登校
「それじゃあ、登校するね」
天気予報を見終えると、弟の陽夏は紺色の通学鞄を肩に掛けて玄関に向かった。私もそれに続こうとして、やっと気づいた。
装いが寝起きのままだということに。いつも通りの時間に目覚ましをかけたはずなのに、時間はどこで消えたのだろう。
急いで階段を駆け上がり、パジャマを脱いで、冷えた長袖のカッターシャツに袖を通す。その温度は不快だったものの、時間に追われた身に躊躇はない。
7月現在、生徒たちのほとんどは冬服を着る。男子は学ラン、女生徒はセーラー。校則違反にはあたるけれど、この寒さではやむないと、先生がたの指導も入らない。普段は規則に厳格な先生も、厚着である手前、生徒に指導などできないだろう。
姿見の前で最低限の身だしなみだけ確認して、椅子の座面においてある鞄を勢いよく引っぱって部屋を後にする。限られた時間の中で、髪はできるだけ丁寧に梳いて、無理やりポニーテールにまとめた。
玄関の戸を開けるやいなや、寒風が鼻を突いた。7月20日、天気は雪。空は厚い鈍色に覆われていて、切れ間はない。失った時間を取り戻すように、速足で通学路を進む。
「雪江」
背後から声が投げられた。芯の通った声。
「おはよ。そんなに慌てなくても学校は逃げないよ。殺風景でさみしいので、一緒に登校しよ」
はきはきとした声とは裏腹に、弱腰の提案を行う鈴木鈴だった。
「おはよう、鈴。今朝は遅いんやね。ええで、一緒にいこ。せやけど、こないなペースでは諸共遅刻になってまうで」
肩を並べて速足で歩を進める。鈴とは幼馴染の関係で、中学まで毎朝待ち合わせて登校していた。高校に入ってからは、通学路の関係から別々に登校している。この道を通ることは鈴にとって若干の遠回りではあるが、鈴は気分屋である。
「それにしても、雪、やまないね」
「せやねえ。道に積もらへんから生活はできてるけど、毎日まいにち寒うてかなわんわ。東京とか京都は止んでるみたいやけど」
「雪を止ませているのって、魔女の力らしいよ。ネットの情報だけど」
袖の雪を払いながら鈴が続ける。袖から落ちた雪は地面に到着したところで、溶け消えた。信号が丁度点滅し、立ち止まる。
「魔女ってドロシーさん?」
「いや、それとは別の魔女。4日前に雪がやんだ東京の噂だけど、『突然魔女になってしまった』OLがいたんだって。彼女にそう告げられたって人がSNSに発言したところ、大拡散。OLの女性はその後出勤せず、行方知れずになったらしい」
鈴は頭に積もった雪を鬱陶しそうに払いながら、あくまで証拠はないのだけど、と付け加えた。
「何やそれ。漫画みたいやね」
2人で笑った。
「ネットには他にも魔女については上方が錯綜しているよ。あまり広まってないけど、面白いと思ったのは道の魔女かな。興味があれば調べてみるといい」
信号が青になり、私たちは歩き出した。車道にも雪は積もっておらず、横断歩道の縞模様はきちんと確認できる。
「せや。今日から夏休みやけど、鈴はどうするん?」
私がそう尋ねると鈴は、今度はマフラーの雪を払いながら、普段と変わらないと答えた。
「こう寒いと出かける気分にもならないしね。毎年お盆は家族でキャンプだったけど、この気候でテントで寝たら、それはもう遭難でしょ」
「たしかにな。私も、バイトの時間増えるくらいで、普段通りかも。」
自動車が通り過ぎる度、風が肌を刺す。木に積もった雪が落ちる音などを耳にしながら、私たちは校門にたどり着いた。時刻は8時27分。体育教師の安富先生が門前で男子生徒を急かしているところだった。少し声を張って挨拶して、敷地に入っていく。校門から昇降口へのアプローチに雪は積もっていない。今月初めて雪が降った日には積もっていたのに。
昇降口で靴を履き替える。ついでに積もりに積もった雪を払い落とす。それから3階まで上がり、階段脇の教室の鈴と別れ、廊下を突き当たりまで進む。賑やかな3の1の扉を引くのと、本鈴が鳴ったのはほとんど同時だった。既に教卓に担任が構えており、出席を取り始めた。
「天野」
と、自分の名が呼ばれたのは、席に着く前だった。全員の出欠を確認が終わると、1時間目まで15分程度の読書の時間であり、私は鞄から文庫を取り出した。陽夏から借りたSFで、主人公が良い職業や金星での市民権を得るためのゲームに参加するという粗筋なのだが、展開がはちゃめちゃで、理解が追いつかない。陽夏の嗜好にあった本でなかったのか、渋々といった態度で私に貸し与えたものであった。栞を挟んだページを開くと、共に行動していた女性が連れ去られたところだった。
「雪ちゃん」
創作の世界に足を浸しかけたところで、現実に引き戻される。
「花ちゃん、どないしたん」
私の肩を揺らして声をかけてきたのは高峰花乃だった。髪をバレッタでまとめているため、首筋が見えている。また、ブレザーの下に指定外の白セーターを着ている。上質なのか、繊維に毛羽立ちは見られない。花乃は少し慌てた調子である。
「学期末集会で1時間目は体育館だよ。皆行っちゃったよ」
花乃は、右手に提げた体育館シューズを収めた袋を揺らして強調した。私はそのことをすっかり失念していた。確かに、読書の時間なのに何やら騒がしいとは感じていたが、それ以上注意していなかった。礼を伝えると、私は、花乃と共に体育館へ向かった。体育館シューズと、文庫本を携えて。