第一章 ⑥ ―魔導書降臨②―
勇吹は湖の上に立っていた。水面の上に立っているはずなのに、そこにはしっかりと地面があるように感じた。
一歩踏み出せば、水面が波紋を起こす。勇吹の一つの歩みが、一つの雨粒のようにポツリポツリと波紋を起こす。
そこで勇吹が何故湖と判断したかといえば、それは周囲をぐるりと囲むように存在する草原。視界の中には、木々や民家などもありはしない。勇吹の立っている場所は、草原の中にぽっかりと現れた水面。
どうして、自分がここにいるのか。
どうして、水の上に立てるのか。
どうして、こんなところにいたのか。
いくつもの疑問が浮かび、それは消えていく。その状況はいわば無。
足元の水面を見つめる。見つめれば見つめるほどに、その水面は酷く心地の良いものに見えてくる。
甘い蜜の中に飛び込むように、そっと体を水の中に投げ出していく――。
「――イブキ!」
体を誰かに強く引かれ、そのままの勢いで尻餅をつく。
「お、俺はいったい何を……」
我に返り、自分がこの場所に立ってから、まともな神経をしていなかったことに、そこで初めて気づいた。
勇吹は、あのまま水面に沈んでいった自分のことを考えると、背筋に寒気が走る。
「あのままなら、お前は魔導書の魔力に引っ張られていたところだったぞ」
顔を上げれば、自分を助けてくれた人物。
「ありがとうございます。リデラさん」
礼を言ってみれば、リデラは照れ隠しのようにそっぽを向く。
「ここは、魔導書の中だ。お前だけのはずが、どうやらお前と私が触れ合っていたせいで、一緒に飛ばされてきてしまったようだ」
「なんか、それスケベな感じしますよね」
ニタニタと口の端を曲げながら告げる勇吹をギロリと睨みつけるリデラ。
「随分な余裕だな。――もう一度、沈むか。少なくとも、私は困らんぞ」
先ほどの恐怖を思い出して、勇吹は大きく首を横に振る。
「い、いえ! 遠慮しときます!」
大急ぎで立ち上がり敬礼をする勇吹。そして、不機嫌そうにじろりと見つめるリデラ。
既にその場の雰囲気は、元の世界と変わらないものになっていた。しかし、ここは異世界の中の異なる世界。それを証明するように、異質なる存在が出現する。
『――これはこれは、困ったですねー』
どこか能天気な少女の声が聞こえ、二人は声のした方向を見る。
「魔導書か……」
リデラが声の主の名前を口にする。
ふわふわと宙に漂うのは、先ほど勇吹達を包み、この世界を作り出した張本人である……魔導書。
「この世界は、本も喋るのかよ……」
勇吹の呟きにリデラが反応する。
「お前が異世界人だという与太話は、コゼットから聞いている。私が知るだけでも、言葉を喋ることのできる本を見たのは初めてだ。だが、魔導書といえば精霊や悪魔や神やモンスター、この世に生きる魔力の流れる生物の多くを使役することすら可能と呼ばれている。それだけ強大な魔力を内包した存在は、人語を口にすることすら容易にやってのけるだろう。それだけ、扱う人間を選ぶということだろうが……」
淡々と説明するリデラ。
レイラからざっくりとした話しか聞いていなかった勇吹は、リデラの言葉を聞き感心の声を漏らす。そこで、一つの疑問を問いかけた。
「……それにしても、魔導書のこと詳しいですね」
「それぐらい常識だ」
常識、とは言うものの、魔導書について語るリデラの様子は、常識以上の知識を持っているように思えた。
違和感を覚えつつ、「ふーん」と微妙な応答をする勇吹。その違和感を感じ取ったように、魔導書が勇吹の疑問の確信をつく。
『やはり、一部の魔導書を作り出すことに成功した種族だけあるですねー。……まあ、その話も微妙なところではあるのですけど』
「え、魔導書てリデラの家族が作ったのか!?」
『ボクの話、最後まで聞くですよー……』
魔導書がふてくされたように言うのを無視して、勇吹はリデラを見る。
「……私の先祖の話だ。今は、どの種族を探しても魔導書を作れる者はいない。それどころか、どの地域のどの種族が作成することができたのかも分からない人間の方が大多数だろう。それに、種族内の常識程度の知識はあるが、私は魔導書の生成は分からない」
「へえ、すげえんだな」
素直に称賛を口にする勇吹をリデラはチラリと驚いたように見る。
「珍しい男だな……」
ポツリと呟くリデラ。雨粒ほど小さな声を追いかけるように、勇吹は言葉を飛ばす。
「ん? 珍しいて、どういう――」
『――ちょっと、待つですよー! なんで、ここにいるですか! 目の前にいるのは、めちゃんこ珍しい魔導書なのですよー! 勝手に人間関係を進ませるなー!』
怒ったのか、本の体を激しく揺らして己をアピールする魔導書。
「はいはい」
『その手のかかる子供を扱うみたいな反応やめろですー! 皆様方のご近所様が危険に晒されているから、こうなったのですよ!』
「……そういや、忘れていた」
左の手の平にポンと右の拳を置く勇吹。
『忘れんなです!』
「だって、思ったよりも元気そうだったし……。それに、こういう世界とアッチの世界とは時間の流れが違ったりするだろ?」
アッチという単語を言う時に、何故か握り拳をして、中指と薬指の隙間から親指を出しながら告げる勇吹。
『うっ……意外にも鋭いですね。それと、――魔導書にも、性的な嫌がらせするなですよ!』
「これは、異世界も共通か。しかし……それを知っているお前もなかなかなものだよ。――やーい、やーい! お前なんて、魔導書じゃなくて、エロ本だ! エ、ロ、本!」
『ムキー!』
空中でプロペラのようにぐるぐる回り、今日一番の激しい動きで、魔導書は怒りを動きに表現する。向かい合う勇吹は、なおも煽るように手をパンパンと叩き小馬鹿にする。
リデラは、人間に完全に見下されている魔導書に驚愕するが、ここで話を方向転換することが自分の役目であることに気づく。「はい」、と声を上げて、そこで真っ直ぐに手を伸ばして挙手をする。
「――とりあえず、話を戻さないか? それから、イブキはこれ以上余計なことを喋るな。魔導書の話の邪魔になるようなら、後で半殺しだからな。約束だ」
有無を言わさない威圧感を放つリデラ。既に幾度となく、三割ほど殺されかけた経験のある勇吹は、なおも口を開く。
「……約束て、良い言葉だから、もっと使う場所考えようよ」
「半殺しな」
「……」
一瞬にしてげっそりとした顔を勇吹は、その表情に浮かべて、とりあえず体育座りで腰を下ろした。