06.遺産
それは、夜の景色だった。
そして、それは俺の知らない風景でもあった。
病室に差し込む青白い満月の光。
おそらくは満月の日だったのだろう。
明るすぎるほどの青ざめた月明かりの中で。
一人、ベッドに横たわっている女の子がいた。
サヤだった。
『……おとうさん、おかあさん』
おそらくは、眠っては居なかったのだろう。
その瞳は、両目とも開かれていて。
窓の外で月明かりに浮かび上がる、湖岸の夜景を見つめていた。
そんなサヤの手には、どこかで見た気がする古びた本が一冊、握り締められていた。
胸に掻き抱くようにして。
まるで、そこから熱を与えられているかのように抱きしめていて。
「あの本は、君たちの親が、その子に残した『負の遺産』だ」
負の遺産……?
「遺産というからには、それなりに歴史的、あるいは商業的な意味での価値がある物ということになる。特に、今回の場合には、その手の蒐集家にとっては垂涎物の価値がある遺品という扱いになるだろう品だ。……ただし、それは同時に負の性質を持つ物でもあるので、品の持つ性質としては、あまり質の良くない品といった意味にもなる」
だからこそ、それは負の遺産なんて呼ばれているって?
「そういうことだ。内容自体は古い……とても古い時代の本だ。かつてはグリモワールなどと呼ばれていた曰く付きの本の断章……。無論、現物などではない。ただの写本で、しかも日本語訳。原書からはかけ離れた部分も多々点在しているだろう代物にすぎない……。肝心の内容の方も細切れにされた原書のごく一部だけの抜粋程度ではあったのだが、そこに書かれていた中身の方は、ある程度は正確な代物だったらしい」
そんな何処か周りくどい説明に俺は少なくない苛立ちを感じていた。
「あの本が、その何とかってヤツの代用品になるって言いたいのか?」
「ああ。耳慣れない言葉になるだろうが、あるいは君も一度くらいは物語の中などで見聞きした事くらいはあるかも知れんがね……」
そこで言葉を区切って。少しだけ間を空けて。ためらい混じりに言葉を続ける。
「平たく言えば、あれはとても古い時代における忌まわしき呪われた闇の知識の結晶。この世の物ではない知識と技術を記された闇の書物。俗に『魔導書』等と呼ばれていた類の本の一種となる」
その言葉を聴いたとき、何故だかやけに胃の辺りが急速に冷たくなっていってジクジクと痛みを感じているような……。そんな変な錯覚を覚えてしまっていた。
「マドウショって……。なんだよ、それ。そんなのアリなのかよ」
「おや。君はオカルト方面には大して興味はなかったか」
その割りには色々と嗅ぎまわっていたようだがとでも言いたげなのは、俺が必死に探し回っていた情報が書かれた物が、こんなにも身近にあったことを馬鹿にしてきていたからなのかもしれない。だけど、そんな……。
「いや。まあ、そりゃ、それなりには……。一般教養程度、雑学レベルでの話なら、多少は名前とか知ってるけどさ。でも、自分の家族とか親の遺産の話をしているときに、魔道書とか……。いきなり、そんな訳のわからないこと言われても……」
そもそも魔導書とかって呼ばている物って、いわゆる『ネクロノミコン』とか『ソロモンの鍵』とか、そういう凄いのなんだろう……?
なんで、そんなのが俺の家にあったりするんだ。
どう考えても、そんなのおかしいだろ……。
「そんな物が、本当に、あるはずがない。存在するはずがない。あるわけがない。……君は、本当に、そう思っているのかな……? それとも、そうあって欲しかったのか?」
そ、それは……。
「……だって、そんなこと、あるわけ、ないし……」
自分自身の声の力のなさが、実在を否定している声そのものを見事なまでに裏切ってしまっていて。……それを聞いたヤツも思わず失笑を浮かべてしまっていた。
「そうだな。そうだろうとも。あって欲しくなどないだろうな。読んだ者に無条件に闇と死にまみれた呪われた知識を与えてしまう本など、身近にあっても百害あって一利もない。そんな面倒過ぎる代物など、おどろおどろしい物語を彩る小道具としては相応しくとも、日常の側にあっては決して欲しくはない物の代表格な品物だろうからなぁ……?」
そう、あれは触れた者の日常を問答無用で破壊してしまう類の知識……。知れば試さずには居られなくなって、その人の人生も平穏も未来も、何かもをぶち壊してしまう。そんな恐ろしい代物であるはずなんだから。
「本来は、こんな物、この世にあってはならないのだろう。手に入れた者全てを破滅に追いやり、不幸のどん底に突き落とし、後悔と絶望にまみれた血の涙に溺れながら自らの死を選ばせてきた破滅をもたらす書など。……しかし、そこに記されたたった一つの希望が。どんな願いでもかなえてもらえる可能性があり、富や名声、愛情や若さ。それこそ永遠の命から無条件の愛情、約束された成功に至るまで、おおよそ、この世において実現出来ない願いはなく、代償に己の命だけは取られる事がないということが事前に分ってしまっていただけに」
やれやれとタメ息をつきながら、首を僅かに横に振りながら。
「……だからこそ、人は、そこに記された禁忌の知識に安易に手を出してしまったのかもしれんな。その行為によって得られる対価を夢見て、馬鹿な賭けに手を出しているのを自覚しながらも、その誘惑に耐えられなくなってしまうのかもしれん。……そんな闇の書に記された悪魔との取引に手を出すような愚かな真似をしてしまえば、最後にはあらゆる物が喰い尽くされる結末しかないことを誰よりも自分自身が知っていたはずなのに……」
それでも、人は最後の望みという言い訳を自分に許し、そんな馬鹿な行為に手を染めてしまうものなのだろう。
……愚かな。実に、愚かで、嘆かわしく、馬鹿らしくもある話だ。
そう呆れた風にため息をつく姿には、いつもの皮肉っぽい色合いはなく。
純粋に悲劇的な結末を迎えることになった死者たちの群れを追悼しているかのようだった。
「……ん?」
そんな時の事だった。
景色の中から、突如として全ての『音』が消えていた。
その無音の景色の中で、サヤは何かを口にしているようだった。
だけれども、その声は聞こえず。
口元の部分も微妙に霞んで見えていた。
そのせいか、何かを喋っているのはかろうじで分かるのだけれど、何を言っているのかは全く分からなかったし、見ただけでは想像すらもつかなかった。
分かったのは、それを口にしている様子が、ひどく緊張している風であったという、ただそれだけだった。
「おい、音が聞こえないぞ」
「そうだな」
「ついでにいえば映像もなんか変だ」
一部がかすれて見れない。まるで網掛けのモザイクがかかってみるみたいだ。
そう口にした俺に、奴もさもあらんとうなづいて見せてみせるだけだった。
「あえて、そうしている」
「なんでだよ」
「お前が知るべき内容ではないからだ」
もっと具体的にいえば、あれは魔導書に記されている儀式の内容だからだ、と。
そう奴は平然と言っていた。
「なんなんだよ、それ。なんで、そんなのをサヤが出来るんだよ!」
「分ってないな。あえて誰でも出来るように簡略化、簡素化してあるんだよ。……無論、軽い気持ちでやってみた程度では何も起こらないのだがな」
俺は、こんな光景は知らなかった。
──俺は、こんな光景など知りたくもなかった。
サヤが両親の残した曰く付きの本なんかを大事に隠し持っていた事も知らなかった。
──アイツが薄気味の悪い本を大事にしていて、まるで俺から隠している風にして見せない様にしていたのは、薄々ではあったけれど、多分、俺は分かっていたんだと思う。
そもそも、そんな品が残されていた事すらも知らされていなかったんだ……。
──何も聞かされていなかったから。サヤが隠しているから。そんな理由で俺はあえて探る事を自分に禁じてしまっていた。サヤがいつか気が向いたら話してくれるだろう。そんな風に状況を楽観視していて、次第に悪化していっている状況から、ひたすらに目を背けて。ただ、嵐が過ぎ去るのを待っていた。……あの時は、自分の事だけで精一杯な状況だったんだって。そう、自分に良い訳をしながら。
「……彼女の、こんな姿を見ていると、あの日の夜の出来事を思い出して来ないか?」
その問い掛けに、もう俺は何も答えられない。
「あの日は、やけに月明かりが綺麗な夜だっただろう。気持ち悪いほど綺麗な満月の夜だったはずだ。あの日……。お前は、この映像の彼女と同じように月を見上げていたはずだ。そして、やけに胸がザワザワしていることを自覚もしていたはずだ……。奇妙に嫌な予感がして、ひどい胸騒ぎが。悪い予感がしていた。そして、夜も何故だか眠りにつけず、結局、朝まで起きていた。……その間、お前がしていたことは、ただ部屋で毛布にくるまって震えていただけだった。……ちがったかな?」
そう。俺は。あの頃の俺は、あらゆることから目を向けてしまっていた。
優しさなんて欠片もない、ただ冷たかった現実にひたすらに背を向けて……。
辛いだけでしなかった残酷で汚い世界から逃げ出そうとしてしまっていたんだ。
そして、そんな俺に大きな罰が与えられる事になる。
「……ああ。翌朝、病院から連絡があった。……サヤが意識を失ったって。……あの夜から、もう目を覚ますことはなかった」
──きっと、あの日に“何か”があったんだ。
俺の中には、ずっと、そんな思いがあった。
それは、確信といっても良かった。
だからこそ、俺は悔しかった。
俺は、それを薄々感じていたはずなのに……。
──あの日の夜、チカの身に何かが起きたんだ。
何があったのかは流石に分からなかったけれど。
でも、それを一度も疑ったことはなかった。
あの日の満月の下で、チカは、きっと“何か”をしてしまったのだ。
そんな確信に突き動かされるようにして、俺は色々と調べまわった。
親の残してくれた遺産という名の砂糖に群がってくる有象無象の輩との戦いに疲れ果て、優しくない世間に背を向けて、いじけた引きこもりと化していた事を腹の底から後悔して……。
毎日、毎日、倒れるまで必死に。
ひたすら調べ物ばかりしていた気がする。
そんな記憶が、俺の中にあった。
──コイツのことを知ったのも、確か、その時だった気がする。
俺のそんな視線に、奴も僅かに笑みを浮かべていて。
「そうなのだろうな」
そう鷹揚にうなづいて見せていた。
「そうでなければ、君のような現代っ子が、我々のような存在のことを嗅ぎつけたり、調べまわったりするはずもない。……そう。あの子の手にしていた魔導書もどきと同じ理屈であり仕組みなのだよ。執念、情念、妄執、後悔、なによりも、怒りと狂気……。それら、湧き上がり、吹き上がり、心をドス黒く染め上げる心の流す血の重みが。美しくも吐き気のする負の感情の折り重なったヘドロのような堆積なくして、我々の在る所にまで易々とは手が届くはずもないのだからなぁ?」
そう納得した風にうなづきながらも。ただ、と言葉を続けて。
「だが、真に驚くべきは、お前の本能に宿った『嗅覚』なのだろう。まるで深い森のなかで狼が獲物を嗅ぎ分けて近づいていくようにして、無限に散りばめられた虚構と虚飾の中から、たった一握りの真実だけを嗅ぎ分ける事を可能にした……。君の、その卓越したセンスと直感なくしては、ここまで早く我々に辿り着けるはずもなかったのだからな」
だからこそ私の興味をかき立て、こうして引き寄せられたのだ。
……正に、君の狙い通りにな?
もっとも、まさか、こんな変則的な方法で私と接触を図ってくるとはな。
まさか、こんな愚かな真似を試みる輩が居るなど想像もしてなかったが。
そう楽しげに言いながら、ずいっと指を、俺の鼻に突きつけて来て。
「どれだけ変な答えに見えようとも、結果だけを見れば、この通り。それでも、君にとっては、これが最適解だった訳だ。……君はこのように、時々、ひどく本能的な行動をとってきた。それは理屈や理由などに原因を求めない、ただ直感にのみによる行動であり、良くも悪くも衝動的とも言える行動だ。まさに、本能的嗅覚。原始的な部分の脳機能をフル活用している、君だけが持っているのかもしれない、非常にユニークな能力なのだろうな」
それが、俺の『嗅覚』?
「そう、君の持つ、独特の嗅覚。カンとも第六感とも違う。無数の嘘の中からたった一つの真実を嗅ぎ分けてしまう、そんな本能的に答えを見分ける、一種独特な能力の事だ」
実に面白い。実に興味深い。
一度、君の脳みそを切り開いて、じっくりと奥の方まで調べてみたいものだな。
そんな変な褒め方をされても嬉しくはなかったが。
「まあ、そう言うな。私の疑問への答えが色々と詰まった、なかなか見応えのある良い記憶だったぞ?」
パチン。
鳴らされた指の音と共に。
「なんだこれ……?」
頭の中に妙な情報が流れこんでくる。
「これって……。もしかして、お前がやっているのか?」
「ああ。楽しませてもらった事へのささやかなお礼というやつだな」
グリモワール『大奥義書』。
その断片に記されていた内容は、とある悪魔に関する記述であり、その本には追記する形で他の内容も色々と記されていたらしい。
それは悪魔の実在を証明している書であり、その悪魔によって仕切られている秘密クラブに関する記述をまとめた資料でもあった。
更に、そこには、その悪魔に接触するためのヒントだけではない。
直接声をかけて目の前にまで呼び寄せる方法すらも記されていたらしく……。
『おねがい、私の呼びかけに応えて!』
月明かりの下で。
サヤはまるで神様に祈りを捧げるようにして。
その本を両手で胸に抱きながら。
誰かに。
何者かに。
必死に呼びかけ続けていた。
『……私を呼んだのは、君か?』
サヤが目を開けた時。
そこには月明かりを遮る不自然な程に真っ黒な“影”が窓辺に立っていたのだった。