第二次世界大戦時、イタリアの輸送事情
山口多聞先生の架空戦記創作大会2016春作品参加作品です。
船を運航するにあたって平時にも海難事故などでの犠牲があるが、戦争とも為れば被害が天井知らずになる事は自明の理で有る。
第一次世界大戦でドイツのUボートにより5000隻を越える船舶が失われた。
第二次世界大戦においてUボートにより失われた船舶は3000隻を超える。
1939年、第二次世界大戦が勃発すると枢軸国陣営は無制限潜水艦戦を宣言した。この事により海上輸送には多大なる犠牲が生じる事が約束されたも同然となった。
戦争当初はイギリスは高速の商船を独航船の形で航行させ、Uボートを振り切るつもりであったが、ドイツ側は数隻の潜水艦による群狼作戦を採用した事で損害が激増した。
結果、イギリスは第一次世界大戦時のように護送船団方式を採用し始めたが、当初は護衛艦艇の不足、練度の不足、哨戒機の航続距離不足による空白域による襲撃などで多数の船舶が大西洋の藻屑になっていた。
これに対してイギリスは血の滲む思いでありとあらゆる方法で対抗していくのである。
そんな中、斜め右の行動をとったのは、何かにつけて有名なイタリア王国であった。
当時のイタリアはトリポリタニアを筆頭に、キレナイカ、フェザーン、コンゴ、アンゴラ、ソマリア、エリトリア、沿岸アラビアなどを海外自治領として保持していた。
これらの自治領は1910年代よりイタリア資本により農鉱業、重軽工業が発展しつつ有り、イタリア本国とリンクし経済面でも優良なパートナーとなっていた。ましてや戦争遂行の為の大いなる支援となっていた。
トリポリタニアを中心とする北アフリカリビア地方ではキレナイカ内陸の大油田地帯から採掘された原油は、パイプラインでリビア地方最大の製油基地で有るシドラへ送油され、その地で精製され、シドラ港からヨーロッパ側の受け入れ港シチリア島シラクサ港まで、地中海を20ノットの高速タンカーで凡そ一昼夜、420海里を輸送されていた。
リビア産石油は上記のルートでシチリアへ送られた後、メッシナ海峡を海底パイプラインで越えイタリア各地に供給されていた。この為、第二次世界大戦でのイタリア軍は枢軸国と違い、燃料不足に全く悩ませることなく、アメリカ軍と同等に湯水の如く燃料を使用出来た。
しかし、戦争は石油だけで出来る訳が無い、鉄、銅、鉛、武器弾薬、工作機械、食料、衣料etc.何でも必要であるが、当時のイタリア本土は完全にドイツ、フランス、ユーゴスラビア、ギリシャからの爆撃圏内に入っていたことで、工場群の被爆が相次ぎ生産力の減少が起こっていた。
その様な状態で有りながら、イタリアが第二次世界大戦を戦い抜けたのも、1929年に発生した世界大恐慌時、イタリアは不況対策と称して工場の対爆強化や地下化などを推し進め、更に自治領各地の工業化も進めていた事が要因の一つである。
また、これらの工事は大規模な予算資源の労働力を要した為、イタリアだけでは足らず、不況に悩むアメリカ、イギリスなどにも、大規模なインフラ整備の仕事が発注された事で、各国経済の低迷が鈍化し失業者の受け皿となった。この事は、1932年の大統領選にも影響し現職のハーバート・フーヴァーが二選をはたす原動力となった。
当初大恐慌によりフーバー大統領は不況はしばらくすれば元の景気に回復するという古典派経済学の考えから恐慌対策をしなかった為に、経済悪化を起こしていたが、財務長官としてイタリア系の2世で33歳のアル・カポネが就任したことで、イタリア自治領の大規模開発に参入することが出来、アメリカ経済の復活に成功していた。
また大統領選において、民主党大統領候補フランクリン・デラノ・ルーズベルトの長男ジェームズ・ルーズベルトが禁酒法時代にジョセフ・P・ケネディと共に禁酒法時に酒の密造密輸密売などを行い、ルーズベルトの政治力でもみ消しを行っていたことなどのスキャンダルが発覚したことで、フーバーはルーズベルトに40州以上で勝利する歴史的大勝を得て再選された。
因みに、ルーズベルト候補に多大な政治資金を献金してもみ消しを頼んでいたケネディは1929年の世界大恐慌時に株取引に失敗し破産しているが、これがルーズベルトの敗因の一つとも言われている。
アフリカ各地のインフラ整備は第二次世界大戦が勃発するまで進められ、これらの地から莫大な物資がイタリア本国へと送られた。しかし、これらからイタリア本土へ運び入れるには、海上輸送が普通なのにも関わらず、Uボートの脅威を避ける為、イタリアがとった行為は常軌を逸していた。
イタリアは、北ナミビアからアンゴラ、コンゴ、英領ウガンダ、英領ケニアのナイロビを経てイタリア自治領モガディシオまで4000kmを鉄道路線として全線複線一部複々線で6フィートゲージ(1829mm)80kgレール重軌道化で敷設したのでありる。
そんな鉄道路線で有るから機関車も常識外れの設計が行われていた。大型機関車は全てディーゼルエンジンを搭載しているが、大規模列車を牽引するために開発された機関車は、 ドイツMAN社の直接噴射式ディーゼルエンジンやスイスズルザー社製を原型とするディーゼルエンジンを搭載していた。これらエンジンを搭載した機関車はディーゼル・エレクトリック方式によって駆動された。
それらの2500Psh×2機を有する重機関車が4重連で長大な貨物を牽引する訳で、貨車も特製の30m級であり平均100両編成でピストン輸送を行っていた。
その結果、北ナミビアからはバナジュウムが、アンゴラからは工業用ダイヤモンドが、コンゴからは銅、鉄、コバルト、ダイヤモンド、カドミウム、金、銀、亜鉛、マンガン、錫、ゲルマニウム、ウラン、ラジウム、ボーキサイト、石炭などが採掘されると、先ずはコンゴ東部に位置するマニエマ州の州都であるキンドゥへ運ばれここに建設された大工業地帯で製品化される。
キンドゥから2000km鉄道で運ばれた物資はモガディシオ港で貨物船に乗せられ、紅海からスエズ運河を通過し、エジプト沿岸を航行しイタリア本土へと供給された。
この航路はユーゴスラビアを牛耳るツルナ・ルカのドラグーティン・ディミトリエビッチ総統率いるユーゴスラビア王国軍が1940年2月にアルバニア王国、1941年にギリシャ王国をナチスドイツと共に占領するまでは比較的安全であった。
そんな中、第二次世界大戦2年目の1940年6月にフランスがドイツに降伏。その後、イギリス海軍の攻撃でメルセルケビール海戦などが起こると、元々イタリアに良い感情を持っていなかったフランス国民が激怒し、勢いで枢軸国へ加盟しイギリス、イタリアへ宣戦布告した為、イタリアが迷惑を喰らう嵌めになった。
結果的に今まで比較的安全であった地中海航路は大西洋と同じ様に枢軸国側の潜水艦やフランス国海軍、ユーゴスラビア海軍の通商破壊艦、フランス本国、ユーゴスラビア本国、枢軸国占領下のギリシャ王国、フランス領アフリカから発する爆撃機に晒される事になった。
これに対しては、イタリア海軍は1930年代からアメリカ、イギリスに注文し建造していた大型貨物船を護衛空母として改造しエアカバーを行い、対潜水艦戦にはロンドン条約の制限外艦艇として2000㌧20ノットL65/12Cm高角砲4門、ボーフォース40mm機関砲搭載のフリゲート艦を多数装備して対抗した。
この戦いは、1943年にOTOメラーラ社が20年かけて開発したL54/127mm両用砲搭載の防空艦が就役し始めた事と、海軍がアメリカ、チャンス・ヴォート社F4U、グラマン社F6Fを輸入し主力戦闘機とする事、アンサンドル社が長年の開発で磁気探知装置装備型対潜哨戒機の配備により連合国側有利に変わっていった。
この戦いは地中海の戦いと呼ばれ、ナチスドイツ空軍、フランス国空軍、ファシストユーゴスラビア空軍の代表機とイタリア空海軍の代表機との激戦として現代でも有名である。
フランスの枢軸国参戦の結果、コンゴ前面が連合国と枢軸国の最前戦と成り、コンゴをフランス国植民地空軍の攻撃から守るために、イタリア本国から航空隊が派遣されたが、広大なコンゴ全域を護るには数が足らず、自ずと鉄道路線は自力で護る事を考えなければならなくなった。
その結果、ディーゼル機関車は対37mm砲弾防御の装甲板を張られ、コンテナ用貨物車輌を改造した高射砲車輌はイタリア軍の傑作と言われるアンサルド社L53/90mm高射砲やボフォース社L60/40mm機関砲などを搭載しフランス植民地から襲来する爆撃機相手に大活躍した。
これは、イタリアがコンゴ全土にレーダー網を網の目のように張り巡らしていたことと、1939年からイタリア空軍が大量購入したボーイング社B17を原型としたレーダー搭載の空中指揮哨戒機の存在、さらに装甲列車にまで対空レーダーを搭載した事で早期警戒網が出来上がっていたことで、敵機襲撃を的確に察知出来たからである。
更に、イタリア人はイギリス人と同様に阿呆な装備を開発したのである。イギリス人は空母不足を補うために、貨物船にカタパルトを付けハリケーン戦闘機を射出して使い捨てる戦法を取ったが、イタリア人は貨物列車にカタパルトを装備しそこからM.C.201C(M.C.200サエッタのエンジンをアルファロメオ社でライセンス生産したロールス・ロイス社のマリーンエンジンに換装した機体を改装し折りたたみ翼としたタイプ)を射出するという暴挙に出た。
これにより、元々航続距離がなく爆弾搭載量もすくなく防弾装備も貧弱なフランス爆撃機では効果的な攻撃をする事が出来ず、かといってドイツ空軍はヨーロッパの戦場で手一杯で有った為、少数のドイツ製JU88、He111などを装備したフランス本国軍の増援では焼け石に水で、1941年に入り、ドイツがバルバロッサ作戦でソビエト連邦と戦争を始めると、その少数の補給ですら滞るようになり空軍力の衰亡が顕著になって行った。
代わってイタリア側はイタリア空軍が1939年にアメリカのノースアメリカン社に発注していたロールスロイスマリーンのライセンス版パッカードマリーンを搭載する新型戦闘機P51マスタングの量産が始まり大西洋を渡っての供給が順調となると、アフリカ戦線は枢軸国の後退で突き進むことになった。
こうして、1945年の終戦に至るまで、イタリアの戦時輸送鉄道は敵の通商破壊から鉄道を護りぬいたのである。
現在、イタリア王国ローマにある軍事博物館には当時使用された装甲機関車、対空貨車、レーダー貨車、カタパルト貨車などが展示されている。
通商保護と言うか何と言うか微妙な感じになってしまいました。