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燕雀鴻鵠  作者: 見城R
15/22

6−2

徐粛が捕まり、主立った賊は捕らえられた。

これにより一時的な小康状態が保たれることとなった。

このことから、徐粛が大半の賊を支配していたという、

恐るべき事実が浮かび上がるが、それは封印されることとなる。


この一時が長く、2年ほどに渡ることとなったのだが、

その間、墨寧は相場を掌握してそれなりの利益を農産物から上げて、

曹蓋の統括郡における筆頭省令の地位を守り通した。

曹蓋は中央への覚えをよくするため、その墨寧から上がってくる潤沢な資金を、

惜しげもなく使い続け、なんとか中央との繋がりを強くしてきた。

派閥という概念は、金銀の前には無に等しい。

それが実証された事例でもある。

ともあれ、曹蓋はいよいよ中央へ影響力を持ち始めていた。

天帝派といえども、信奉力が弱いものが存在し、それらは買収という形で裏返るのだ。


しかし、その反面と言うべきか、延の国はこれまでに無いほど治安が維持され、

圧倒的な平和を甘受する時期に入っていた。

その裏で、捕まえられた悪党のことごとくと、無罪でも引っ捕らえられたことごとくは、

天帝派、宰相派の両派に操られありとあらゆる建築物の建造に携わっていた。

余談ではあるが、後世にて、この時期の建築や文化については、

一つの偉業として数えられることとなる。

一部の暴走により為されるそれらは、尋常では決して産まれることのない、

無駄だが、美しい、そういったものを作り続けたのである、芸術的な文明開化が華やいだのだ。

その代表となる一つに、今後、墨寧が関わることとなる西州岩倉県の砂砦がある。

砂砦は、南州の砂を建築材にするという画期的な技法から作られた、

それまでには存在しなかった砂の城である。

これも文明が為した一つのものである、後世にこの砂の城は存在しない、

今は、それだけを伝えておくことにする。


ともあれ、徐粛逮捕から2年を過ごし、その地位に慣れた墨寧が、

郡令である曹蓋のもとへと召還された。


「墨寧、よく来た」


「はっ」


「そろそろ前線の仕事を与えようと考えている」


「ありがとうございます」


「これまでの3年もよく過ごした、私の言う通りに過ごせば、必ず郡令の地位を貴様に渡そうぞ」


「…」


「くだらぬことは考えぬことだ、以前と同じ結果となる」


「その点はよく心得ております、同じ失敗を繰り返しません」


「そうだ、貴様はそこそこ賢い、何より権勢を見誤らない、よきにはからえ」


上記のようなやりとりがあった。

曹蓋が操る省令は3人存在する、その筆頭に今、墨寧は座っている。

経歴を見れば外様のようなものだが、

墨寧と曹蓋は気心が知れている、何せ、かつて政敵となった程だ。

その奇妙な縁が幸いして、墨寧は筆頭省令のまま、栄達の道を歩み続ける。


「しかし、優秀な方が増えましたな」


「お前もやりにくかろう」


墨寧は、同僚とも言うべき他の省令や県令を見て呟いている。

墨寧は筆頭省令であるが、従えている県令は2級品ばかりだ。

これはおそらく、曹蓋が、墨寧を手飼いとしながらも力を、

最大限に発揮できないようしつらえた鎖と同等のものだ。

墨寧以外の省令はそれなりの人物で、

さらに下に仕える県令はいずれも中央からの優秀な役人が送り込まれている。

戦略的に墨寧の治める位置が補給など二次的なものであるから仕方ないとも思えるが、

自分は二級品しか与えられていない、墨寧は、その不満を暗喩している、

しかし、曹蓋は毛ほども感じた様子はない。


「優秀な人間というものは居るのだ、そして、そうでないものも今、この場所に居れば開花する」


「?」


墨寧は、珍しく冗長となっている曹蓋の声に、

耳を傾けて、それでいて判断をしかねている。

曹蓋が見えている何かは、まだ、墨寧には見えないのだ。

彼の愚痴の本当のところが解るのは、彼の地位になった時なのだ。

それを、まだ、墨寧は知らない。


「お前は運が良いのだ、それなりの能力を持ち、それを発揮する場所を与えられた、存分に働けよ」


「はぁ」


「うはははっ、そうだ、そのやる気の無い答え、お前以外の省令と全く異なるそこに、私は賭けている」


曹蓋は、墨寧を危険としつつ認めている。

この思考回路は、非常に大器のそれと似ている。

だが、「大器」をまだ墨寧は見ていないから、曹蓋が言うそれは、

尊大な地位から発せられた、馬鹿の戯言如きにしか見えていない。

お互いが、お互いを危険視しながら、その対偶でお互いを最大限に利用し、

利用されることで自らが開発される。

この時期の墨寧は、曹蓋の言う通り恵まれている、毎日生きて、仕事をしているだけで、

驚くほどの成長を強いられる環境に居たのだから。


「翁、戻ったぞ」


「墨寧様、お耳に入れておきたい事柄が」


挨拶もなし、影翁が少々焦りを見せて近づいてきた。

ただならぬことだ、そう思って墨寧は少し身構えた、

今、諜報活動の全てを影翁に委ねている。

墨寧の出世速度からして、影翁は絶対裏切らない。

それが唯一でありながら、絶対の信頼を産んでいる。


「前線にて敗戦の兆しが」


「そうか、俺は今日、前線での任務を授かってきた」


はた、そこで全てが繋がったように思われる。

墨寧は考えた、曹蓋は一発逆転の為に自分を選んだのだと。

影翁は考えた、曹蓋は墨寧を失脚させるための人事配置だと。

その差異について、お互いが認識して、にやり、笑い合った。

お互いが信じた事と真逆のことを考える他人を見て、

笑うしかない、そう感じた。


「さて、翁、どっちにつく」


「私は浅慮でありました、いやはや」


本気か?

墨寧は、疑いを投げかけたが、驚くほど、

珍しいと評して差し支えがないほど、影翁はその言葉に重みを乗せてきた。

墨寧は、己の判断が正しかったと信奉することができる。

自分ならできる、そんな簡単な思いこみが、

現状を打破できるのである。


「一発逆転、となると思うか」


「するのでしょう、情報は揃えてあります、敵大将は」


「典晃だろう」


ほう、影翁は大きく目を開いたが、すぐに薄く閉じて、

にやりと笑った、その通りのこと、墨寧が予想していたというのは成長の痕か、

影翁は前線の情報を細かく告げた。


「なるほど、戦ぶりからして徐粛の影はないな、ならばやりようがある」


「正面から当たるつもりですかな?」


「…ここを分岐点だと考えているのだ、占いだよ、これで勝てれば俺は更に上にいける」


晴れ晴れとした声を上げた。

墨寧は、次の戦に己の全てをかける様子らしい、

影翁は、珍しい、いや、つきあい始めて初めて見るその様子に、

少しだけ悪寒を走らせた、それがよいものか悪いものか。

わからないが、ぞくり、させるだけの力が発せられたのだ。

男として賭けるに充分な空気を嗅いだ。


時世は常に動いている。


外様から見ると、公共機関である、

曹蓋の治安維持部隊と、

中央の警邏隊が、

それぞれいがみ合う姿というのは奇異以外の何者でもない。

それに、同じ権威から発生した、同じ目的の軍団が諍いを起こすことは理論上あり得ないはずである。

本来、典晃と墨寧が戦争を起こすという事象は発現しないはずだ。


しかし、この数年平穏であった時、

お互いは力を蓄えた、その蓄えを放出するために、

賊が発生した、両者が両者の正義をもってその賊討伐に乗り出すわけだ。

この賊を発生させたのに、お互いの工作員が関わっているが、

そのようなことは裏に葬られる事象である。

周雲あたりならば、その、己の地位のために治安を乱すという概念が、

理解できないであろうが、地位を持続する、あるいは逆転させると考える輩からは、

その不可解な出来事を平気でなさせるだけの何かを発する。


今はその時である。

墨寧か、典晃か、どちらがその賊をあげるか、

そして、賊を上げたという事実だけが報告されればよく、

お互いが諍いを起こした、あるいは、賊などというものは存在せず、

お互いの戦力を重ね合わせた、つまり、

意図的に戦争が起こった。

そうだとしても、世論は何も反応しないのである、それだけの情報統制が、

中央から、両派から、全てから発せられている。

憂うべき事態ではある、民意は踊らされるばかりで、結局、

一部の特権階級の喧嘩が、何万人という犠牲者を出すこととなるのである。


だから、両者は賊を退治するのではなく、単純に戦争をすることとなったのだ。


舞台は岩倉県、両指揮官にとって曰く付きの土地。

いずれにも有利ととられるその土地で、

静かに両者が布陣を終えていた。



「雨か…」


「火計は使えませんな」


「それでも俺にとって鐘豊は必要だ」


この戦に鐘豊を伴って墨寧は挑んだ。

水属性があると思われる鐘豊と、

火の神に愛されたというべきの墨寧は、

まさしく対極にあり、相容れるべきではないが、それでも、

墨寧は彼を連れてこの場に現れた。

さんさんと冷たい雨が降っている、岩倉県は南州に近い場所に位置する。

南州は砂漠の土地だ、つまり雨が降らない、

それなのに雨を呼び込んだ、鐘豊にまつわるその才能については最早疑うこともない。

しかし、そんな才能欲しくはないはずなのだ、墨寧にとって水のそれは救いのないそれだ。


「墨寧様」


「翁、お前は考え違いをしてる、俺が鐘豊に求めるのは水ではないのだ」


うそぶく調子、それならば何を。

雨を呼ぶ以外、おおよそ何も無いと思われる鐘豊をどうして伴ったのか。

影翁には解らない、解らないが自信に溢れる姿に賭けている、

傍らには蔵慈も控えている、不意打ち、暗殺等の心配は無い。

この戦、両指揮官の影響力が強く、それが挫けた時に決すると分析がされている。

中央では、この戦の趨勢が、ひそかな話題となっている。


「さて、指揮官殿、今後の方策についてですが」


「真っ当な作戦で、真っ当にあたる、ともかく基本をなぞるだけの戦略で勝つ」


雄々しく言うが、その内容は陳腐極まりない。

だが、墨寧はうっすらと、基本の重要性を認識している、

奇をてらった計略よりも、順当な、あまりにも定石すぎるそれの方が、

実戦において遙かに役立つと思っている。

奇策は、両軍によほどの質か量、あるいは両方の差がなければ成り立たない。

ともかく、そう結論づけている。


墨寧方1000人、典晃方700人。

この数値がいやらしい具合ではある、倍の数であれば定石通りで、

負ける要素は全くなくなるが、この中途半端な微差については、

その戦ぶりの左右によって、大きく勝敗が異なることとなる。

墨寧は難しい戦を強いられていると言ってもよいだろう。

相手は精鋭を鬼が率いた戦の為の部隊、

方や墨寧方は、通常治安維持のために組織された、いたって普通の部隊である。

戦力としては、五分にとれる。


「単純な戦争をする、見晴らしもよい、平原が広がる戦場だ、ごくありきたりの軍用を完璧にこなすことで打破する」


「心得ました」


言ったのは影翁だ、これは評定ではない、

ではないが、墨寧にとってはこの打ち合わせが最も重要なことだ。

正直、部隊長に伝える本来の評定は、指令を渡す場であって、

作戦を練る場ではないと考えている。

影翁の反応を見つつ、己の願望を確信に変えていくことにする。

それを確かめ極めた後、ようやく評定が開かれる。


「敵は賊ではない、天帝派、典晃率いる警邏隊である」


「…」


部隊長達は、そのはっきりとした物言いにいささか驚きを隠せないでいる。

事象をなぞらえて、そういう政治的な対立であると解ってはいたが、

面頭向かって、その事実を上役より聞かされるというのは、

考える以上に精神に影響を及ぼす、そうだと信じられるのだ。


「作戦を説明する、200人ずつの5隊に分けて殲滅を目的とする」


「私と共にある本隊は砂砦にて趨勢を見守りつつ、他4隊にて敵殲滅を謀る」


「定石通りだ、4隊それぞれ前進、敵の弱いところを突き、強い所を避ける」


「全ての指示は砂砦より旗にて送る、各人、全軍の動きを乱すことなく、迅速な対応をすること、以上だ」


墨寧の説明が終わった、何一つ面白みのない作戦だ。

部隊長達は、それでも上官の命令に従い、それぞれが、

各陣へと戻っていく、墨寧は砂砦の頂上にて戦風景の全貌を眺めつつ、

戦況に応じて指示を与えていくこととなる。

各人の準備が整った、また、相手方も整ったのが解った。


お互いがお互いを確認して、開戦となった、ドラの激しい音が両端から湧きあがってくる。


「神が優れているのはこの視点を持っているからなのだろうな」


墨寧は、戦場を高い位置から眺めることで全てを把握できている。

砂砦の物見櫓はかなり背が高い、戦場を遠くまで眺めることが可能となる。

どの部隊が現在劣勢を強いられているか、

その援助をどこにさせたらよいか、それを視覚出来るだけで、

驚くほど的確な指示へと変貌する。

忙しく、旗振り係は、墨寧の指令を逐一旗振りと太鼓で報せている。

じゃいんじゃいん、そういうドラの音が部隊をあちらこちらへと誘っている。

この軍隊行動ができるようになっているのは、一つの成果である。

これらの音を要さずに軍隊行動ができる典晃方から見れば、幼稚なことではあるが、

その基本が大切だと解る戦況になっている。

互角、いや、わずかに圧している具合なのだ。


「三番隊に前進を命ぜよ、直進して当たる敵を併呑するのだ、二番隊、四番隊は後衛に回りつつ敵を回避」


ばさり、ばさり、その旗振りが忙しくまたはためいた。

言われた通りに軍用が変化していく。

美しい戦列が、ゆっくりではあるが、確実に敵の各個破壊を完了していく、

だが、この作戦は当初の通り、弱い所を順番に潰していくという方法だ。

残った所はいずれも精鋭ということになる。

墨寧はまだ兵法をちゃんと理解仕切れていない、本来は強い兵の弱い所を倒すべきなのだ。

あるいは、強い兵を弱い状態へと誘うことなのだ、最初から弱いところを砕くことは下策である。

弱いところという無駄が無くなった敵は、それまでよりも一層強固となってしまう。


「ここからが戦だな」


その自分の失策をまだ、知るわけもない墨寧、瞳を絞るようにして、戦場の姿をよく捉えた。

上記のような失敗が含まれるとはいえ、よく軍用を行ったと言える、この戦は、

動きだけならば、教科書に載せてもよいほど、徹底した基本の踏襲で成り立っていた。

相手が典晃というイノシシ武者であったことにも起因するが、

ともかく突進してくる相手を、正面から受け止めつつ、なおかつ撃退する。

それを墨寧は実戦していたのである。


戦が始まってかなりの時間が経過した、休みなく退却の声は上がらないで、

連続戦闘が続いている、朝方、まだ靄がかかっている時分から始まった戦はまもなく昼を迎える。

今回の戦は、短期決戦になる、それをお互いが理解している。

おそらく二日以内に決着となるだろう、実際の戦争行動については午前中、あるいは午後日が落ちるまでに、

決定してしまうほどであった、策謀の読み合いではなく、分かり易い力と力のぶつかり合いになっていたからでもある。


墨寧は前線に立っていない、この傍観できる位置にて、

直接戦闘と絡み合うことなく指示を与えるだけの戦を展開している。

一方で典晃は、その前線に立ち味方を鼓舞して戦闘を行っていた。

お互いの戦への接し方の違いが今後の命運を分けていく。


「定石通りとは、用兵で負けたことは認めねばならぬな」


典晃の呟きである、黒豹達を引き連れつつ、その50人たらずの人数ではあるが、

圧倒的な存在感をその戦場に降臨せしめている。

典晃が引き連れている精鋭部隊は、本陣を既に放棄している。

本陣は定石によって破れさることが、戦が始まってすぐに理解できた。

これまでの戦運用に不備があったと認めざるを得ないが、おちおち全滅するつもりはない、

逆転の一発として典晃は、敵本陣を本隊にて叩くという無茶な方法に打って出ている。

怒濤の進軍で、立ちふさがる敵兵をなぎ倒して50人の精鋭は衰えを知らず、

砂砦に近づいていった。


「来たか、予想よりも速いな」


鋭敏、でもないが、見ていてあからさまな状況変化を感じ取った墨寧。

砂砦にいよいよ敵の攻撃が加わる、残している200人の兵隊にて、

50人の典晃本隊と決戦となる、ここから旗による指令は無くなった。

そのような暇が無くなったのである。

自由軍となった4部隊はそれぞれが、各個敵破壊を使命として、本拠に戻ることなく、

殲滅活動を繰り返すこととなる。

200対50、これがこの戦の中核を担うことになる。

本来ならばこのような事態に陥ることなく、各個部隊を破壊した4部隊が敵本隊を取り囲んで殲滅となるはずだったが、

墨寧方が考えるよりも速く、典晃は手を打ってきたのである。

墨寧の運用下手もあった、徐粛あたりならばこの早期時点で典晃が特攻に及ぶことを予見して、

4部隊を、その特攻に当てたのであろうが、墨寧はそこまで軍用できなかった。

だから、自らが率いる本隊で相対することとなる。

形成が不利になった典晃方が、力を集中させて精鋭を引き連れ、一撃必殺の突撃を試みてきたのだ。

墨寧率いる4部隊は、残っている敵の殲滅に気を取られて、この突撃部隊を本陣より逃し、

薄手となった自らの本陣への突撃を許したのである。


戦史に残るような立派な戦ぶりは一つもない、よく聞く戦争風景だ、流れが変わった瞬間でもある。


「鐘豊、よいか、敵は真っ直ぐ突撃してくる、ともかく矢で射殺し、さらに砦の壁を最大限に利用するのだ」


本隊の隊長に鐘豊を配置している。

そのせいだろうか、典晃の突撃と同時に、雨は大降りとなった。

砂漠に降る雨というのは潤いの証でもあるが、奇怪な出来事に相違ない。

この奇怪さを不幸ととらえる方法がある。

なんとなし、墨寧は圧倒的大差で勝つはずの戦を、この局地戦の如何で失うような、

いやな予感を覚えていた、それを振り払うため、

鐘豊にハッパをかける。


墨寧は、鐘豊の雨男能力ではなく、その運に賭けている。


説明がいくつか必要となるが、鐘豊の運はずば抜けている、

それを墨寧は読み取っていた。

いつだかに命を狙われた際も、なぜだか生き残り、また、大した能力がないのに、

県令として務めを果たしている姿、打ち出す政策が市場動向調査から現れたわけでなく、

なんとなし行っただけで当たったこと、全ては神に見守られた運がある。

そういう、神運を買ってみたのだ、墨寧はこの神運にのって心中するつもりである。

これが失敗すれば死ぬ、それだけのことだ。

この開き直りが、それなりの効果を及ぼす、

ただ、相手方も既に命を捨てたそぶり、勝負としては五分となるだろう。

あとは運が左右する、そして、運ならば鐘豊に勝るものは居ない、絶対に存在しない、そう吼えるように念じた。

運と指揮官が上回る、質で上回る墨寧軍ならば奇策が使える。


この作戦の本丸はやはり、墨寧にとって最上である火計にあった。

追いつめた後に奇策で葬る、いわゆる、典型的なダメ戦であるが、勝てばよい。


「雨、強くなってきたな」


鐘豊を横にして、墨寧は呟いた。

決め手とした火計を繰り出すには、流石に無理がある現状が横たわる。

そこに身を置いて、典晃というイノシシと戦わなくてはならない、

イノシシは恐ろしい、真っ直ぐ進んでくる分については、何者にも劣らない。

凄まじい威力を秘めている。

その恐怖に煽られたせいか、墨寧達は砦から出て、しっかりとした方陣を布くことで、

敵と真っ向勝負を挑むような様相を呈している。


戦はどこかで聞いたことがあるような、そういう棋譜をなぞっていた。

墨寧達は、あくまで守勢であり、そこをどういった奇策で典晃が攻め上げるか、

見せ所は、両指揮官が対峙した因縁をも感じさせる直接対決になった瞬間である。


「いける、今こそ仇を取るべき」


典晃の呟きである。

戦力は徐々に減らされていっているが、差し違えるだけの戦力は充分保持している、

それを典晃は感じている、どちらも、正直なところ戦下手になる。

奇抜な発想のない、ごくごく普通の布陣で、ただ武力に頼った戦略、

それが展開されている。

墨寧はその武力で、典晃隊に劣っていることを知覚しているので、

それなりの手を打ってきたが、所詮は付け焼き刃。

いともたやすくそういった包囲を典晃は破り、とうとう本丸の目の前までやってきたのだ。

小雨が降り続いている、全ての運は自分に向いている、典晃はそう考えている。

この雨ではどうあがいても火計は使えない、

つまり、墨寧に畏れるところはないと。


「敵襲!!!!!!」


「わかってる、騒ぐな、予定通りに布陣を完成させよ」


墨寧が苛立ちの声を交えて指示を与えている。

その裏で、全身を小刻みに震わせている、

結局、机上の空論なのだ、どれだけ論理武装しようとも、

現実の前には、毛ほどの価値もない。

それを墨寧は今、体感している、絶対に勝てるそういう作戦を立てたが、

その場に立って始めて恐怖を感じるのだ。

影翁は、そういった不器用な部分を微笑ましく見守っている。

この老人にすれば、敗戦ということは重要ではなく、己が生き残る余地があるか、

それだけが気がかりなので、なおさらのことなのだろう。


「さて、俺の本領だ、火計準備、いいな」


墨寧が言うなり、さらに雨足が強くなった。

それを見て、鐘豊が非常に萎縮している、

自分がいるばっかりに、こんなことになってしまったと。

だが、墨寧は気にせず、ただ、鐘豊を大将格として扱っている。

典晃達の部隊は真っ直ぐ、確実に兵隊を減らしてはいるが、確かな足取りで墨寧達の本陣の目の前まで迫ってきている。

正直、正面対決なら墨寧が死ぬことが連想されるほどの怒濤だ。


「この雨は天が与えた我らへの助勢ぞ、敵は目の前だ」


典晃の声が雄々しく響いた。

黒豹達は応対の声を挙げる、それが志気を挙げ、

相手の志気を挫く、一進一退と言うよりも、

乱戦の様相を呈したこの戦で、ついに決戦の時間がやってきた。


「参るっ!!!」


車懸くるまがかりという戦法がある。

順列等しく騎馬を並べて、殲滅を目的とした突撃を敢行する凄まじい戦法だ。

典晃はそれを、この場で発揮すると決めた。

彼の部下達は、それこそ血だるまになるほどの演習を経て、この、

究極の戦法をなし得るコマとなっている。

今、それが放たれた、どどどど、大きな馬の足音が敵を蹂躙していく、

墨寧方の方陣がことごとく破壊、いや、破砕されていく、

そして、丸裸になるかのようにして、本陣の墨寧の姿が見てとれた。


「墨寧っっ!!!!!!!」


「典晃かっ!!!!!!」


お互いが猛々しく叫び、刃を交えた。

がぎぃっ、派手な音と纏いつつ火花が凄まじく飛び散る。

摩擦する鐵同士は、それぞれが悲鳴をあげるようにして紅い飛沫を挙げる。

墨寧は己の剣で、典晃の矛を受けて、ものの見事に吹っ飛ばされた。

慌てた墨寧軍の兵隊が、こぞって突撃してきた騎馬にうちかかっている。

だが、乱戦となった以上、典晃と墨寧の一対一が免れなくなっている。


雨が降る、気付くと戦場を煙が覆いつつある、ぶすぶすと音を立ててそれは昇る。

狼煙のようにも見えるが、敗残の時、廃墟からあがるそれにも似ている、火計が失敗したそれに酷似している、

そう感じた時、墨寧方の兵士は恐慌状態に陥り、

典晃方の兵士は千載一遇の機会だと捉え、息を吹き返した。

形勢が完璧に逆転した。

車懸で、蹂躙された墨寧立ちの柵はほとんどが役に立たなくなり、方陣は乱れちりぢりとなっていく、

ここで気勢を失っては完敗となる、墨寧は己の無事を誇示し、

まだ戦が続いていることを、身体で全軍に示す。

やにわ、風が吹いてさらに煙は戦場を覆っていった、

幸いと言うべきなのか、逃げる兵達は煙を嫌い風下へと逃げはじめたが、

これに伴って、敵方も交わったまま、混雑をして煙のまっただ中で右往左往している。


「蔵慈っ、翁っ!!!」


おおっ、応対して二人の術に優れた獅子が躍り出た。

だが、その二人をもってしても、典晃とはぎりぎりの勝負になるだろう、

典晃はおそらく、延が誇る武人の一人に数えられる。

その武勇は、伊達や酔狂でなく、実力なのだ。

影翁、蔵慈ともに、優れた暗殺者であるが、

その技がことごとく、典晃には通じない、それでも、墨寧を交えた3人で、

典晃と激しい戦闘を繰り広げる。


できるっ。


典晃は、真っ先に蔵慈の手際を褒めた。

舌なめずりをしたくなるような、素晴らしい技の持ち主だ。

影翁については、かつて動作を観察しその危険さを熟知していたが、

それを上回るものがある。


「賊に魂を売るとは、惜しいなっ!!!!」


「ふんっ!!!!」


典晃の嘲笑う声を、気合いの憤激で蔵慈はいなす。

そして、得意の双剣が虚空を駆けめぐる。

蔵慈の攻撃を中核として、邪魔をしないように、典晃の邪魔をするように、

影翁が後衛を務め、時折思い出したように墨寧が現れる。

この墨寧が出てくる瞬間も絶妙で、にやにやとしながら近づくことで、

知らず内に典晃の心中を掻き乱している、たいしたことだ。


ちゃいんっ。


軽やかな音がして、直刀と呼んで差し支えのない、

二本の剣が、典晃の首もとに伸びる、するり、

だが、それは、届くことなくまた、虚空へと消える。

典晃が下半身を固定したまま、上半身だけでそれらをかわすせいだ。

ひょうひょうとして、それでいて力強い、

両腕に支えられた矛は、縦横無尽に空間を切り取っていく。


ガギッ!!


派手な音がして、火花が散ったような錯覚に見舞われる。

蔵慈も舌をまいている、かつてこのような強敵に出会ったことがない。

世の中は広い、それを感じつつ、この戦いに喜びを感じている。

それに呼応するように、同人種なのだろう、典晃も影翁も、

なぜか楽しそうと形容できる、殺陣のような美しいそれに没頭していく。

三方の馬の鼻息が、激しく音をあげる、煙のせいだろう疲れた身体は、

それを吸い込み、さらに疲弊を増していく。

その馬の動きをかばうように、また、典晃の矛が旋回する。

すわっ、音がして煙が斬られたようにうっすらと明るみを差した、その明るみに、

吸い込まれたようにして双剣と、影翁の短剣が殺到する、ガジャッ!!

鎧がひしめく音とともに、それらは中空を漂い続ける。


この場に、一人仲間外れがいる。


墨寧は武人ではない、もちろん文官でもない、強いて分別するならば悪党だ。

悪党は正面切って戦うことを好まない、それは、確実に勝つ方法を選択するという。

戦略上最も優秀なものでもあるが、卑怯を厭わないという悪しき面もある。

ただ、本人はそれを悪しきと捉えるわけがない、むしろ、それに安心を覚えるほどだが。


「……」


派手に続く、典晃と蔵慈、そして影翁の戦闘をやや遠目に見守るようになった。

墨寧は、ちらちらと、その戦場以外を気にしている。

典晃隊が突撃してきてから、かなりの時間が経過している、

墨寧の火計が失敗してから、相当の時間が経過している、

典晃との直接対決から、いよいよ時間が経過している。


時間が経過している。


つと、その戦に終止符が打たれることになる。

墨寧からすれば馬鹿馬鹿しい、

だが、圧倒的大多数は、名勝負と歌うであろう一騎打ちに似た直接戦闘が終わるのだ。

煙が戦場を覆い尽くした。

火計が失敗して立ち上がった煙が完全に世界を支配した。


これは、ただの煙ではない、墨寧が上げた煙だ。


「一網打尽だ………勝った」


墨寧は、ようやく大きな声で力強く発言した。

ここに至るまで、彼はおびえ狼狽え、精神薄弱を煩うほどに疲弊していた、

だが、事は成った、墨寧の「策術」が完成されたのだ。

これは、相手が典晃というイノシシだったこと、それが最も大きい、

単純に指揮官の脳の優劣で決まった戦争になった。

4隊が戻ってこないことで、おそらく通常気付かれたであろう仕上げ、

基本通り、追いつめて出てきた所を叩いた、叩き方が墨寧式だっただけのこと。

煙に巻かれたものは、大半が気を失う、そういう毒煙をあげさせたのだ。

離れていた4隊は倒れることがない、自分の隊200だけを囮として、自らも囮となっただけのことだ。


「火計が、火を使うだけだと思うなよ…」


言いながら、戦場で立ち上がっている生き物が自分以外になくなることを理解している。

この煙は、有象無象を関わらず、全てをひれ伏させる力を秘めている。

墨寧だけがその解毒剤めいたなにかを持っているから、立っていられる。

いや、正式には墨寧だけではない、手飼いの兵士もそうなっている。

ぐらり、大きく揺らめいて、戦闘の主役は多分に漏れず倒れ伏した。


「墨寧様」


「翁……やった、やったぞっ」


ふるふる、墨寧が震えながら拳を握りしめた。

己の命をぎりぎりまで削ったのは、墨寧も同じだったのだ。

戦場にわずかの間、完璧に己を晒したおことで、戦の空気は充分吸った。

また一つ、墨寧の経験値が上がったのだろう。


「煙の効果は、いましばらく続くだろう、部隊を組織して敵を全て捕獲せよ、典晃は特に厳重にな」


「ほう、自ら挙げませぬか?」


「それは蔵慈への仕事とする、俺は怖くて近づけぬよ」


冗談のように言ったが、声は微かに震えている。

本心なのだろう、戦争の中で会った典晃の恐ろしさを正面から受け止められない、

その器の小ささを己で感じた故である。

影翁は、墨寧のそのような部分を情けない、とは思わず、とても愛らしいと思った。

実に小者らしい、それゆえに素晴らしい。

大器よりも小器が大器を伺う構図を好む、影翁の目にかなった人物に、

墨寧はすくすくと、あるいは、曲がりながら育っていく。


戦が集結する、中央での報告はこうだ。

【中央警邏隊、隊長典晃を含み賊に対し全滅、地方治安維持隊、隊長墨寧がその仇を討ち平定】


墨寧は、彼の史上最高となる武勲を手に入れ、

曹蓋を喜ばせ、中央役人に名前を売った。

汚い戦と下手な戦なりにも、趨勢を左右する戦の指揮を執ったのである。

政界が混迷を究めるとこうなる、その良い例になった。

ぽっと出の役人が、あれよあれよと重職を担っていくこととなる。

この時期実力至上主義が必要に迫られ、

宰相過激派は無理な人事を通していったのだ。


それにより、いよいよその権勢を強める。

この一事をもって、治安維持職の要職に曹蓋が抜擢、

中央高級官僚と出世、そして空いた地位に、


郡令 墨寧が座することとなった。


あの裏切りから、わずか5年のことである。

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