03.記憶
笑っていて答えようとしなかったクソピエロの代わりに、チカが答えてくれた。
「貴方にとっては不幸中の幸いというべきなのかも知れませんが、直接的に十三様との賭けで命を落とした人は殆どいません」
そうなのか……。結構意外な答だった。
だけど、その答えは額面通りに受け取ってはいけなかったらしい。
「もっとも、命よりも大事なモノを失ってしまった事で、後に自殺してしまった人は、かなり沢山いますが……」
やっぱり、そういうオチかよ。
そうゲンナリとしながら納得していた俺に、チカは詳しい事を教えてくれていた。
それは、例えば家族や友人、親友や恩師、恋人にスポンサー、パトロンなんかも賭けられた事があったらしく、その他にも視力をなくした画家も居たそうだし、聴力を賭けた音楽家なんかも居たそうだし、指の感覚を賭けちゃった画家なんかも居たんだそうだ。
その他にも、ちょっと変わった所だと美的センスなんていう、すっごく曖昧な“才能”なんて代物を賭けちゃった大馬鹿野郎なんかも……。でもまあ、たしかに、そいつにとっては致命傷なダメージだろうけど。ていうか、センスなんかを賭けた馬鹿から、どうやって代価を取り上げたんだろう……?
「訳がわからないといった顔をしているな、チトセ。……だが、そこは疑うな。そこだけは何があっても、絶対に疑ってはならない。……なぜならば“契約”によってもたらされる“結果”は何があっても“絶対”だからだ」
契約という名の絶対の“力”は、場合によっては悪魔の魂すらも縛り付ける事を可能にする不可視にして絶対の“鎖”であり“錘”となる。
それは契約の羊皮紙によって生み出された魂に絡みつく契約の力、鎖による制約。
それが交わされた“約束”を何があっても履行させる強制力となり、単なる口約束を“契約”たらしめる力の源泉そのものとなる。
……そんなクソピエロの無茶苦茶な与太話は、それでもなぜかストンと心に落ちてきて。
俺の心には不思議と一片の猜疑心すらも浮かんではこなかった。
我ながら、不思議な話なんだけどな……。
「契約の、羊皮紙?」
もっとも、猜疑心は浮かばなくても、さっきの説明には、奇妙に気なる言葉が混じっていた。それが『契約の羊皮紙』という言葉だった。
「チトセ。君もうわさ話程度に聞いたことくらいはあるのではないか? ……特別な存在との契約には特殊な出自の紙を使わなければならないという逸話を。そして、その紙に未だ男を知らない乙女の血を使って書き込まれた契約の文句は、時として悪魔ですらも拘束しうる“力”を生み出す源となる、と」
そう言いながらスッっとピエロが画面の中で懐から取り出したのは、奇妙に赤茶けたボロボロの布の巻物らしきもので……。
「これが、君と私と……。もしかすると、チカ君の魂までも縛ることになる」
あれが『契約の羊皮紙』ってヤツなのか。
「実際の契約の時には、君の目の前にも実物を出してやるから、楽しみにしておくと良い」
ということは、あれに約束事を書いた上で勝負に望むってことなのか。
「さっき、チカ君が、私は直接手を下すことが殆ど無いといったが、覚えているかね?」
「ああ。でも、本人の命を奪わなけりゃ良いって問題じゃないだろ」
「賭けられたのが本人の命ではなかったのだから仕方がないだろう。賭けられてもいないモノまで奪うのは、流石に契約違反になるからな」
快楽殺人者の暴走を防ぐ意味でも契約が必要ってことなのかもしれない。
「約束だから本人には手を出さないが、周囲の人の命は平気で貰っていきますよってか」
「それを賭けたからだ。賭けた以上は、負けたら奪われる。それは、ごく当たり前の結果に過ぎない。賭けの対象にされた本人にとってはともかくとして、それ以外の者にとっては、所詮は他人事。……結局は“その程度”の話でしかなかったのではないか?」
そのせいで最終的に他人が自分のせいで死ぬことになったり、本人が後悔の果てに命を断つ事になろうがコッチの知ったこっちゃないってか?
たぶん、こいつの求めるチップの“価値”は、自分にとって一番大事だと思うモノ……。
それを賭けさせて、無理やりに奪ったんだろう。
……腐ってやがる。本気で、そう思う。
直接手を下さない分、もっと質が悪いんじゃないか。
やっぱりこいつは快楽殺人者の類だ。
油断なんてしていいはずがなかった。
「大体、賭ける奴も賭ける奴だ。なんでそこまで賭けるんだ」
「勝った時のメリットが計り知れないから、だろうな。逆にいえば、そこまで思いつめなければ、こんな馬鹿な勝負には乗ってこないということだ」
ああ、そうだ。チカ君。アレをチトセに。
ぽっぽーと機関車のように灰色の煙を吹き出しながら、クソピエロはチカに命令を出して。
「これですか……」
命令されたチカがゴソゴソと上着の胸ポケットを探って取り出したのは、青い錠剤が1つ入った透明なピルケースらしき容器だった。
「そう、ソレだ。君の記憶をいつまでも封じたままでいると色々と話が通じなくて面倒だからな。こういう展開になったときに備えて用意しておいたのさ。……ソレを飲んでさっさと色々なことを思い出すと良い」
無理矢理人の記憶を消しておいて、今度はさっさと思い出せだと? ふざけんな!
大体、それって飲んでも本当に大丈夫なのかよ……。
視線でそう聞いた俺に、チカは小さく頷いて答えていた。
「この錠剤は記憶を封じた時につかった薬品の効果をある程度、薄めるためのものです。劇薬に分類される類の危険な成分を含んだ錠剤ですが……。大量に摂取したり長期に渡って摂取し続けたりしない限りは、さほど健康に害はないはずです」
「ホントかよ……」
さほどとか、はずって感じの曖昧な部分が妙に気になるんだけど。
「多分、大丈夫です。一回程度の服用については十分に安全性に関しては考慮されていると聞いていますから。……副作用で吐き気や頭痛などを多少感じるかもしれませんが、副作用はその程度で、命には別状ないはずですから」
あってたまるか! 大体、なんで最後のほう“はず”ばっかりなんだよ……。
そんなゲンナリしていた俺の手の中には、何時の間にやらピルケースに入った毒々しい色をした青い錠剤が渡されていて……。
見るからに劇薬って感じの体に悪そうな色をしていたりする。
こんなの、飲んでホントに大丈夫なのかよ……。
「これで俺の封印された“悪行”とやらを思い出せるってことか」
「それだけじゃないぞ、チトセ。色々とソレに関する記憶も封じられているからな。……君が何故、私達のことを探っていたのかも、きっと思い出せるんだろうな。……思い出したら教えてくれたまえ。君が、なぜあんな無謀な行為に及んだのか、少しだけ興味があるんだ」
そうニヤァって笑うクソピエロに、心のなかで中指をおっ立てながら。
俺はチカから渡されたピルケースから青い錠剤をとりだすと……。
「どうしたね? はやく飲みたまえ」
「……良く分からないんだが……。何故か、これを飲んだらとてもマズイ事になる気がする」
悪い予感がするっていうか……。
そういう予感しかしないっていうか……。
「ほほう……。なるほどね。これがいわゆる防衛本能というやつか。意外に君には原始的な能力が残っていたのだな」
「となると、やっぱり、これは毒だったのか?」
「いや、毒ではない。正真正銘、君の記憶を封じた薬品の効果を消すための錠剤だ」
だったら、なんで……。
「思い出すことを本能の部分が忌避しているのだろう。……君にとっては、せっかくこうして忘れることの出来た過去の出来事などは、出来れば、このままずっと忘れたままでいたい。そんな過去は、ただ辛いだけの記憶だったのかもしれん」
ぷふーと黄緑の煙を吹きあげながら。
「まあ、良いだろう。君がソレを飲みたくなるように、スペシャルなヒントをくれてやろう」
「まて。まってくれ。……チカ。君に頼みたい」
「……よろしいのですか?」
「君の方が、まだ信用できる」
「わかりました。では、私が教えても差し支えないレベルで……」
そうチカが何かを言いかけた時の事だった。
「チトセ。君には妹がいる」
その言葉は、俺に雷にうたれたような衝撃を与えていた。
……いもうと……だと?
脳裏で、その言葉が何重にも、何百にも反響してエコーを響かせていた。
「この、クソピエロ……」
……ああ。そうだ。居た。いや、居る。俺には、妹が……。
ああ、糞ったれ。居るはずなのに、確かに居たはずなのに。
それなのに顔はおろか、名前や声すら思い出せないなんて。
「何って……。何って、ことを……」
何って事だ……。ああ、くそったれ!
何をしてくれやがったんだ、コイツらは……。
くそっ、くそっ、くそっ!
なんってこった……。
妹だけじゃない。妹だけじゃないぞ。
親の顔はおろか名前すら思い出せないなんて!
……コイツら……。コイツらは……。
くそっ! くそっ! くそっ! くそっ! コイツら!
……俺から。俺から、何もかも奪って居やがったのか!
「……十三様。邪魔をしないで下さい」
「良いではないか。チトセだって泣いて喜んでいる」
「それは多分、怒ってるだけです……」
「いいや、違うぞ、チカ君。彼は、ようやく大事な事を思い出せたから、喜んでいるんだ」
「……そうでしょうか」
「そうだろうとも。そうでなければ、あんなふうには泣けないさ。男が人前でみっともなく泣き出す程の事なのだよ? よっぽど大事な記憶に関する“何か”を思い出したはずなんだ」
突きつけられる画面に写るピエロは顔のアップになっていて。
「……そう。たとえば、自分が忘れてしまっていた物が何だったのか。そして、それがどれほどの価値がある物だったのか、とかな。……もっとも、一番大事な部分は思い出せないのだがね。なぁ? ……そうなんだろう、チトセ?」
ガシャン!
ニヤニヤ笑いながら話しかけてくるクソピエロの顔を殴りつけたいのに。それなのに、俺の体は鎖に縛られていて……。
「全てを、思い出したいだろう?」
くそっ! くそっ! くそっ!
「どうすれば良いかは、分かるな?」
くそったれぇえ!
「飲め」
右手に握りしめていた錠剤を、俺は……。
「待って下さい!」
「……チカ君、今だけは、邪魔をしないでくれたまえ」
「十三様! それはフェアではありません!」
俺の右腕はチカによって止められていた。
「邪魔、するなよ……。なんで、邪魔ばっかりするんだよ……」
「もっと、冷静になってください! 今の状態で下手に記憶を取り戻しても混乱に拍車がかかるだけです! ……そうなっては、ますます興奮してしまうだけ……。そんな状態で十三様に挑んでも勝ち目はありません。もっと落ち着いて冷静にならないと」
俺は、そんなチカの言葉にムカツキだけしか覚えてなかった。
「誰のせいだと思ってるんだ! それに、俺が記憶を取り戻して何の問題があるんだ!」
「落ち着いて下さい。チトセ。そして、聞いて下さい。十三様が何故、貴方の記憶を蘇らそうとしているのか。それを教えておきます。……十三様は、貴方から十分な情報を引き出す前に、私が貴方に与えてしまった薬によって記憶を閉ざされてしまった事に強い不満を抱いているんです」
そんなのお前らの都合なだけじゃないか……。
「分かりませんか? 十三様は今回アナタがとった行動の動機や、アナタが誰から情報を得ていたのかなど、そういった背景の部分に興味があるだけです。そのためだけに、薬を与えようとしているんです。決して、貴方のためなんかじゃないのです」
それは分かってるよ!
「……気分を落ち着けながら聞いてください。もう貴方も分かっていると思いますが、あの方は、自分が楽しむためだけにアナタの封じられた記憶を解放しようとしているだけなんです。その意図を、その行為の裏の意味や意図をもっとアナタは考えるべきなんです。こういう状況下での相手の善意は、本来は一番警戒すべき代物なんですよ? アナタも昔、タダより高い物はないって習ったでしょう? ……それに、少なくとも最後にはアナタの記憶は再度封じられる事になるんです。私達の任務はアナタの記憶の封印なんですから……。短慮はいけません。それをよく考えてから行動してください」
記憶操作の薬は脳に過度の負担をかける。
記憶というものは、そう簡単に封じたり解放できたりするような類のものではない。
だから、それを何度も繰り返すことは確実に寿命を縮める行為になる。
……そう必死に俺を止めるチカの声は、誠実そうであるがゆえに、俺に底なしの不愉快さを感じさせてしまっていた。
「じゃあ……。なんで……。なんで、俺から、記憶を、奪ったんだよ……?」
妹のことも、親のことすらも。
俺から、全てを奪っておいて。
この記憶の重要性を分かっていて、なお、その言葉を口にしているのか?
そんな俺の言葉に、チカは顔色を悪くしていた。
クソピエロの邪魔をして俺の記憶を封じたらしいが、結果だけをみれば、それをやったのはクソピエロではなくチカであって。
俺にはチカを恨む十分な理由があったんだから……。