品子の青春
高校を卒業後、進学も就職もせずに山間の小さな集落で暮らす父と一緒にいると決めた品子。
静かな田舎町で静かに暮らす、静かな親子の物語です。
「あ、父さん、診察券…持った?」
「ああ、ちゃんとカバンさ入れた入れた…したら、わりぃな品子、留守番頼むでなぁ。」
「は~い、わかりました…じゃね、父さんも気をつけて…帰り連絡ちょうだい、忘れないでよ!あ、それと…え~と何だっけ?」
「品子…したら行ってくる…」
父、昭三は使い込んだ肩かけカバンを左肩に提げると、よっこらしょと呟きながら玄関の土間から外に出ようとした。
ただでさえ毎週月曜日は家から遠い街の病院に通わなければならない憂鬱さでいっぱいなのだが、今日のように眩しい日差しが心地よい穏やかな天気だと沈みかけた昭三の心も少しは晴れるのだった。
「あっ!父さん!待ってぇ~!」
家の前の下り坂をゆっくりと杖をついて歩き始めてしまった父の背中に、品子は大きな声をかけた。
「父さ~ん!帰りあっちでお豆腐と牛乳買って来てぇ~!ごめんねぇ~!」
口元に手を添えて大声で叫ぶ品子の用件を聞き入れたらしく、父は後ろを振り向くことなく頭上で杖を振り回して返した。
品子と父、昭三が暮らす山間の小さな集落には、昔のような活気はすっかり消え失せてしまっていた。
近所と言っても家から約50メートルほども離れたところにぽつんと1件家がある程度。
他もだいたいそのぐらいの間隔でぽつりぽつりと古い家が立っている。
四方を山に囲まれた形の谷間の集落は、所謂「限界集落」などと恐ろしげな言葉で言われているらしい。
約60年ほど前までは品子達の家の更に奥、山を一つ越えた辺りに村があったそうだ。
当時は子供も多く、村には小さいながらもちゃんと小学校と中学校もあったと聞く。
昭三はその小学校と中学校の卒業生でもあった。
けれどもその後村があった辺りに大規模なダムの建設が決まり、そうなると、もう村はダムの底深く沈んでしまう運びとなり、住んでいた人々は僅かなお金をもらいうけると先祖から受け継いだ住み慣れた土地をあっさり離れて行ったのだった。
「はぁ、やれやれ…さてと…」
品子は自分に発破をかけると、一人だけになったこの古い家の掃除に取り掛かった。
「…あれ、昭三さん…おはよう…何?病院かえ?」
「ああ、おはようさん…そんだぁ…毎週だもんだから、ちと面倒でなぁ…だども、行かねばもっと悪ぅなってしまうし…」
家から約30分ほど歩いた谷間の寂れた駅で、父、昭三は幼馴染のタエと話をした。
「タエちゃんはどこさ行ぐのさ…」
「ああ、わたしも病院だんだけんども…ほら、あそこ…何だったべか?…昭三さんと同じ病院ではないのよさ…もっと遠くの…あ~…何だったか?名前がすっと出てこねぇさ…はぇ~っと…」
「はれ…したらぁ~…王港まで行くんだべか?」
「ああ、そんだぁ…王港だらでっけぇ街だがらなぁ…そっちの先生さ紹介されてなぁ…そっちの方だら新しい機械があるからってぇ…何だか色々調べられるんだと。」
「はぁ、そうかぁ…で、タエちゃん、あんたどこ悪いのさやぁ…」
午前中に2本ほどしかないの電車の内、早く来る方を待つ間、昭三はタエと二人長々と話しこんだ。
タエは5年ほど前に旦那を亡くし、未亡人となった今は農業を継いでくれた長男家族と仲良く駅に程近い場所でスイトピーなどの切花ようの花を栽培して暮らしている。
「…それはそうと、リリーちゃん?あれ?今は品子ちゃんだったべか?…この間ばったり会ったども、まぁ、綺麗な娘さんになってぇ…家の孝之もリリーちゃん綺麗だなぁって、鼻の下伸ばしてたら幸恵さんさたっぷり叱られて…あははははは…我が息子ながら、スケベ心出すから罰当たったんだぁってな…あはははは」
「あはははは…そうかい…あはははは…」
昭三にとって品子は自慢の娘の一人だった。
「あの子はここから出ないの?…ま~だ若いでしょんがぁ?…こんなじじばばしかいない田舎で暮らしてもったいないだぁねぇ…」
タエの言葉に昭三は笑うしかできなかった。
品子のことはよくそう言われているのだが、特に昭三が引き止めている訳では決してなかった。
むしろまだ若いのだからこんな田舎で腐っていくより、外に出て見聞を広めたりした方がいいのではないだろうか?
品子の兄や姉達のように都会で働き、若い娘らしくおしゃれや恋などにもっと興味をもってもらいたいと願っているのだった。
だが、当の本人、品子は昭三が通う病院がある町へ高校3年間きっちり通いきると、その後同年代の仲間達のように進学することも就職することもせず、実家で父の手伝いをして暮らすと勝手に決めてしまった。
それが自分にとって一番いいことなのだと、品子自身がそう強く思っているらしかった。
品子の母、昭三の妻は品子を産んで間もなく天国の住人になった。
昭三が50歳、品子の母42歳。
まだバリバリと働き盛りの昭三は、生まれたばかりの品子を含めて4人の子を養うのに必死だった。
そんな父の背中を知っている品子の10歳以上離れた兄や姉達は、死んだ母の代わりとばかりに一生懸命品子の面倒をみてきた。
やがて月日が経ち、品子に手がかからなくなった小学生の頃に一番上の兄から順番に家を出て、街でそれぞれ働くようになった。
そうしてそれぞれがそれぞれの場所で頑張りながらも、時折休みを会わせて兄弟は、父と品子に会いに帰省するようになった。
その際、姉達はそれぞれ女性ならではの感性で品子に可愛らしい流行の洋服やお人形に絵本などお土産として買って来てくれ、兄は兄で働いているお菓子屋さんで作らせてもらったという、ここらでは滅多に口に入らないような生クリームや色とりどりのフルーツをふんだんに使ったロールケーキなどを持参してくるのだった。
末っ子の品子は父と兄弟からとても愛され、すくすくと育ったのだった。
「…品子ちゃん、だんだんジョリーンさんに似てきよったねぇ…お兄ちゃんのローリー君やお姉ちゃんのダフネちゃんとヒルダちゃんは双子だからそっくりか…いや…そんでなくて…あのこらよりも一番末っこの品子ちゃんの方が何だか面影があるなさ…」
「…そうかい?…おら、そったらに思ったことなかんべよ…」
昭三はタエに言われるまで、品子が死んだ恋女房に似ているなんて思ったことはなかった。
他の大きい子供達は目や髪や肌の色が薄いので、似ているというより「ジョリーンの血を受け継いでいるんだなぁ。」と感じていた程度。
顔も自分より確かに外国人風の仕上がりだとはわかっていたけれど、品子がジョリーンに似ているとは気がつかなかったのだった。
「…あれ、電車さ来たわ…」
ようやく来た1両編成の車両に乗り込むと、昭三はタエと共に空いている南側のボックス席に落ち着いた。
品子にはもう一つ名前があった。
それは他の兄弟も同じだった。
兄のローリーのもう一つの名前は「勇」。
勇敢な男の子になって欲しいとの願いがこめられた。
双子のダフネとヒルダもそれぞれ、ダフネは「光子」光り輝くような人生になりますように。
そして、ヒルダは「華子」華やかな人生を送れますように。
兄弟達と10歳以上も年が離れてしまった末っ子の「品子」は、品のある人生を送れますようにという思いがそれぞれこめられてある。
上の子供達は母方のカタカナの名前の方を使っているのに対し、品子はカタカナのリリーという名前をあえて使わず、もう一つの品子という方をとったのだった。
腰掛けた南側のボックス席にタエと向かい合わせになると、話しながらもぽかぽかとした優しい日差しが体全体に当たり、昭三は眠気に襲われかかっていた。
もしもタエがいなかったら、昭三は病院のある町の駅で降り損なうとことだった。
「…ほんだら…タエちゃん、気ぃつけてなぁ…」
「ありがとう、昭三さんもねぇ。」
ホームで電車に乗ったままのタエと別れると、昭三は眠気が覚めきりりとなって病院へ向かった。
バッグの中のタエからもらったおはぎとペットボトルのお茶が、少し厄介に感じた。
おはぎはタエの特製なのだそうだ。
「…はぁ、重てぇ…重てぇなぁ…はぁ、どっこらしょっと…」
ちょっぴり文句を吐きながらも、帰りの電車で食べようと考えるとそれとは裏腹に少しウキウキするのだった。
昭三は本当はあんこが大好きなのだ。
いつも通りに部屋の片付けや掃除に洗濯など、一通りの家事を済ませると、品子は仕事でもあるかごを編むのに作業部屋として使っている納屋に行った。
そこは冬場、父、昭三がやはりかごを編んだり、木工細工をしたりするのに使っている場所。
兄弟が家を出てしまってから母屋で一人、遊んでいるのが何だかとても寂しかったので、いつの間にか父の邪魔にならないように傍で本を読んだり、勉強をしたりしながら過ごしていたのだった。
そうしていつしか興味を持った「かご」の編み方を父から習うと、品子はその技術をみるみるうちに習得していった。
父が編むかごは街で人気があった。
それは先祖の時代から続いているかごの編み方と、品子の母ジョリーンの母国で親しまれているかごの編み方の両方をマッチングさせた独特の編み方。
基本の色の弦を編んでいる途中から色の違う弦を用いて、鳥や花、太陽に木やうずまき模様のような風など、自然をモチーフとした絵柄を編みこんでいく。
それが街の若い女性達などに支持され、いつしか定番の人気商品となった。
なので、それまでは冬場の手仕事程度だったかご編みが、今は一年中編まねばならないほど。
編んだかごやざるは街に住んでいる双子の姉のヒルダが経営している、雑貨カフェに置いてもらっているのだった。
ヒルダは結婚後、子供達の手が離れたのを機に、双子の片割れであるダフネが暮らすイタリアから日本では売っていないようなデザイン性が高くて、可愛らしい雑貨を仕入れてカフェの一角に設けたスペースで販売している。
そしてダフネはダフネで、母の故郷であるイタリアに洋服のデザインの勉強で留学したのだが、そこで今のご主人と運命的な出会いをしそして結婚、そのままそこで暮らし続けている。
職人である夫が作る生ハムや夫の実家で作っている本場のチーズやワインなど、2ヶ月に一度の割合で兄弟それぞれのところに大きな木箱いっぱいに詰めて送ってくれるのだった。
品子が編むかごやざるは、その他インターネットでも販売している。
住んでいる人が僅かな山間の集落だが、2~3年前、通信会社の試験的な運用とかいうので、品子の家にはそぐわないような新しいテレビ電話もできるパソコンがついたのだった。
家家が離れているのに加え、住んでいる者の年齢層が高くなってきたこともあり、ちょっと前までわざわざ歩いて回していた回覧板がなくなり、一人暮らしの高齢者の安否確認などもあって、ほぼ毎日のようにテレビ電話を活用する時代となったのだった。
それはこの集落に暮らす人々には革命的な出来事だった。
だが、それのおかげで聞こえないこともあった防災無線などよりもずっと早くわかりやすく、山崩れや台風などの災害が発生する際とてもありがたい存在になった。
「…あっ、父さん?病院は終わったのね…今どこ?お豆腐と牛乳買ってけれた?…うんうん…うん…はい…はい…わかったよ…じゃね、気をつけて帰ってよ…はい…」
父からの電話で品子はようやく今の時間を知った。
「あ…もうこんな時間かぁ…あっちゃあ…ちょっとやりすぎたべか…あ~、あとちょっとなんだけどなぁ…ここだけ…ここだけやっちゃいたいけど…あ~…う~…いいや、先にご飯ご飯と…あ~、なんかお腹空いたぁ…あ~…お昼食べんの忘れてたぁ~…」
もうすぐで完成のところまで仕上がった大き目のかごバッグを作業場に置くと、品子はバタバタと大きな足音を立てて台所へ駆けた。
作業場と母屋の間にある敷居に思い切り右足の指全部を打ち付けると、驚きとその痛さで品子は右足を抱えて片足立ちで飛び跳ねて痛みを逃がした。
「あ~!いたたたたたた…もう、やんだぁ~!」
自分のおっちょこちょい加減に嫌気が差した。
台所に到着する前、縁側に干しっぱなしだった乾いた洗濯物が目に入ってしまうと、品子は自分にがっかりしてしまった。
作業に集中しすぎて、時間をまた忘れてしまっていたと深く反省するのだった。
乾いた洗濯物を取り込んで畳んでいると、夕日があまりにも美しくて品子は思わず手を止めた。
ピンクとオレンジ色が混ざり合ったなんとも言えない空に見とれていると、不意に明るく小さな光がものすごい勢いで通り過ぎていった。
「ん?」
かごの編み目を見すぎて、目が疲れているのだと思った。
病院へ行くのは一日仕事。
昭三は毎週月曜日がそれで潰れてしまうのがもったいないような気もした。
だが、反対にいつも品子と一緒にいるばかりなので、少しはお互い離れる時間もあった方がいいのだとも感じるのだった。
「あれぇ…昭三さん、今帰りかい?」
駅から出たところで、家から一番のご近所である佐藤忠助と会った。
忠助は昭三のいつ下の学年。
高校の時は野球でバッテリーを組んでいた仲だ。
「…ん?あれぇ…忠助…どした?おめぇもどっかの帰りか?」
軽トラックの運転席側の窓から四角いえらの張った憎めない顔を覗かせた忠助は、病院帰りの昭三に途中まで乗せていくからと告げた。
「んやぁ、すまねぇなぁ…」
「何言ってんだぁ、水くせぇ…俺らバッテリー組んでた仲じゃねぇかぁ…昭三さんがピッチャーで、俺がキャッチャーでよぉ…な~つかしいなぁ~…って、あら?あらなんだべ?」
急ブレーキで止まった忠助の指差した方向に、小さな光がものすごい勢いで向こうへ通り過ぎるのが見えた。
「見たか?」
「ん、ああ…」
「ありゃなんだべなぁ…昔、一回だけ…ほら、昭三さんと一緒に大会の帰りに見たことあったっけなぁ…あんなのさよぉ~…」
「…そんだなぁ…そんなこともあったかぁ…」
「ところで、あっちだら、五作さんとこの山だった方だでなぁ…」
「ああ、五作んとこの山なぁ…」
昭三は同級生だったが7年ほど前に山で死んだ五作の笑顔を思い出していた。
忠助は再び車を動かした。
「あの山ぁ…あれから、息子の栄作が売っぱらっちまってなぁ…」
「そうだったなぁ…」
「そしたらよ、その売った相手が何だかおかしげな宗教団体だかでよ…」
「ああ、そうそう…よく覚えてんなぁ…」
「ああ、おらなんて何ぼでも覚えてらよぉ…だけんども、その宗教団体だかが何かちょっと騒がれてニュースさなったっけさよ…そんで、結局、その後どこのものになったんだか、おらだちもわがんねぐなったっけ…」
「んだ…んだんだ…そうだったよなぁ…あれは、したけど、国か県か村のもんになったんでないの?おらぁ、誰だったかにそう聞いたでなぁ。」
「ああ、そんだそんだ…あれから、あの山っこさも、手付かずだぁ…昔、あの山っこさよ、栗だの山葡萄だの、後よ、きのこいっぺくさ取れるどこあったっけなぁ…」
「んだ、あったあった…して、俺らで取りに入ってよ…背中さかご背負って…そんでいっぺぇ取ってみんなで分けて食ったっけなぁ…今みてぇにおやつってながったからよぉ…あれはたいしたうめがったぁなぁ…」
昭三も忠助もあの頃を思い出すと、胸がきゅんとなった。
「やぁ、忠助、ありがとうなぁ…おらも助かったじゃぁ…したらなぁ、春子さんによろしぐ…」
車から降りた昭三は振り返ると笑顔で忠助に手を振った。
昭三の家から出ようとした忠助は、急に車を止めて慌てて下りて駆け寄った。
「昭三さん…わりぃわりぃ…これ、忘れてたわ…」
忠助から手渡されたのはざるいっぱいの木苺。
「あん?これ…どしたぁ?」
「ああ、今日なぁ、息子んとこ行って来てよぉ…そんでたんともらってきたんだわぁ…少しだけんど、品子ちゃんと食べてけさい…じゃっ!」
笑顔で車に戻ろうとする忠助を、昭三は慌てて引きとめた。
「いやぁ、忠助!ちょっと待ってけれ!ちょっと待ってけれ!」
そういうが早く「お~い!品子ぉ~!忠助んとこから木苺いっぺぇもらったがら、なんか返しぃ持ってきてけれぇ~!」と母屋に向かって大声で叫んだ。
「いいって…いいって…おら、帰るがらよ…またな…」
忠助が車に乗り込もうかという時、両手で何かを持っている品子が駆け寄ってきた。
「ああ~、間に合ったぁ…忠助おじさん…これ、いかったら春子おばさんとどうぞ…」
品子が編んだ中ぐらいのピクニックバスケットに、たった今焼きあがったらしい熱々のピザが半分入っていた。
「やぁ~、品子ちゃん、なんか悪いねぇ、いっつも…」
「ううん、こちらこそ、おじさん達にもいっつもいっぺぇもらってるがらぁ…それより、何か代わり映えしないピザでごめんねぇ…」
「な~に言ってんだぁ…品子ちゃんが作るピザは本場の味だべなぁ…ジョリーンさんや姉さん達から受け継がれてんだべぇ…美味いものぉ…都会だら、大繁盛だでぇ…したら、遅くなれば心配すっから…今日はこれで…したら、あんがとさん…またなぁ~!」
にこにこと笑顔がいつまでも子供っぽい忠助を見送ると、品子と父はゆっくり家に入った。
「今日はピザかぁ…」
手を洗ったばかりの昭三は、食卓の自分の椅子に腰掛けながらそう呟いた。
「あ、うん…父さん…ごめんねぇ~…ちょっと作業に没頭してたら、いつの間にか夕方になっちゃってたもんだから…」
さすがに2日続けてピザは胃にもたれるだろうなぁ。
昭三はそう思うと同時に心の中で「品子…ごめんなぁ、折角一生懸命作ってくれたのによぉ…父さんなぁ…父さん、今日はつるつるっと温かいうどんか、もしくはおでんなんかが良かったなぁ…折角、折角作ってくれたあのにホントわりぃんだけどもよぉ…父さん、やっぱり日本人なんだよなぁ…死んだ母さんの飯は確かに美味かったよ。本場のイタリア料理だものなぁ…でもよ、でも…たまには父さん、和食も食いたいなぁ…品子、お前が一生懸命作ってくれてるのはホント、嬉しいしありがたいと思ってるんだよ…だども…だどもなぁ…品子…本当にこのまま父さんと暮らしていっていいのかい?都会に出て姉さん達のように一人暮らしから始めてもいいんだぞ…いいんだ…父さんは一人でも大丈夫だから…あ、別に…別にだ…品子の作る料理にケチをつけてる訳じゃないさ…品子が家を出て行って、父さん、一人になったら好きな和食ばっかり食べるんだぁ~って、思っている訳じゃあないんだぁ…そりゃ、品子は女の子だから、都会で一人で暮らすとなったら、そりゃ心配だぁ、心配に決まってるんだぁ…だども…だどもなぁ…たまには冷奴でもいいんだよ…何もわざわざ辛いマーボ豆腐にしなくたって、豆腐はそのまんまでも充分美味しいんだよ…そういうことも知ってもらいたいんだよ…なっ、品子よ…父さんは…」と長々ぼやくのだった。
「ん?どしたの?父さん…ピザ美味しくなかった?」
品子の問いかけにどきりとなる父、昭三だった。
「…ん?ああ、美味いなぁ…死んだ母さんの味だなぁと思ってさ…」
「ふ~ん…そっかぁ…」
山間の古い家で年老いた父と娘は、むしゃむしゃと焼きたてほかほかのピザを頬張るのだった。
品子の家の縁側の庭には昭三が作った立派な石釜がある。
それは死んだ妻ジョリーンの為にこしらえたもので、かなりの年季が入っている。
電気のオーブンなぞ無かった為、その石釜はたいそう重宝した。
品子が小さかった頃は、兄や姉達がそれでおやつも作ってくれた。
それを歳の近い忠助のところの3兄弟や、五作のところの姉妹などが遊びに来ては一緒に仲良くみんなで食べたりしたもんだ。
水曜日、品子は自分で編んだ大きなかごと、幼い頃姉のヒルダが縫ってくれた小さながま口のお財布を持って、忠助の家の傍まで歩いて行った。
そこにはもう既に数人の人が待っている。
「おはようございま~す…今日は寒いですねぇ…」
品子は元気いっぱい集落のお年寄り達に挨拶をすると、「おはようさん、品子ちゃん、今日も素敵ねぇ…」なんて声をかけられるのだった。
他愛も無い立ち話をしていると、遠くから微かに軽やかなメロディーが聞こえてきた。
それは毎週水曜日に父、昭三の病院がある町からわざわざやってくる移動販売車。
都会の街中にあるジュースやアイスクリームやクレープなんかを売りに来るその手の車ではなく、ここに来るのは移動のスーパー。
食品からある程度の日用品まで置いてある、そこそこ大きな車なのだ。
お店なぞないここではわざわざ街まで買いに出かけなくてはならないところなのだが、何ぶん「買い物弱者」と呼ばれる車をとうに手放したお年寄り達には本当にありがたいものだった。
そんな「動くスーパー」を運転してくるのが品子の小学校から高校までの同級生、原田大吾だった。
小さい時から品子に気があった原田は、都会の大学を卒業すると叔父が経営する街の中ぐらいのスーパーへの就職を希望した。
原田の両親は何故そこまで熱く、弟の経営するスーパーに就職したがったのか、よくわからないままモヤモヤしていた。
だが、原田は最初から移動販売車でこの集落に来る目的で、叔父のスーパーなんぞに就職したのだった。
高校では毎日のように顔を見ることができた品子だったが、卒業してしまうと都会に出ることもなく実家でかごを編む仕事をしていると聞いた。
原田はハーフで美しい顔立ち、そして何よりも優しい心の持ち主である品子のことが好きで好きで堪らなかった。
どうにかして品子に遭いたい。
だが、不自然な遭い方をすれば、途端に警戒されてしまう。
それまでのことを回想してみると、原田は品子から嫌われていたかもしれないと思った。
普段の授業中、遠足、運動会、修学旅行などなど、同じ班になることは多々あったけれど、ちゃんとまともに話をしたことがない。
それどころか、こちらが勇気を出して話しかけても、品子はずっとそっけなかったように思う。
品子に嫌われたくない。
お近づきになれたら嬉しいな。
ではお近づきになるにはどうしたらいい?
移動販売車で毎週会って、徐々にさりげない会話から始めればいいじゃないか!
原田の答えはそれしかなかった。
ゆっくりと待っている人々の前に車が止まると、運転席からかっこよく原田登場。
だが、「かっこよく」と思っているのはどうやら原田ただ一人のようだった。
「皆さん、おはようございます。お待たせしました!移動スーパー開店です!」
先に待っていたお年寄りから順番に車内に乗り込むと、原田はすぐさま品子に笑顔で声をかけようとした。
すると、すぐさま「なぁ、兄ちゃん…これ、いくら?」とおばあさんが原田に聞いてきた。
原田は心の中で激しく舌打ちをすると、急いでおばあさんの傍に駆け寄り丁寧に値段を教えた。
一人で運転をして、一人でレジもする。
原田の仕事はなかなか大変そうだった。
品子は一番最後に車内に乗り込んで、じっくりゆっくり買うものをかごに入れていった。
原田は品子が一人になったのを見計らって、思い切って話しかけた。
「やぁ、元気だった?」
「ああ、原田君…何?急に…先週も会ったじゃないの?」
品子は車内にある品物をじっくり見ながらも、買うものはてきぱきと選んだ。
「これ、お願い。」
「ああ、はいはい…ちょっと待ってて…」
品子にいきなり話しかけられた原田は、見とれてぼんやりしていたので少し驚いた。
「え~と…1638円…あ、はい、2000円からね…じゃあ、はい、おつり362円ねぇ…ところで、リリーちゃんさ…」
「あのさぁ、その名前で呼ぶのやめてもらえる?あたし、そっちの名前、あんま好きじゃないんだよねぇ…」
「あっ!ごめん…え~と、村山さんさ…いっつも何してんの?」
原田は品子のことを、学生時代にずっと呼んでいた苗字で呼んだ。
「ああ、あたし?…うん、家でねぇ、かごとかざるとか編んでんの。」
「ふ~ん…そうなんだぁ…休みの日とかは?どっか行ったりしないの?」
「ああ、うん…休みってぇ…特にはないんだぁ…だらだらしてる訳じゃないんだけど、編んだり休んだりしてるから、わざわざお休みっていらないし…」
「デ…デート…とかは?しない…?の?」
「うん、しないよ…だって、付き合ってる人とかいないし…じゃ、そろそろ戻るね…また来週ねぇ~!バイバ~イ!」
笑顔で原田に手を振ると、品子はたたっと走って行ってしまった。
「…そっかぁ…村山さん…デートしないんだぁ…」
原田は品子に「また来週ねぇ~!」と言われた余韻に浸った。
「あれって…あれって…どういう意味よ…また、来週ねぇ~って…」
運転席で照れたような笑いが止まらないまま、原田はカーラジオから流れてくる昔のアイドルの曲を聞きながらゆっくりと車を走らせた。
女のアイドルの下手な歌声は原田のドキドキを加速させたのだった。
品子は家に戻る上り坂をゆっくりと進みながら、高校時代に好きだった男の子のことを何故か思い出していた。
「…あのさぁ…例えば…例えばね…どうしてもお腹が痛くなったとする…それで近くにトイレがないとする…その場合、やむを得ず野で用を足すよねぇ…その時、その時だよ…大便をしている方がしんどいかなぁ?それとも、大便をしている人を見ちゃった方がしんどいかなぁ?…これってさぁ…哲学…だよねぇ…」
片方だけ長く顔に垂らしている前髪を、その後さらりとかき上げた男子。
それが品子の遅い初恋の相手だった。
当然のことながら、品子が恋した相手は同級生の女子だけではなく男子からも気持ち悪がられていたのだが、品子だけはどうしても嫌いになれなかった。
むしろ「哲学」と言い切ってしまうそのインテリ風な雰囲気に、どうしてか惹かれたのだった。
だが、品子もまたそんな「哲学の彼」こと、柳沢雪秀とまともに話すこともなく卒業と共に別れたのだった。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
まだまだ続きますので、その先もどうぞよろしくお願い致します。