲み込んだ。

どっちにしろ利用する腹づもりなのだろうから、利用されてやる、

その上で我らの便宜を図ろう。

外と交信を取りたい、そのためには早く典晃を捕まえたいと焦っている。

しかし、掌握して、自由を取りつつあるとはいえ、

所詮労働環境とその外では、まるで繋がりができないのだ。


「この噂で何かが動けば、典晃が気付くかもしれません」


「しかし、典晃が負けた時のことは想定してなかったのか?」


「いや、していたのですが」


「?」


「本当ならば、捕まってここに来ると思ってましたからね」


「ほう、徐粛先生でも読み違えることがあるか」


「意地の悪い人だ」


「はっはっは、奴隷になって、私もそうなったのだよ、

さぁ、考えるよりも身体を動かす時間だ」


周雲は気にとめるな、そう言いたげな、

なんというか励ましの調子を声に乗せて、

徐粛の背中をぽんと叩いた。

そのまま、笑顔を一度向けて、すぐに現場の方へと大きな声をあげて近づいていった。

労働者達が応えて手をふる、とんかんけんかん、壁作りの作業が続いていく。



「これはこれは、郡令様のお使いが」


驚いた様子の岩倉県県令。

その知らせに慌てて席を作った。

そしてぬかりなく、遊説家先生も呼びつけた、

全てが整ってからようやく、

影翁をその部屋へと通した。

影翁は、すらりと全身を包むややゆったりとした服を着ている。

かつてのみすぼらしいそれとは、雲泥の差だ。

立派な公人、その使いとして威厳を放っている。


「これは、ご歓待」


「いえいえ、なにぶん田舎で何もございませんが、どうぞ」


「いやいや、これはかたじけない」


すぐにでも現場の視察をしたいと影翁は考えているが、

とりあえず、県令と中央からの役人の力量を量るため、

その場に留まることとした。

座ると茶が運ばれてきた。


「ほう、茶がありますか」


「ええ、最近はひっそりと茶を育てて特産としようと考えておりまして、まだまだ、

産地のそれには遠く及びませんが、安い、庶民でも呑めるそれとしようと思っております」


「それにこれを労働者達に呑ませておりまして、これが疲労を回復させる力があるのです」


二つ目の台詞が先生の台詞だ。

影翁は聞いてもいないことを得意げに喋り出した男に、

いささか驚いたが、なるほど、こういう声をしているかそういう感想を覚えた。

顔はたいそう話の内容に驚いた様子を象りながら。


「なるほど、随分、労働者の待遇をよくされたのですね、それでヤル気が」


「ええ、全てこの先生の指図によるところであります」


県令は人の良さというべきか、

そう、先生をしきりに売り込んでいる。

先生は安売りされているようで、決して面白くないらしく、

いかにも中央出身という雰囲気が出ている、地方郡令如きという自負があるのだろう。

影翁は見越した上で、ゆっくり、そしてやんわりと手をとった。


「これはこれは、ありがたいことであります、

これからもなにとぞよろしくお願いいたします」


「いえ、仕事として当然です」


「頼もしい…さて、茶で私も英気を養えました、

一度現場を見せて戴きたいのですが」


「無論です、馬車を用意しておりますので、どうぞこちらへ」


ぬかりなく、そういう感じで県令が影翁を連れだした。

後を先生が追って出た、主客の順が間違っておるだろう、

影翁はそう思ったが、県令も先生もそれを不思議に思っていないらしい。

二人とも、郡令の偉さを知っているが、

それ以上に先生の中央出身というところを大切にしていると見える。


馬車は一頭だての小さなものだったが、

男が三人乗ってもゆったりとした空間のある大きなものだ。

それが、がらがらと音を立てて走っていく。

道の整備はまだしっかりゆきとどいていないらしいが、

それでも、道らしきものがあり、それが遠く長城のあたりに続いている。


「壮観ですな」


影翁が思わず呟いた台詞は本音だ。

遠くに青空の下、白く浮かぶように長城が並んでいるのは、

絶景と言って相違ない。

がらがらという喧しい音も、まるで気にならなくなった。

思わず身を乗り出して風を浴びて眺める、

実によい景色だ。

爺には決して芸術理解の才能は備わっていないし、

今まで見向きもしてこなかった、だが、それでいて心をつかみ取られたような、

素晴らしい感動を覚えた。


「素晴らしいでしょう」


県令が翁の後ろから身を乗り出して大声をあげた。

風をきりながらも、その声はちゃんと届き我を忘れていた翁は、

本来の仕事を思い出した。


「大したものです、流石、中央政府の考えられる事業は壮大さが違う」


「私も、このような大事業の一端を担えて大変幸せに思っております、宰相様のおかげです」


「県令殿は、随分と古参でありましたな、たしか」


「ええ、もともとは中央で書庫整理をしておりました、下っ端でしたよ」


「ご謙遜を」


「いえ、こちらの先生とはまるで違います、先生はやはり凄い。

中央でそれなりの威勢を見せた人は、なるほど、

事業に関わる時はじめてその真価がわかるのですなぁ」


呑気なことを言う男だ。

だからお前はこの場所で、こんなことをさせられているのだ。

その幸せな脳を褒めてやりつつ、影翁は、

その会話が聞こえているであろう先生に気を配る、だが、

気にした様子がない、下々の会話とでも思っているかのようだ。

その思い上がりが仇となっているな、爺は決めつけている。

だが、間違いがないだろう。


「そろそろ近づいて参りました」


県令の声で、影翁は今一度外を見た。

大きな城壁が続いている、今は既に完成した域を眺めている。

やがて、遠くへ向かうにつれ人夫の姿がぼちぼち見えてきた、

その現場と平行するように、日陰を作るための屋根が並んでいる。


「あの屋根はなんですか」


「あれこそが、休憩所です、あそこで日中の陽射しが強い時を避けて仕事をさせています」


「ほう、休ませて、それでは、だらけるのでは?」


「確かに責め立てたほうがより、強い力を産みますがそれは長続きしません、

こういった大きく、そして長い時間が必要なものは、ゆとりを持っていかなくてはならない」


持論を打つ先生、朗々と詠唱するかのように放った。

その堂に入った様子は、思わず笑ってしまいそうになるほどステキだが、

影翁はもともとの作り笑顔でそれを誤魔化した。

顔のシワが気持ち深くなった、笑顔の味がうまみを増す。


「なるほど、おや、途中で切れて、また途中から始まっておりますな」


「これこそ、この事業最大の見所、長城の内中心塔となる分岐点から先に構築し、

それより先を順次付け足していくのだ、東から西に向かってこれは走っている。

東から等間隔で塔は配置されているから、まず4カ所の塔を造る。

塔からは隣の塔の姿しか見えない。だが、目標がその塔にあることがわかるので、

真っ直ぐに長城を造ることができる。そして、塔が完成したら塔の間を繋ぐ壁造りとなるが、

ここで塔を造っていた人員を半分割いて、さらに先の塔造りをさせる。

残りで壁を造っていく、当然壁が先に仕上がるから、

壁を造っていた奴隷をその事業を眺めさせながら、一番西の現場、

また先の塔造りへと携わらせる」


「さて、どうして」


「奴隷達も人間、その携わった事業の強大さを移動の間に知ることで、意欲がわくのですよ」


「ほほぉ」


これには素直に感心した。

確かに、爺が心奪われたような景色だ、それを造っていた。

またこれからも造っていくと思うと、何かやる気が湧く気がせんでもない、

うまいこと考えたものだ、人間を理解したやり方だ。

感心したが、ひっかかることがある、この男が本当にこれを考えたのだろうか、

それを探らねばならない。


「おお、言っている先、見えてきましたな」


「ええ、どうされますか、眺めるだけでよろしいか?」


「いや、折角ですので、一度、壁に触れるところまで」


「なるほど、酔狂だ」


県令は大きく相好を崩した。

そして、現場近くの屋根で三人は降りた、そのままゆっくりと、

現場のほうへと足を入れていく。

太陽は南中を過ぎたとはいえ、まだ、かなり高く暑い、

確かに、日中最も厳しい時間を労働に費やしては、死人が後を絶つまい。

影翁は感心するが、ゆったりとした衣服も少しずつ汗を吸って重くなっていく。


「ほぉ…」


ゆっくり、実際は大して興味もないくせに、

その壁の肌を触り撫でる、この演技は見事と言わざるを得ない。

そこに最愛の慈しみをもって、影翁は感心を声に出している。

別に何か言ったわけでもないのに、この事業に感動していると、

二人の役人に充分伝えきった。


「そうですな、まもなく休憩の時間です、屋根の様子も見てはいかがでしょうか」


「それはそれは、この暑さ、また茶が美味いのでしょう」


「はっは、味を占められましたか、これは売れるかもしれませぬな」


県令は違うことを思っている。

影翁の感心しきりの様子に先生はほっこりとしている、

自信を増した、そういう具合にも見えるが、

それくらいでよかろう、転がしておく分には役立つ、

それよりも。


カンカンカンカン。


大きな鐘を鳴らす音が響くと、どぉ、そんな声が聞こえそうな様子で、

労働者達が戻ってきた、ゆったりと歩いて近づいてくる。

休んでいるとはいえ、その疲労は大したものだと思われる。

思われつつ、その鍛え抜かれた身体を見て驚愕する。


これで反乱など起こされたら、統率のとれたそれならば、正規の兵よりも強いやもしれぬ。


戦場に身を置きがちだったことで、

兵の質を見極める目ももった、おかげでそういったことも考えられた。

その考えも、まとまらぬうち、それらが全て、

まっさら、真っ白になる瞬間が訪れた。


「………」


横で県令は何か喋っている様子だが、それは耳に入らない。

じっくり、屋根の下の影からは、眩いばかりの外、

真っ白な外からゆっくり、労働者が近づいてくる。

特にゆっくり、だが、威風堂々とした若者が二人近づいてくる。

むこうは、顔を伏せているせいで、まだこちらに気付いていないらしい。


どう出会うべきかな。


珍しく、翁が迷った。

だが、迷っている間にとうとう、周雲と徐粛は屋根の下に辿り着いた。

そこで大きく息を吐いて、一息をついた様子だ。

まずは、ぬるめの水を呷っている、それから茶が振る舞われるらしい、

その時、影翁の姿に気付いた、三人の視線が交錯して、動きが止まった。


「どうされました、使い殿」


「いえ」


「ああ、流石郡令様の使い、慧眼でございますな、彼らはこの地区の労働主任をしております」


「ほう、奴隷に身分を」


「無論です、軍隊のそれと同じように統率をとらせてこそ大人数の仕事ははかどります」


また、先生が付け加えた。

軍隊のそれと同じように、ということは、軍隊にそのままなるということかな、

影翁は、すぐにその裏を読み取った。

その様子を徐粛に気付かれたらしいが、それに向けて、破顔した。

影翁は確信するしかない、この程度の役人に彼らのような奴隷では、

主従が逆転するのは道理かと、その目の前に、ずけずけと二人は近づいてきた。


「県令様、順調に進んでおります、こちらの方は?」


「こちらは郡令様の使いだ、貴様らとは本来言葉をかわすことすら憚れる身分のおかただ」


「これは、失礼いたしました」


言うなり、二人はすぐに跪いた、

奴隷が板に付いている。

影翁は苦笑を誤魔化しながら、二人に近づいて声をかける。


「この大事業、これは延の未来のためのもの、どうぞ頑張ってくだされ」


「ありがとうございます」


それを微笑ましく、そして、

手柄の風景だと役人二人は見守っている。

郡令に、自分たちの仕事を充分に示威せしめた、

それがありありと背中にわかる。

奴隷二人を抱えるようにして、影翁はゆっくりと口を開いた。


「うまくやられましたな」


「いえ、足らないものがあるのです、これでも」


「ほう」


「外からの、情報ですよ、翁殿」


会話をしたのは周雲だけだ。

徐粛は驚いた様子で、周雲を唖然と見守ってしまった。

なんてことを言ってしまうのだ、

そういう表情だ、それだけでこの件は周雲の独断だとよくわかる。

わかるが、


この内容こそ、周雲殿の真骨頂、誰もが欠いている部分、墨寧様が欲しがるわけだ。


影翁は応えなかった。

そのまま立ち上がり、また戻って役人どもと、何かを喋っている。

ずずり、下男のように引き下がって、周雲と徐粛は、その場から離れていった。


「なぜあのようなことを」


「徐粛殿、先にも言った通り、墨寧殿は御仁だよ」


「しかし」


「外との連絡を確実にする、典晃の政治力よりも、

本当に政治中枢にいる男ととったほうがよかろう」


「裏切られますぞ」


少し歩いた、周雲はわざと足をとめた。

屋根の端のところまできている。

徐粛は真っ直ぐに周雲を見つめた。


「それはない、それはないが、私も怒りを恨みを忘れたわけではない」


この言葉は意味通りとは思えないが、

それでも、周雲のなみなみならぬ、耐えてきた日々を覗かせる。

荒みくすんだ瞳の色に、徐粛は言葉を失い、

同時に、とてつもない安心を得た。

信頼や信用をした上で、周雲もやはり利用するつもりなのだ。


「さて、そろそろ時間だろう」


「ええ」


徐粛が応えると、労働者達もわかっていたかのように茶を呑んで、

ゆっくり体操を始めた、全員が揃って体操をする。

これに面食らったのか、影翁は少し後ずさりしてそれを眺めた。

役人二人は慣れているのか、まざまざと見ている。


「これは」


「身体をほぐすことがよいということです、また、この体操が楽しみな輩がいるらしく、

また、心持ちが向上するのですよ、歌とともにやるからなかなか壮観な出し物になる」


「しかし、なんとかという書物で労働に歌は禁じたのではなかったでしたか」


「古典ですな、あれは古い、確かにその一面もありますが、

喜びを奪い去ってしまってはダメになる、ご覧下さい、

あの生き生きとした顔つきを、古典の論理など失せてしまいます」


先生の得意げな声が、馬鹿を丸出しにしている。

これは、どう見ても戦闘訓練の一部ではないか、

体操と言ったが軍事訓練の一つにしか見えない。

古典はこのような事態をそもそも想定して禁じていたのではないか。

影翁はそう思ったが、黙っておいた。

その危機感だけを的確に上司へと伝える必要がある。

ただ、戻る頃には、もう、手遅れかもしれぬ、

そこまで覚悟を決めていた、岩倉県から郡令府は遠いのだ半月はかかる。

視察を終えた翁は、すぐさま戻りの道についた。

もう少し近くを巡視する予定だったが、その暇はない、馬は早く道を駆けていく。


後日、賊が一団捕まってきた。

それらは、すぐに周雲と徐粛を見つけ、こう告げた。


「典晃殿は無事です、我々を率いて山で賊、いや、用心棒をしております、

蜂起されるまでよけいなことはするつもりなしと」


膝を大きく打った音が響いた、

それは徐粛のものである。

全てが揃った、それを告げた音でもある。


やがて、大乱が始まる。

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