第六章 ③ ―彼女の記憶―
少女は、その場に力なく倒れこんだ。
大勢の人達が周囲で騒がしく動き回る。
自分も何かしなくては、と考える一方で、体がうまく動かない。それは、動いてしまえば自分のしてしまったことの事実を知らなければいけないからだ。
すぐ近くで倒れている虹星は人の山の中で埋もれているが、おそらく呼吸をしていない。さっきまで、勇吹の名前を呼んでいた声が聞こえなくなった。車道側にたくさんの人の壁ができているが、見え隠れする腕や足は、まともな形をしていない。
自分のせいだ、自分が彼らに助けを求めたから、彼らの優しさに甘えたから、彼を殺してしまった。
そこには、優しい言葉をかけてくれる人は誰もいない。その優しい人達はみんな、もう――。
「あぁぁ……私はなんてことを……」
頭を抱えて地面に叩きつけた。不思議と痛みはなく、自分が彼らの代わりにこの世界から消えてしまえば、どんなに楽だったのだろうと自分を恨んでも憎んでも足りない。
誰かが隣に立った気がした。これは、何回目だ。誰かが通りがかり、声をかけて反応がなくてそのままどこかへ離れていく。今回も無視しようと決めて、地面に涙を染み込ませ続けた。
「すごい騒ぎですね。一体、何が起きたのですか?」
落ち着いた青年の声。しかし、それに少女は反応をしない。野次馬に反応する口なんて持たない。
青年は、少女が無視しようが関係なく言葉を続ける。一方的に語り出すのは、この男性が初めてだった。
「人が……。ここにいる方達は、みんな貴女のお知り合いですか」
青年がそう声をかければ、少女は小さく、よく見てないと気づかないほどの動作で首が動いた。
「……そうですか。彼らは貴女の大切な人達?」
心に直接語りかけてくるような穏やかな声を耳に、気が付けばぽつぽつと少女は言葉を紡ぐ。それは小さく弱く、口にしないと壊れそうな感情。
「大切な……大切なお友達なんです……ボクの命なんかよりも……ずっとずっと……大切な……彼らじゃなくて……ボクが消えてしまいたい……死んでしまいたい……」
少女の弱々しい声を黙って聞いていた青年は慌てて言う。
「何を言っているのですか!? 彼らだって、そんなことは望んでいないはずですよ!」
少女は青年の声を耳障りに思い、地面に強く握り締めた拳を叩きつけた。
「そうじゃないの! 生きたくない、彼らを殺したボクが生き続けたくないのですよ! 望んでなくても、ボクは彼らの死の満ちてる世界で生きたくはない!」
少女はそのまま小さく体を丸めると、丸くなった背中が小さく震えるだけの姿になる。
青年は、僅かな時間の沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「……彼らを救う方法は一つだけあります。信じがたい話に思うかもしれませんが、私なら彼らを助けることができます」
信用していないのだろう。少女は、微小な動作で首を横に振った。
少女の頭に顔を寄せて、強く語りかける青年。
「どうか、話を聞いてください。この機会を逃せば、二度と彼らを救えなくなるかもしれないのですよ」
少女は泣きすぎたせいなのか、精神的に異常が出ているのか、眩暈のする視界で顔を上げた。そこには、肩の辺りまで伸びた美しい金髪を揺らす整った顔立ちの青年がいた。精一杯に青い瞳で見つめられれば、そこには何か訴えるような輝きを感じさせる。
「本当に……助けられるの……?」
「完全に助けられるかどうかは怪しいところです。しかし、貴女の協力が可能なら、もしかしたら……」
「なんでもいい、なんでもいいから、みんなを助けて!」
青年の服の胸元を強く掴めば、少女は必死に声を荒げた。
「――分かりました。ただ、約束してほしいのは、これから私の言う話を全て信用してください。あまり時間もないので、かなり急ぎ足で話をしようと思います。ですが、私の言葉を信用することこそが、彼らを助けることのできる力の一つとなります」
少女はこくりと頷いた。
「よろしい。……私の名前はイレシオン。そして、異世界のポリフェニアというところから来ました。その世界で、魔導書というものを作る研究をしていたのですが、研究の最中に力の暴走で次元の扉が開いてしまい、それに巻き込まれた私は瀕死の傷を負いながらもこの世界へとやってきました。いくら異世界に飛ばされても、もう助かるわけがない……そう思っていた私でしたが、この世界に辿り着いた私は怪我一つしていませんでした。後から考えてみたのですが、異世界への道を通る時に、異物である私を新たに別の世界の住人に変化させる過程で、生まれたばかりの子供を産み出すような綺麗な状態にする力が作用したのではないかと考えます」
少女の目は真剣そのもので、心の底から信用しているというよりは、必死に信じようとしていると言った方が正しいように思える。しかし、青年から見ればそれだけでも十分だと思えた。そのまま、言葉を続ける。
「これからやろうとするのは、その逆です。彼らを異世界に飛ばすことで、命を救います。私にも行われた同じ力が作用するなら、彼らを救うことができるはずです。しかし、私の力だけではそれは叶わないかもしれない。だから、貴女には魔導書となりその原動力となっていただきたいのです。しかし、それは同時に人の体を捨てるということになります。未来永劫、魔導書として生きることになるかもしれない。それでも――」
「――やります、やらせてください」
曇りのない目がイレシオンを捉え、息が詰まりそうになる。
「私の魔導書は未完成でした。これを完成させるためには、人間の心が必要となる。本当ならば非人道的なそんな材料を用意することなんて、私にはできません。……こんな提案をしている私が、そんなことを言えたことではないのですが」
自嘲気味に笑えば、方から提げていた皮の生地の鞄からぶ厚い本を取り出す。何かの辞書のようにも見えるが、それは見たこともない書物。これが、魔導書なのだと少女は直感的に気づいた。
魔導書を地面に置き、少女の両手をとれば、魔導書の表紙に両手を置かせて左右の手を重ねた。そして、そこに青年は自分の右手を乗せた。
「ただ強く祈りなさい、己が魔導書であるという自覚を持ちなさい。それ以外のことは、私が全て行います。……ほら、鼓動が聞こえてきませんか?」
少女は確かに感じていた。手元から、熱い鼓動のリズムを。ドクン、ドクン、と魔導書が生命を得ようとしている。
「これは、魔導書の心臓?」
「いいえ、これは貴女の鼓動です」
道理で。と、少女は納得した。
どこかで聞いたことのあるリズムだと思って、懐かしく感じていたが、それは自分のものだった。少しずつ、一つになっていく、魔導書に自分が溶け込む。
青年の目には、魔力の光が見えているが、この世界の人間からしてみれば少女と青年がうずくまっているだけにしか見えない。
「貴女の魔力を感じます。そして、この力を使い、あの三人を救おうと思います。彼らを先に異世界に送り、私が最後に向かいます。なるべくなら、全員を同じ場所、同じ時間に送りたかったのですが、これだけ人数が多いと難しいかもしれません」
「構いません。そこに、彼らが生き続けることのできる世界があるなら」
断言する少女の声を聞き、青年の方が逆に顔を悲しみに歪ませる。しかし、すぐに表情を引き締めて、魔力の操作に集中する。
魔力が無に等しい世界で、散らばった魔力を掻き集めるのは大変な作業だった。しかし、ここに魔導書という魔力の発生源があれば、それを可能とする。イレシオン青年が、異世界に飛んでこれたように書物の形をした魔力の完成形が次元の壁すらも超越する。
不可視の光は少しずつ、確実に大きくなる。それは、一つの渦ようにもなり、魔力の流れは彼らの体へと吸い込まれる。そして、五人の姿が最初からそこに存在しないかのように空気に溶けるように消えた。
※
そこで、少女は目を覚ました。
気が付けば深い深い森の中。鬱蒼とした光景、聞いたことのない変わった獣の声、今頬を流れた葉っぱは見たことの無い形をしていた。
激しい光に、ほんの一度だけ瞬きをした。そして、その刹那の暗闇の先には、ただただ感じたことのない強い自然の風景が広がる。
「ここが、異世界……」
少女はスマートフォンを取り出せば、先程登録したばかりのアドレスにメールを送る。
〈今、ポリフェニアてところにいます。みんなは、元気ですか?〉
先程のイレシオンの言葉を思い出しつつ、最も無事を知りたい二人に送信する。力を抜いた覚えなんてないのに、スマートフォンが地面に落ちた。そこで、自分の腕がないことに気づいた。指先から少しずつ半透明になっていっている。
「そうか、ボクは魔導書……」
どうせ歩けなくなら、今の内に歩こう。そう思いつつ、慣れない獣道を歩いた。
歩く度に、体の姿勢が不安定になっていく。近くの大木に掴まろうと手を伸ばしても、そこに掴まるための腕がないことを改めて実感する。おそらく、もう肩まで消えてしまっているだろう。
どうせなら、彼らに会いたい。救うことができたかもしれない、彼らの姿をこの目で見たい。
手を伸ばしたい、手を伸ばす。自分が彼らを救った証明を見たい。
本当ならちゃんと謝りたい。
巻き込んで、ごめんなさい。
顔を見て、お礼を言いたい。
こんな私を助けてくれて、ありがとう。
もっと、虹星と友達になりたかった。一緒に、笑い合いたい。
私も恋をしてみたかった。……自分には無理かもしれなけど、勇吹みたいな人と恋人同士になれたら、凄く幸せかもしれない。
ソウマくん、私がもっと強かったら貴方を……。
おとうさん、おかあさん。親不孝でごめんなさい。不謹慎かもしれないけど、最後にたくさんの人が私のことを想ってくれて、凄く嬉しかったです。
会いたい、もう一度、この世界にいる彼らに――。
――そして、とうとうその両足が消えた。
※
レイラは森の中に入り、モンスターの生態の研究と調査を行っている。しかし、本格的に腰を入れてやるというわけではなく、彼女にとっては趣味のようなものだった。一緒に生活を始めた居候の暗い雰囲気に耐え切れず、今日も気晴らしでやってきている。
木々を掻き分けて森の中を突き進むレイラは、あるものを発見した。
「おい、ニール。ちょっと止まるぞ」
レイラが魔導人己ニールから降りる。
それを手に取り、感心したように眺める。
「どうして、こんなところにこんなものが? それに、あの坊やもこの辺だったな」
「ふむ」と一人納得したように、その――魔導書ゼナイダを懐に入れた。
『それは、なんなのですか。レイラ様』
ニールは不思議そうにレイラに声をかけた。
「魔導書さ。こんなところに落ちているなんてな」
『話には聞いたことがあります。まさか、こんなところに落ちているとは』
「いや、普通は落ちていないよ。見てみようと思うなら、国王の元で厳重に保管されているか、魔力人の研究施設だな。それこそダークエルフしか入れないような古代遺跡でも行かない限りは、直接見ることにはできないよ」
レイラはニールに足をかければ、身軽に体を浮かせて操縦席に乗り込んでいく。
『では、何故?』
ニールには知りたがるところがある。聞かれることは、嫌いではないレイラ。困った顔一つせずに、その質問に答える。
「きっと、運命とかそういうやつじゃないかい。これを受け取ることが、私の運命だとしたら、こいつを手にする奴は決まっているのさ。それから先で、こいつとそいつの運命が始まる。……まあ、私は橋渡し役かな」
『そうですか……?』
分かったか分からないような返事をするニール。
この様子では、後からいろいろと聞かれそうだ。なんて、思いつつレイラは勇吹の待つ自宅へと引き返した。