暖かな家にて
天野の名字はクラスで2番目。1番目は男子。本来女子の先頭に立つ私は、いる旨を学級委員の一条くんに報告すると、遅れたことを理由に最後尾に加わった。冷え切った体育館で吐く息は、屋外と変わらず白い。列の調整が終わると、私たちはその床に腰を下ろした。体育着を履き忘れたと、慌てた支度の報いに気づいたのはその時であった。
生徒たちは、凍えた床に文句を言いながらも、本日から始まる夏休みの会話で旧友と花を咲かせていた。そんな雰囲気に、マイクを通じて一喝。体育教師の安富である。安富は、なかなか静まらない生徒たちに静まるよう促し、集合に掛かった時間、静まるまでにかかった時間を伝え、私たちを注意した。意識はそちらに向けながら、セーラーのポケットから、本来読むはずだった文庫本をおもむろに取りだそうとする。取りこぼした自宅の鍵が床に落ち、ストラップの鈴が鳴った。その音は普段聞こえるより強く私の耳に届いて、脳を揺らすように何度も反響した。
――ほんのわずかな時間、瞬きをした。
視界は暖色をとらえた。赤い、煉瓦の壁と背より高い本棚。暖炉の火がこれらを照らしている。暖炉の中からは不定期に、乾いた木が弾ける音がする。先ほどまで纏わりついていた冷気は、今は感じられない。家具の色から伝わる温かみが、暖炉から放射された熱が、次第に体や感覚を温めているのが分かる。暖炉と対面する壁には窓が設えられていて、その向こうは暗いものの、雪が降っていることが分かった。知らない空間に初めての体験をした私は、
「なんや? ここ」
声が漏れた。すると、暖炉の傍らの安楽椅子が揺れた。どうやら、人がいたらしい。間抜けた音源、すなわち私に視線を向けると、目を見開き、レンズの大きな丸眼鏡を外してもう一度こちらを見た。よく見てみると、フードを被った老婆であることが分かる。皺だらけで鼻が高い。包み込むような微笑みを浮かべ、彼女はこう言った。
「ようこそ、魔女の家に。おもてなしするわ。コーヒー、紅茶、それかトカゲの肝、どれがお好みかしら?」
***
彼女は確かに魔女だった。私が紅茶を注文すると、少し眉の尻を下げ、
「そう? 残念ね。でも茶葉もとてもこだわってるの。お口に合うと嬉しいわ。お砂糖はいくつ?」
左手の袖から、指揮棒くらいの棒切れを取り出して、右手で一振り。扉を隔てた向こうでガシャガシャと音がし始める。暖炉に向かうもう一つの椅子を勧められ、腰かけた。安楽椅子の揺れは穏やかだ。
「1つお願いします」
親しい友人よりもなお親しみを感じる笑みだった。砂糖の数を聞いて、彼女はまた、棒切れを一振りした。先ほどの振り方は単純に上から落としただけのもので、今度は右から左に向かって弧を描く。
「自己紹介がまだだったわね。私はベルローズ。もちろん偽名よ」
なぜ、もちろん、なのか。初対面の人に軽々しく名前を教えてはいけないからだと考えた。柔らかい対応で忘れそうになるが、私はこの部屋に勝手に上がり込んだ者である。故意ではないが、客観的に招かれていないのに入ったという点で変わりはない。
「私は天野雪江です。日本語お上手ですね」
ベルローズは杖を持った手で口を隠しながら控えめに笑う。所作は上品である。
「ふふ。よろしく、ユキエ。会えてうれしいわ。私は言葉の魔女なの。だから、どんな言葉も話せるのよ」
「言葉の……」
「そう、言葉の。それで、ユキエ……あなた、魔女じゃないわね?」
彼女の視線が途端に険しくなる。私に向かうその眼光は親の仇だとでも言わんばかりであった。扉の向こうが静まる。
「はい。部外者がこんなプライベートな場所にずかずか入ってきてしもうて、ほんま申し訳ないです。でも、気づいたらこの部屋にいて、私にもようわかれへんくて……」
気まずい思いから正直に答えると、ベルローズの表情は柔らかく溶けていった。その笑みは、先ほどのものとかわらない。
「わかっているの。だから、畏まらないで。私はあなたを歓迎しているわ」
彼女は杖を三度振った。今度は左から右へ、弧を描いた。控えめに扉が開き、宙に浮いた盆が飛んできた。それは、私とベルローズのちょうど間で止まる。彼女がもう一度杖を振ると、盆に乗った白磁のソーサーが手元へ向かってきた。私がソーサーを手に取ると、今度は盆の上のティーカップが飛び出し、ソーサーに収まった。
「さあ、召し上がれ。飲みながら、魔女について教えるわ。まず、魔女はね――」
それは、少し赤みの強い紅茶だった。この部屋を照らすのは暖炉の火だけなので、本来以上に赤く見えたのかもしれない。ベルローズに、いただきます、と断りを入れて一口。初め舌に伝わったのは耐えきれないえぐみだった。体がこの液体の摂取を拒むように、大きくむせる。むせたことで鼻に風味が伝わる。それは、生臭さと、粘質を併せ持って私の嫌悪感を撫でまわした。ベルローズに目を遣ると、くつくつと、沸騰直前のように笑いを堪えていて、まさに沸点に達する頃だった。
「――いたずら好きなのよ」