第六章 ④ ―過去を乗り越えるために―
長い記憶の旅が終わり、彼がようやく目を覚ます。
勇吹の重たくくっついて取れないのではないかと思うほど、動き一つしなかった瞼がその目に世界を投影する。
視界の中、そこが暗い部屋の天井。鼻をつく臭いは薬品の香り。ここが異世界だろうが薬というものは、どこも一緒なのだろう。そう思ったところで、自分のいる場所が病院のベッドの上だと理解した。
体が重たくて痛い。下手に起こそうとすれば、上半身と下半身が分かれてしまいそうだ。
「ぐっ……」
それでも、体を起こした。
半分だけ起きただけで、視界の中にチカチカと星のような光が走る。それに、必要以上に自分の呼吸が荒い。起き上がるだけで、何十メートルと走った気分だ。
気配を感じ、首を横に向けた。――隣で寝ていたゼナイダが目に飛び込んでくる。
「ゼナ……イダ……」
見慣れた顔を見た途端、目を剥いた。そこでようやく、全ての出来事が、頭の中で一致する。
ソウマが何故憎悪するのか、ゼナイダが自分の手元にある経緯、イレシオン王が自分を知っていた理由、どうして異世界に来る前の記憶が曖昧になったのか。
時間や場所は違ってしまったようだが、結果的にイレシオン王とあの少女――いや、ゼナイダのおかげで、命を助けてもらい、この異世界にやってきたのだ。事実、あの少女の顔と魔導書ゼナイダの顔はほぼ一緒だ。魔導書になった影響のせいか、髪の色は変わってしまったようだが、それでも整った顔はそのままである。
これは、ゼナイダと一緒に意識を失ったことが原因で思い出したのだろうか。それとも、ソウマに再会したことで……いや、思い出した経緯は今のところ考えていたってしょうがない。
「いててっ」
ミイラ男のように巻きついた包帯を最低限のものだけ残して外し、ベッドの床に足をつける。ひんやりとした床が、今は何故だか気持ちが良い。そして、ゆっくりと立ち上がり胸元の上下運動で呼吸をしていることの分かるゼナイダに目をやる。
「ごめん、ゼナイダ。君は怒るかもしれないけど、俺は行くよ。魔導人己の力がなくても、俺は行かなくちゃいけない」
ゼナイダから目を逸らせば、ずりずりと引きずって歩いていた足に力を込める。事実、今の彼が最も楽に歩ける歩き方というのは、そういう風に足を引きずって歩くことなのだ。だが、彼は無理やりに歩き方を普段のもの以上に早く動かすように心がける。そうでもしないと、そこから一歩も歩けなくなりそうだった。
勇吹は扉の取っ手に手をかけて、そこで動きを停止した。
「いってきます」
力なくそこで笑えば、扉を引いた。
※
勇吹は、みんながどこにいるか分からなかった。それでも、病室から出て大通りを歩く、まだ大通りは営業している店も多く、何事かとその姿を見る人もいたが、酒の入った人間達にはそんなことは些細なことだった。
(とにかく、音がする方向。そして、人のいないところだ)
自分のいた病院から、そんな遠くない場所だと信じたい。魔導人己で戦っているなら、近くで揺れを感じるはずだ。
直感的に裏通りに潜り歩けば、細い路地の中をいろんなものに躓きながらも進む。人通りも少なくなり、自分が歩いてる場所がどこかも分からない。壁に手をつきながら、点々と設置された照明を頼りに暗闇をもぞもぞと動き続ける。
「イブキくん!?」
聞き覚えのある声に視線を向ければ、そこにはコゼットがいた。暗闇の中でも、少女の肌の白さや大きな二つの目がはっきりと分かる。
「コゼット? どうして、こんなところに」
コゼットが勇吹に駆け寄ってくる。その顔が、二度目の驚きを見せる。
「どうしって……。イブキくん、その怪我!?」
勇吹の脇に体を滑り込ませて、ふらつく勇吹の体を支えた。
「ああ、ちょっとソウマてやつにやられてな。でも、大丈夫だ。みんな、そいつと戦っているんだろ」
「……うん、実は――」
コゼットは自分の元へソウマがやってきてからの出来事を全て勇吹に話をした。彼の性格なら、黙っていても意地でも探すだろうし、頑固に聞こうとするだろう。口をつぐむだけでは、勇吹が止まらないことをコゼットは気づいていた。
「そうか、そんなことがあったのか」
逃げることのできたコゼットが自分に会うまでの出来事を噛み締めるように勇吹は聞いた。
「そういえば、病室にリデラちゃんとリーシャちゃんいなかった?」
「いや、いなかった。……そうか、きっと二人も戦っているのか」
「え……二人が……。え、えと、二人もいるなら、きっと勝てるよね」
勇吹はコゼットの心配そうな声を黙って聞き、そっと自分からコゼットの体を離した。
「それでも、俺は行くよ」
今も一人で歩き出そうとする勇吹の服の裾を引っ張るコゼット。そこに力はなく、ただ引くだけという感じの弱いものだ。それでも、勇吹が足を止めるには十分な感覚。
「コゼット、頼む。離してくれ」
「……ダメだよ」
勇吹は念を押すように、もう一度「コゼット」と名前を呼んだ。それに対して、顔を上げたコゼットの顔には必死の形相が浮かんでいた。
「ダメ! だって、このまま手を離したらイブキくん死んじゃうかもしれないよ!? 死んでほしくない、生きていてほしい! またみんなで、ご飯を食べよう! みんなで賑やかに過ごそうよ! 死んじゃったら、楽しいことが何もできなくなっちゃうよ! ……イブキくんはもっと自分を大事にして」
勇吹は脂汗を掻いた顔を服の袖で拭った。そして、優しげな笑顔を涙で頬を濡らすコゼットに向ける。
「俺さ、あっちの世界で大切なものを二つも失っていたんだ。だからどっかでそのこをと覚えていて、無理をしてでも誰かを助けたいと思ったのかもしれない。理由はそれだけじゃなくて、あっちの世界の記憶を思い出して、誰かを守りたい気持ちが強くなったよ。どれだけ力がなくても、頼りなくても、ただ黙って失われていくのを見るのを嫌なんだ」
溢れてくる涙が止まらないのか、コゼットは目を擦ってその流れを必死に拭おうとする。涙を拭う代わりに、コゼットの頭にそっと手を置いた。
「でも、イブキくん……!」
「誰かのためなんかじゃねえんだよ。これは、俺がやりたいからやっているだけだ。俺が明日笑うために、今できることをしている。……本当にそれだけなんだ。それに、ここで足を止めたら、みんなで過ごすことができなくなるかもしれない」
二度、三度、頭部をくるくる回して撫でる。
そこから背中を向けて勇吹は歩き出す。後ろからコゼットのすすり泣く声が聞こえ、足を止めたい気持ちを堪える。
「イブキくん、絶対に帰ってきてね。みんな一緒に」
振り返ることはなく、後姿をコゼットに見せた向けたままで、勇吹は片手をぱたぱたと上げて見せた。
それからほどなくして、彼はあの墓地に現れたのだ。
※
ソウマの咆哮が周囲に響いた。
墓地に現れた生身の勇吹の体を魔力の波が打つ。すぐさま、体勢を低くして両手両足をつくことで、その場を耐える。頭を掠める波動は高く、逆に小さな体の勇吹だからこそ、吹き飛ばされずに済んでいるようだった。
「……随分と雰囲気が違うな」
薄く笑ってみせるが、今のソウマには言葉が通じるかどうかも怪しい。既に魔導人己という括りから完全に逸脱した存在になっていた。まだ機械的だった、ネクロの赤い目は、今では人間のように動く瞳がそこにある。そして、その瞳が勇吹を捉えた。
「やばい……!」
命からがらでで勇吹は地面を駆ける。激しい衝撃波が今立っていた場所を襲う。地面が抉れ、衝撃の波に巻き込まれた勇吹は空中で体を反転しつつ吹き飛ばされた。幸か不幸か、結果的にネクロの機体に接近することができた。しかし、下手に近づけば、間近であの魔力の波動を受けることになり、体が粉々になることが容易に予想できた。
「ソウマ! これ以上、罪を重ねるな! お前の好きだったあの子も、そんなこと望んじゃいねえ!」
再びネクロの瞳が勇吹を視認する。ネクロが腕を軽く勇吹のいる方向に持ち上げるだけで、激しい魔力の爆発がネクロの足元から放たれる。そのまま、地上から突き出すように魔力の爆発が勇吹に迫る。
『勇吹!!!』
勇吹と魔力の爆発の間に割ってはいるようにシュナイトが飛び込めば、剣で魔力の爆発を受け止める。
『きゃぁ――!?』
「虹星! シュナイト!」
シュナイトはその一撃を受けたことで、もう片方の腕まで弾け飛び地上に体を打ち付けて二転三転をする。土煙の中、横たわるシュナイトの姿は確認できるが二人の返事はない。
「二人とも、俺を庇って……」
そうこう言っている間にも、ネクロの右腕が勇吹に伸びる。その右手は魔力を発生させ、生身の勇吹ならまともに触れるだけで溶解する。魔力の形をした超高温の攻撃。
辛うじて飛び退くことで、ネクロの右手を回避する勇吹。それで攻撃は止まることはなく、地面に突き刺さった右手は地面を溶かしながら勇吹の後ろを追う。
『やらせはせん!』
突然、飛来した剣がネクロの右腕に突き刺さる。
勇吹に触れる数メートルまで近づいた右手はそこで停止し、剣が飛んできた方向を見る。破れかけたマントをバタバタ揺らしつつ、リーシャが剣を連続で放ちつつ接近していく。
「やめろ! リデラさん! リーシャ!」
優先順位を勇吹からリーシャに変えて、爬虫類を思わせるような動きで瞳をぎょろぎょろ動かせば、じぃと剣を連射するリーシャを見る。
『やめない! イブキ、お前は希望なんだ! お前は、私達の代わりにコイツを――!』
リーシャの眼前に突然ネクロが出現する。
「リデラさん!!!」
リーシャの腹部をネクロの腕が貫いた。リーシャの懐から、ぽろぽろと剣が零れ落ち、気だるそうにネクロはリーシャの体を空高く放り投げた。たっぷりと時間をかけて地上に落ちたリーシャは、身動き一つしない。
「そん……な……」
ネクロが再び魔力の翼を空に届きそうなほど高く伸ばしていく。
(ダメだ、このままじゃ……あの時と一緒だ)
守りたいものを目の前で全て失い、口では偉そうに言いながら、何一つ救うことのできない弱い自分。どれだけ、抗おうが前に進もうが、また自分は失うのだろうか。失いたくない、失わないと口にしながら、結局はこの有様だ。
一緒だ。あれから何一つ変わっていない、何も変わらない。――だからこそ、諦めない。諦めることが一番難しくて、諦めないことが一番簡単なのだから。
未来に抗おうとしたゼナイダが教えてくれた、ただ一つのアンサー。
「俺は、まだ諦めてない。どれだけ傷ついても、俺は足を止めない。まだ、まだ――俺は戦える! 絶望になんて、飲み込まれない!」
ネクロは空を昇っていく。その姿はそれこそ、悪魔のそれだ。どうやら、この辺で本格的に決着を着けるようだった。
勇吹は地面を蹴り、それでも避け続けようと思う。腕や足を失うかもしれない。それでも、戦おうと武器がないなら言葉でソウマと止めよう。あの日、止められなかったあらゆる方法で悲劇を回避するんだ。
勇吹が十メートル走るよりも早く、ネクロが殺意が実体化した魔力の塊と一緒に勇吹に向かって急降下してくる。近づいてくるごとに、呼吸が辛く、吸い込んだ空気が熱気を呑むように熱い。そして、ネクロは勇吹に飛来した。
今までで一番の激しい衝撃が墓地全体を振動させ、そこで完全に墓標は全て粉々に散った。ネクロと戦い、倒れていた魔導人己は全て、その時から墓地からは弾き出されて十数メートル後方へと転がっていく。この周囲にいる限り、生身の人間ならまともに生きてはいない。
地上に降り立つネクロの中でソウマは僅かに残された意識の中、完璧な勝利を確信した。
『ご主人様は、無茶し過ぎですの』
ソウマはその声に頭を抱えて、魔導人己ネクロも動揺をするように魔力の翼を乱暴に揺らす。
ネクロは声のした方向に目をやる、そう離れていない場所に――魔導人己ゼナイダがいた。
ゼナイダが肩膝をついているのだが、それはネクロが落ちてくる直前に勇吹を抱えてそこから跳躍したためだ。その結果、膝をつく形で着地をしている。
ネクロがソウマが目を凝らして周囲を探す、勇吹の姿が見えないところをみると、どうやら既に操縦席に乗り込んでいるようだった。
「ゼナイダ……」
勇吹は痛み体でその名前を呼ぶ、申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちが自分の中にあるのが分かる。
『ボクも記憶を取り戻したのですよ。どうやら、ご主人様と同じ夢を見ていたようですね』
「あの時は――」
『――うっさいですの! ボクは、この姿になって後悔はしていないのです!』
「ゼ、ゼナイダ?」
勇吹はぎょっと驚きの声を漏らす。
『魔導書になったことで友達もできて、毎日が面白かったのです。ずっと、寂しいと思っていた気持ちが、どんどん満たされていったのですよ。……それに、ちゃんとご主人様……――勇吹くんが、ボクを見つけてくれたのです』
ゼナイダの言葉を聞いた勇吹の両目からは、涙が溢れていた。
ここでようやく救われた気がした。きっと、ゼナイダも同じように罪の意識に苦しんでいる。結果的に巻き込んだことで、人を殺してしまった。結果的に助けようと思った人を悲しませ、人間ではないものに変えてしまった。
それを乗り越えて、もういいのだと言ってくれた。だから、自分もちゃんと返事をしよう。涙を拭い、勇吹は言葉を返す。
「こっちこそ、見つけてくれて……助けてくれて、ありがとう」
罪や罰はもう十分だった。今、ここにみんなが生きている。これだけで、二人は再び歩き出せる。そして、戦えると思えた。
――魔導人己ゼナイダが、魔を討つために立ち上がった。