老婆心
老婆のいたずらは苛烈なものであった。与えられた飲み物は液体の体を保ってはいたが、口に含んだ傍から身体と精神がそれを拒むものであった。嗅覚の訴える生臭さ、味覚が感じるえぐみだけではなく、砂のような舌触りと、まとわりつくようなとろみが、私の嫌悪感を三方から刺激する。全身の肌が粟立ち、涙を湛えることで視界は霞んだ。カップを湛える手は震え、中の液体が合わせて揺れる。その様子は対面で笑う老婆のようだった。奇妙な刺激に口内が麻痺し、咳込んでいた気管が落ち着いてきた。私は、細目で老婆を睨みつけた。涙が零れ落ち頬を伝った。
「これ紅茶ちゃいますやん。なんなんです?」
「ちょっとしたサプライズよ。トカゲの肝とクモの足をベースにしたオリジナルのドリンク、思った以上に驚いてもらえてうれしいわ」
老婆、ベルローズは笑顔のまま答えた。皺くちゃの顔がいっそう皺だらけになっている。その表情は、いたずらが成功したときの子どものそれであった。自らが口に含んだものを聞いて、嘔吐感が込み上げてきた。
「けれど、ユキエ、これは忠告と気つけよ。大切なことには気づけたかしら?」
ひとしきり笑い終えたベルローズが真剣な面持ちでこちらを見つめる。瞳には孫を見るような優しさが籠っている。私がこの部屋に来たときの気持ち。ここにいる彼女に初めに尋ねるべきであったこと。それは、非常識なこの場において、常識的なことである。ぬるま湯のような心地よさで、忘れてしまったのだろうか。
「ベルローズさん。ここは、どこなんですか? この部屋に来る前、私は学校の全校集会にいたはずなんです。せやのに、知らへん場所になんでかいてて、外は暗なってる。」
なぜ、この場所にいるのか。どうして、夜なのか。それだけではなく、私は名前以外ほとんどのことを覚えておらず、疑問にも思わなかった。友人や、唯一の肉親である弟のことさえ忘れて、ただの天野雪江だったのだ。その名前と皮を被っただけの存在であったのだ。取り戻した達成感が訪れるとともに、自覚できなかった歯痒さが募る。柔らかな眼差しで私を見つめると、ベルローズは穏やかに話し始めた。
「悔しいのね。でも、ここでは仕方のないことだわ。これから、気づけたあなたに大切なことを話すわね。あまり時間がないから説明不足になってしまうけど、しっかり聞いてちょうだい」
私は彼女に応えるようにしっかり見つめ返し、素早くうなずいた。
「初めに、この場所は私の部屋であって私の部屋でないの。人間の世界には実在しない部屋。窓の向こうも同じで、歩いてたどり着ける場所ではないわ。ここは、認識の盲点に存在する矛盾の世界。同時に、あなたたちが魔女と呼んでいる者たちの世界ね。瞳に盲点が、耳には捉えられない波があるように、あらゆる知覚がこの世界の存在を見逃している。魔女ではない人間にとって、知覚が捉えていても、認識のできない空間。あなたはここにいるけど、それは普通の人間にとって認識の裏側での出来事で、元の世界では何の変化も起きていないわ」
ベルローズは矢継ぎ早に、一方的に話続けた。曰く、認識の裏側における存在は、認識の世界に存在する事実に対する矛盾を生じるという。本ケースにおいて、私がこの部屋にいることは、冷え切った体育館の床に腰を下ろしている私の存在に対する矛盾である。両立しない存在に対し、世界は記憶を歪めることで修正を図る。要するに、認識の世界における記憶を奪うことで認識の裏側における私が、裏側の世界の秩序を乱すことを防ぐのだ。そして、裏側の世界から認識の世界に戻るときも同様に、こちらでの出来事を忘れてしまうという。
ベルローズの話は、私の17年をひっくり返す衝撃的な内容であったが、不思議なことに疑いはなかった。むしろ、耳から脳ではなく、肌から全身に染み込むように納得できた。
「今まで話したこと、ユキエは元の世界に戻っても覚えているわ」
体中がその言葉を受け入れつつも、脳がそれを疑う。
「でもさっき、裏側の世界から戻るときにも記憶がなくなるって言ってませんでした?」
ベルローズの口角が上がる。
「あなたは忘れないわ。認識に干渉するのが魔女の力。私は言葉の魔女。私の言葉はあなたの身体がきちんと覚えてる」
私は頷いた。彼女の言葉から発せられる奇妙な力に納得する。頭を整理させようとして、暖炉の火が消えていることに気づく。次第に寒さを感じ始める。背の高い本棚はもう見えない。私が辺りを見回していると、老婆がまた話し始める。その声は背中を押すようで。
「さて、そろそろお別れだね。認識の裏側で現実を知覚したことで、ユキエは元の世界に戻るわ。ちょうど、曖昧だった焦点が定まっていくようにね。久しぶりの来客で嬉しかったわ。私が存在している間に、また訪れてくれると嬉しいわ」
直後、ベルローズの表情が曖昧なものとなり、その輪郭が溶け落ちた。全てがぼやけて見え、肌が粟立つ。低域の耳障りな音が耳朶を打つ。それがマイクを通した体育担当安富の説教であると気づいたのは、焦点が定まり、周囲から向けられる視線に気づいた後だった。