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星と紫陽花

作者: 藤宮紀晴

初投稿で、しかも過去の作品なので至らない点も多いですがお許し下さい・・


死ネタを含みます!!


 紫陽花が咲き乱れていた。此処は、何処だろう?


 俺の拳は向こうから近づいてきた人影を殴っていた。誰なのか、顔は見えない。そして次の瞬間、俺は真っ青な空の中を急降下していく。堕ちて、堕ちて―――風が頬を叩き付ける。哀しい程に綺麗な世界を眼に映しながら堕ち続けた。誰かが俺の名を呼ぶ。堕ち続けた。

 夢は見たくなかった。哀しく、得体の知れないものならば尚更。そして目が覚める瞬間はいつも胸が焼けるように痛い。その痛みはいつも、過去の俺への罰のような気がした。


 朝、部屋の東側の窓から差し込む零れるような朝陽で俺は夢から這い出た。また同じ夢を見た。体中が汗でぐっしょりと濡れている・・・この夢を見たあとはいつもそうだ。不思議だった。怖いと感じているわけではないのに。

 眠い目をこすりながら制服に着替え、一階のリビングに降りる。階段の途中で、ぷうん、と、いつもの目玉焼きの匂いが俺の目を覚ました。

「おはよう。」

先に食卓についていた3人と、キッチンで朝ご飯を作っている流星に声を掛ける。

「おはよ。」

天海が言った。続いて、父さんと優子さんもおはよう、と俺に笑いかける。流星が六つ目の目玉焼きを食卓に置きながら、おはよ、と俺の目を見ずに言った。俺が椅子に座るのとほぼ同時に、二階から彗伯父さんが降りてきた。

「おはようございます。」

徹夜で観測をしていたのだろうか、白衣姿のまま、目の下には隈がくっきりとついている。それでも、いつもの落ち着いた優しい笑顔で俺たち一人ひとりの目を見つめる。


 志月家は、六人が暮らすこの母屋らしきものと、志月天文研究所とが二階の渡り廊下でつながっている。六人とは、俺・銀河と、俺の双子の弟の流星、父さん、そして父さんの弟である彗伯父さん、この志月の姓を持つ四人、それから、父さんの助手である優子さんとその娘の天海。物心ついた頃には母さんはいなかった。そしてそのかわりに彗伯父さんや天海や優子さんがいた。このまま毎朝、流星のつくる目玉焼きを食べながら、高校を卒業して、大学に行って、いずれは父さんのあとを継いで天文学者になる・・・。そう、思っていた。でも―――


 歯車は、狂い出していた。


 朝御飯の途中、天海が唐突に、言った。

「みんなを驚かそうと思って、今朝まで黙っていたんだけど・・・。」

皆が一斉に天海の方を見る。天海は少しの間をおいて、こう言った。

「この街に、帰って、くるの。・・・川崎光希が。」

僕を除いた四人が、一瞬、え、という顔をして、次の瞬間、みんな笑顔になった。

「光希が!?」

一番顔を輝かせていたのは、流星だった。みんな、異常なほどに喜んでいた。父さんも、天海も、優子さんも、彗伯父さんも、そして流星も。みんなが川崎光希という人を知っていた。

 俺は一人、何がなんだかわからずにいた。何故自分が取り残されているのか、よくわからなかった。

「・・・川崎光希って、誰?」

―――瞬間の、沈黙が流れる。

 父さんと、優子さんと天海の顔が一瞬、引きつっていた。彗伯父さんと流星が、真顔で僕をじっと見つめていた。

「・・・忘れっぽいなあ、銀河は。」

一瞬ヒビの入った空気を解きほぐすように、天海が笑って言った。つられて、他のみんなも笑う。

「お前や流星や天海ちゃんの幼なじみじゃないか。ほら、小学校六年までいつも一緒にいた。」

父さんが説明してくれた。彼女は、この近所に住んでいたが、小六の夏に両親が交通事故で亡くなり、お兄さんと一緒に親戚のところへ引き取られていったらしい。しかし、いくら説明されても彼女のことは思い出せなかった。そういえば、流星とは双子だし天海とも小さい頃からずっと一緒にいる。けれども何故か、幼稚園や小学校の頃に遊んだ思い出がなかった。

 川崎光希・・・思い出せなかった。でも、思い出さなければならない、いつか必ず思い出してしまう。


 今日から、新学期だった。あと二年、あと二年でこの高校から出られる・・・。


 朝御飯の後片付けをしていた流星は、銀河や天海とは少し遅れて家を出た。志月家の前の坂道を、自転車で下る。大通りに出て、桜並木の道を走り抜けた。並木道の出口に、誰か立っていた。ほっそりとした女性だった。彼女は流星を見ると、駆け寄って訪ねた。

「すいません、青葉高校って、どっちですか・・・?」

「あなたは・・・?」

「あ、今年度から青葉高校で教師をすることになった東という者です。あなたは・・・青葉高校の生徒さんですよね・・・?」

流星の制服を見て言う。

「あ、はい。ええっと・・・新二年の志月流星です。」

あまり意味が無いような気がしながら、流星はとりあえず名乗った。

「高校は、こっちですけど・・・。」

民家の建ち並ぶありふれた道を指さして言ったが、少し口ごもりながら呟く。

「近道・・・あります。」

流星は彼女の顔色を窺った。

「・・・じゃ、そっちのほう、案内して頂こうかしら。」

悪戯っぽく微笑みながら彼女は答えた。良かった。通学路を通らずに近道をするなんて不謹慎、そう言われてしまうかもしれないと思い少し不安だったのだ。実際、いままで全ての先生がそうだった。流星たちの通う私立青葉高校は、有名な進学校だ。教師も生徒も皆、厳しかった。流星、銀河、天海の三人はそれぞれ、親のあとを継いで天文学者になるためにこの高校に通っていたが、それなりにキツかった。でも、この先生は違う・・・流星は淡い期待を抱いた。

 流星は自転車の後ろに東を乗せて、川沿いの「近道」を走った。幅1m程の細い道。右側には川が流れ、左側には廃虚ビルの壁がある。春風が頬に当たる。

「気持ちいい。」

不意に、後ろの東が言った。流星も、何となく微笑む。

「この道知ってるの、多分僕だけですよ。」

「・・・じゃぁ私、そんな貴重な道を教えてもらっちゃったんだね。」

二人で笑った。


 三人のクラスは、じつにあっさりと別れていた。

 1組に流星、2組に天海、3組に俺。

 始業式が終わり、新しい教室の椅子に座って俺は今朝のことを思い起こしていた。そのとき、教室の戸が開いて新しい担任である頭の禿げた爺さん教師が入ってきた。最悪だ。1組は若い新任の女の担任、2組は全校生徒に人気の体育の高村先生が担任。3組だけ何故こんな爺さんなんだ・・・。俺は少しばかり絶望し、机につっぷした。

 周りのクラスメイトたちが騒ぐ声も、爺さん教師がかすれた声で何か言ったのも、じばらくの間俺には遠い世界からのBGMにしか聞こえない。机に、つっぷしたまま、放心状態に陥る。俺を我に返したのは、まるで鈴のように美しい声だった。

「・・・川崎光希です。よろしくおねがいします。」

机から顔を上げる。自分が周りの音をBGMとして聴いていた間に、教室では転校生が紹介されていたことに気づく。転校生・・・そう、川崎光希。彼女の顔を見た俺の心臓は、急に暴れ出す。綺麗な顔に、幼い、少女の顔が重なった。やっぱり俺は彼女を知っている・・・。理由のわからない緊張が襲った。眼が、くぎ付けになる。心臓が口から飛び出しそうだ。額に手をやると、冷や汗が流れていた。

 しばらくまた、周りの音は消えていたようだ。

 俺が再び我に返ったのは、休み時間になったときだった。またあの鈴の音のような声が耳をかすめ、顔を上げる。

 彼女が、少し不安げな表情で前に立っていた。

「銀河くん・・・だよね?」

一瞬ひるむ。何だか、彼女と会話をかわすことになることが不思議だった。

「あ・・・う、うん、そうだけど・・・」

語尾が消え入るように小さくなる。

「元気、だった?」

「え、あ・・・うん。」

「良かった。」

ほっとしたように微笑んだ。僕はどうすればいいのかわからなくなって、うつむいた。

「あの・・・」

彼女が俺に何か言いかけたとき、大きな音をたてて教室の戸が開いた。二人同時に振り向く。

「光希!!」

天海が、そこに立っていた。

「天海!!」

光希も、笑顔で天海のほうへかけていく。とりあえず、俺は解放されたようだ。少し安心してまた机に突っ伏した。


 俺は、学校にいるほとんどの時間、机につっぷして過ごしている。特に授業中はほとんどがその状態だ。休み時間には少しくらいクラスメイトと話したりするが、たいていは一人でいた。正直、一人でいるほうが、大勢でいるより気楽だし、好きだった。・・・人間嫌いなのだろうか? 

 とにかく、学校が嫌いだった。天文学者になりたくて、たいして良くもない頭でも必死で受験勉強をしてこの高校に入ったが、想像していたものとはかけはなれた学園生活が待っていた。お世辞で塗り固められた表面だけ平穏な日々、嫉妬と陰口、教師と生徒の対立・・・。机に突っ伏して周りを拒絶するのが、一番楽だった。入学当初思っていた天文学者という夢も、いまは色あせて風化寸前だった。

 流星も天海も、本当によくやるなと思う。彼らにはこの学園生活が辛くないようだった。誰からも嫌われていない人物の、わずかな中に入るだろう。流星は、成績も何もかも、非の打ち所が無かった。いつも何人かの級友に囲まれて楽しそうに笑っていた。嫉妬と陰口の飛び交う中で、平然と学園生活を送っていた。まるで、この、世界は光と希望に満ちあふれているんだよと俺に語りかけているようだと、いつも思った。


 次の休み時間にも光希が話しかけてくるかと思ったが、そうではなかった。それどころか、彼女は必要以上によそよそしかったのだ。そんな光希が、俺はなんとなく気に入らなかった。


 「ただいま」

志月家のリビングには彗伯父さんが一人ソファで本を読んでいた。俺の声に顔を上げ、微笑んだ。

「彗伯父さん・・・。」

俺は気づくと彗伯父さんの隣に座っていた。

「・・・ん?」

独特の、少し低い擦れたような声で彗伯父さんは応える。思わずその眼を見つめてしまった。

 彗伯父さんの眼はとても澄んでいる・・・唐突に、そんなことを思った。僕は、彗伯父さんが好きだった。小さい頃から俺は彗伯父さんの前だけでは安心出来た。

「・・・どうした? 銀河・・・」

なかなか何も言わない俺の顔を、彗伯父さんは怪訝そうに覗き込む。

「俺・・・・」

「ん?」

「・・・なんか、おかしいんだ。」

「・・・。」

俺は、吐くように話した。今朝の天海の話、その時の流星の反応、川崎光希という人物、そして、自分は彼女のことを覚えていないということ。

「・・・気にすることないさ。きっと・・・思い出したくなったら思い出す。思い出したくなかったら思い出さなくていいんだ。」

穏やかに、彗伯父さんは言う。

「・・・本当に?」

「大丈夫。」

俺には、彗伯父さんを信じることしか出来なかった。


 あの日以来、まともに流星と顔を合わせることが出来なかった。何故なのかは、分からない。そして、被害妄想なのかもしれないけれど、天海も流星も、何処か自分によそよそしいような気さえした。

 いつものように始まった新学期。でも、川崎光希という人物が現れたことで俺の歯車は少しずつ狂い始めていた。

 いつも、心の何処かで彼女のことが気になった。教室で彼女の声を聞く度、わけのわからない不安に襲われて。

 彼女のことが好きなのかもしれない・・・そうも、考えた。けれど、自分の中にある彼女への想いは、好きという気持ちよりも憎しみに近いような気がしていた。そして、いつまでたっても彼女のことを思い出せない自分が腹立たしかった。

 それは、ある日の放課後。

 いつものように一人で歩いて帰っていた俺の後ろを、誰かが追いかけてくる足音がした。

「銀河っ・・・!」

息を切らせた天海が、背中に触れる。

「・・・っ追いついたぁ・・・一緒に帰ろ?」

「・・・あ、あぁ。」

なんで突然? 少し不審に思いながらも僕は頷いた。最近、天海とも会話を交わすことが少なくなっていた。何というか・・・話しかけてはいけないような気していたのだ。

「天海、今日部活は?」

「休みなの!!顧問が出張で。3年生は修学旅行でいないし。」

「・・・そう。」

天海はテニス部だ。よく知らないが、上手いとクラスの男子が言っていた。結構モテるらしい。その彼も天海が好きだとこぼしていた。幼なじみの俺は勿論、あまりにも身近過ぎて恋愛感情を抱いたことなど無かったが。

「・・・銀河最近、元気なくない?」

急に天海が言い出すから、少しドキッとする。

「・・・そうか? 別に・・・何も無いけど。」

本当は全然、何も無くなんか無いのに。つい強がってしまう。

「・・・そぉ。んじゃいいけど。・・・でも銀河・・・」

「・・・何?」

「ううん・・・何でも、ない。」

「何?」

天海の方こそ、何処か変で。俺には自分のことより気になった。

「・・・銀河、変わんないな、って。」

「・・・何が!?」

「何か・・・あんま感情を表に出さないとことか。」

「・・・。」

「流星と、違うよね。」

「・・・っ・・」

何か痛いものが、胸に刺さる。

「・・何? お前まで、俺と流星比べてるわけ?」

口を吐いて出てきた言葉は、思いも寄らず鋭い口調で。驚いて天海が振り向いた。

「ちがっ・・・」

必死に否定しようとする天海。

「確かに俺は、流星より劣ってるよな。」

何故か俺は半笑い。

「流星が、いなかったらな。」

そんな言葉まで溢れて。天海が眼を見開いて僕を見る。

「・・・っ・・・銀河・・・」

いつの間にか家の前まで来ていた。俺は立ちすくむ天海を背に、走って家へ入った。


 自分の部屋に入り、鍵を締める。胸の鼓動は、まだうるさいくらいに激しい。

 ・・・俺は、何を言った?

 自分の言動が信じられなくて、ただ無我夢中にベッドの上で暴れた。けれど、どんなに暴れても、もう時間は元に戻せなくて。何故か涙が溢れた。

 俺の記憶は、どうなってしまったんだろう? 川崎光希・・・彼女のことを、思い出したくないのだろうか? でも、何故?

 さっき、天海に言ってしまった言葉の一つ一つ。そんなこと、思っていないつもりだった。確かに、小さな頃から流星は何でも俺より上で。誰も比べてなんかいないのに、それは「出来ない俺」への同情のような気がしていた。でも、それでも俺は、双子の弟である流星のことが大切で。いなかったら、なんて思ったことは無い。けど・・・。

 もしかしたら心の何処かでそんなことを思っているのかもしれない・・・そう考えると、怖くて体中が震えた。


「晩ご飯だよ〜!!」


 1階から流星の少し高めな声が聞こえる。いつのまにか俺は、眠っていたようだ。うっすら目を開ける。起き上がる気力さえ無かった。

「銀・・河・・・。」

ドアの向こうから、天海の声がした。

「さっきはごめん・・・私、別にそんなつもりで言ったんじゃなくて・・・。」

消え入りそうな、天海の声。妙に女らしくて、俺は何故か強い罪悪感に襲われる。

「あの・・・御飯、は?」

その声は、本当に恐る恐るで。

「・・・いらない。」

「・・・そ、そぅ。」

「・・・・。」

遠ざかっていく天海の足音。俺はまた、深い眠りの世界へ堕ちて言った。


 紫陽花の咲き乱れる中で、俺は立っていた。またあの夢・・・そう思ったが、紫陽花の中で俺は今の、高校2年の姿だった。目の前には、人がいる。見覚えのある、あの人。急に空が黒い雲に覆われ、冷たい雨が降ってきた。俺は目の前の人影に近寄って、抱き締める。けれど俺の腕の中でその人は泣きながら激しく抵抗していた。何か叫びながら、必死に俺の腕から出ようともがいている。その叫びは、深く、深く俺の心を傷つけて。ものすごく痛い言葉の数々。それでも俺は押さえ込むように腕に力を込めた。

 腕の中のその人の顔が、見える。

「・・・っ・・・・」

俺は飛び起きた。


 体中、汗でびしょぬれだ。心臓は、激しく脈打っている。

 こんなに詳しく、この夢を見たのは初めてだ。最後に見たその人の顔は、見た筈なのに覚えていない。

 怖くなって、俺は布団の中で震える。もう、自分が何なのかすら、分からない。


 翌朝、俺は「頭が痛い」と言って学校を休んだ。どうしても、行きたくなかった。朝、流星が心配そうに部屋を覗いて朝食を置いていったが、とても食べる気がしなくてそのまま放っていた。昨夜見た夢が、まだはっきりと脳裏に焼き付いている。正直、怖かった。でもそれは何が怖いのか分からない。ただ、腕の中のその人が泣き叫んでいて、その原因は俺自身で。でもどうすることもできない・・・。彼女の顔を思い出そうとする度、激しい吐き気に襲われて、どうしても思い出せない。半ば諦めかけていた。


 夕方、学校から帰ってきた流星が今日の学校での配布物やその他を持って部屋にやって来た。

「大丈夫か?」

自然に、彼は俺に話しかける。

「・・・あぁ」

「天海が、言ってたぞ。昨日、顔色が悪かったって。」

「・・・ん。」

「お前、天海と喧嘩した? なんか天海・・・お前に謝っといてくれ、って言ってたけど・・・。」

なんでそんなに人の世話が焼けるのか、俺には分からなかった。

「ま、早く復活しろよ」

屈託のない笑みで言う流星。恐ろしいぐらい、俺は彼が憎く感じた。彼が部屋を出ていったあと、俺は呟いた。

「・・・死ね」

その言葉が自分の口を吐いて、音になって空気中に放たれたのを感じて、俺は震えた。やっぱり、そう思っていたのだ。流星がいなくなれば、と。憎んでいたのだ、双子の弟を。大切な双子の弟を。俺は、そういう奴だ・・・。

 すざまじい自己嫌悪に陥って、俺はまた、ベッドの上で暴れた。

 流星を、憎んでいる・・・そんな俺がいる。恐怖で死にそうだった。


 それからずっと、俺は学校に行っていなかった。俺が毎朝「頭が痛い」といっても、誰も何も言わずに、黙って俺に学校を休ませた。相変わらず流星が毎朝朝食を運び、俺はほんの一口か二口食べるだけだった。

 ほとんどの時間を自分の部屋で独りで過ごし、俺はだんだん外の世界から隔離されていくような奇妙な感覚を味わっていた。

 学校からその人が家に来たのは俺が学校を休むようになって2週間程経った日の夕方。

 俺は部屋で起きて本を読んでいた。読んでいた、と言ってもそれは形だけで。頭には何も入ってこなかった。

 1階で流星の声がして、帰ってきたんだな、と思ったがたいして興味はなかった。やがて複数の足音が階段を上がってくる音がして、俺の部屋のドアがノックされた。

「・・・銀河? 起きてる?」

「・・・あぁ」

「入るよ」

部屋に入ってきたのは、流星と、もう一人の女。学校で何度か見たことのある顔だ。

「1組の担任の東です。今日、3組の柳原先生が学会だったから、代わりに。」

穏やかに微笑む、まだ若い先生だ。

「先生方も、みんな心配してるよ。」

流星が、いつものように配布物を何枚か、無造作に渡してきた。その様子が、何処か違う・・・そんな気も、しないわけじゃなかった。

「じゃ、ね、志月くん・・・」

少しおどおどした様子で東先生は言った。一体何をしに来たのかよく分からなかったが俺はとりあえず小さく頭を下げ、二人は出ていった。

 二人が出ていってから少しして、俺は何となくキツネにつままれたような微妙な気持ちで部屋から出た。何故か、急に部屋から出たくなった。

 階段を下りていくと、リビングから話し声が聞こえた。流星と父さん、そして東先生・・・。

「・・・銀河は・・・」

妙に深刻な父さんのその低い声。俺はその声と自分の名前に反応して思わず立ち止まって耳を澄ました。

「銀河は、小学校6年の時に一度、死にかけているんです。」

ドクン、と心臓が脈打った。冷や汗が頬を伝うのを感じる。

「本人は知らない・・・というか、覚えていないんですが、銀河は小6の時に」

父さんが言葉を刻む。冷や汗に混じって、何故か涙まで流れていることに気づき、驚いた。

「この近くの崖から落ちて。奇跡的に助かったんですが、頭を強く打って・・・その転校生、川崎光希のことだけ、綺麗さっぱり忘れていて。医者の先生が仰るには、何か彼女のことで強く傷付いたんじゃないか、ということでした。」

身体が冷たくなっていくのを感じた。

「そのまま川崎光希は引っ越してしまったし、銀河はそのことに関する記憶を失っているし、何が起こったのか誰にも分からないままで・・・忘れさしてやるのが銀河のためかと思っていたんですが、たぶん・・・彼女が戻ってきたことで、思い出したのか、もしくは思い出しかけているんだと思います。」

父さんの溜め息。壁の向こうの3人の表情を想像するのは、いとも容易いことだった。

「たぶん今、僕たちに出来ることは、触れないようにしてあげることだと思うんです。」

流星が落ち着き払った声で、言った。その言葉に何故か異常なほど腹が立った。何故なのかは、やっぱり分からないのだけど。

 ふらふらと階段を上り、ベッドにダイブした。身体が軽くなっていた。自分の記憶の謎が解けたからだろうか? でも、胸の痛みが癒えたわけではなかった。

 さっき、父さんが話していたこと。・・・本当なのだろうか? まるで他人事のようだった。自分が死にかけたこと、記憶を失ったこと、川崎光希・・・謎が解けても、思い出したわけではなかった。というか、ますます遠い世界の出来事のように感じるだけだった。

 ただ、明日、学校に行こうと思った。川崎光希に会わなければいけない、

強く、そう思った。


 その夜は、夢を見なかった。


 「おはよぉ」

 翌朝、俺がリビングに降りていき父さんや優子さん、天海に声をかけると、皆、一瞬目を見開いて僕を見、その後普通におはよう、と言った。昨日流星が言っていた言葉を思い出し、皆触れないようにしているのだということに少し腹が立った。

 本当に、なんの変哲もなく見える朝だった。でも多分、俺以外の皆にとっては、『俺がいる』ことがいつもと違うんだと思った。

 学校に行っても、やっぱり何も変わらなくて。少し違ったことといえば、朝、出席をとったときに返事をした俺に担任の爺さんが一瞬眼を丸くして顔を上げ眼鏡をかけ直したことぐらいだ。周りは、以前と同じように俺に興味を示さなかった。そう、もう一つ変わったことといえば、彼女・・・川崎光希だ。

 それはその日最初の休み時間。

 以前と同じように机に突っ伏していた俺の肩を、彼女がそっと叩いた。

「銀河、くん」

またあの鈴の音のような声で、俺の名を呼んだ。

「身体、大丈夫・・・?」

俺は小さく頷く。

「そっか・・・よかった」

彼女は笑って。そして少し離れたところで怪訝そうな顔で見ている何人かの女子たちのところへ帰っていった。


 それを機に、彼女は何かと俺に話しかけてきた。殆ど毎休み時間ごとに。そして、帰りまでも。


「・・・一緒に、帰らない?」

いくらなんでもそこまで言ってくるとは思っていなかったから、俺は正直戸惑った。

「・・・いい、けど」

彼女はまた、腹が立つくらい屈託の無い笑顔で笑った。

 二人で通学路を歩きながら、俺たちは何も話さなかった。何しろ俺は彼女のことを覚えていないのだ。話すことなど無かった。

「ここ・・・」

突然、彼女は立ち止まった。

「え・・・?」

そこは、公園。

「ここ、小学校の時によく遊んだ・・・」

言いかけてから、突然思い出したように口をつぐんだ。

「ごめんっ・・・」

俺は静かに首を横に振った。自分の心が驚くくらいに穏やかで。

 気づいたら、彼女の手を引いて俺は公園の奥へ入っていった。

 そこには、外からは見えない少し小高い丘があって。

「・・・紫陽花・・・」

彼女は呟いてその場にしゃがみ込んだ。俺も、座る。

「懐かしい・・・」

口を吐いて出てきたその言葉に、俺も彼女も驚いてしまった。

「ぎ、銀河くん、今、なんて・・・っ・・・」

目を丸くした彼女の顔を見た途端、なんとも言えなく切なくなって。彼女の記憶をなくしてしまったことが悔しくなった。

「光希・・・」

 何故か、次々と溢れてくる記憶。それは小学生の俺と彼女・・・光希との思い出で、どれも楽しいものだった。俺と、流星と、天海と、そして光希と。いつも4人で。俺の隣には光希がいて。小さな頃から、ずっと、ずっと。毎日暗くなるまで公園で遊んで、夜は父さんや彗伯父さんと一緒に皆で星を見て・・・。思い出が、脳裏を駆け巡った。小学校の運動会、遠足、音楽会・・・。

 気づけば俺は、溢れてくる記憶を次から次へと隣の光希に話していた。光希はそれを、穏やかな表情で時々相槌をうちながら聞いている。本当に次から次へといろいろなことが思い出されて、涙が溢れてくるのを感じた。哀しくなんか、無い筈なのに。あの楽しかった日々に終わりなんて、無かった筈なのに・・・。

 やがて空は暗くなる。

「明日も、ここに来てくれないか・・・?」

そう言ったのは、俺。光希は、ただ黙って頷いて。


 それから毎日だった。

 俺は放課後光希とあそこに行き、思い出話をした。というか常に俺が一方的に喋っていた。光希はいつも黙って俺の話を聞いていて、時々笑ったり、懐かしそうに遠い眼をしていたりした。そんな光希が隣にいることが、まるで俺にとっては夢のようで。俺はその夢を終わらせないために、思い出すこと全てをただただ必死で喋り続けた。小学校の運動会で俺がこけてビリになったこと。流星は1位だった・・・。近所の夏祭りで金魚をすくって飼っていたこと。家の裏に住んでいた野良猫の親子・・・どれもかれもが、幸せすぎるほど幸せな思い出だった。

 天海や流星とも、普通に話せるようになっていた。全てが、平凡な日常に戻ろうとしていた。


「・・・銀河、最近光希と会ってるの?」

ある日の夕食の時。天海のその言葉に、俺と流星が殆ど同時に、弾かれたように顔を上げた。

「・・・っなん・・で・・?」

「え・・・何となく。」

天海のその根拠の無い答えに、少し安心する。

「学校では会うけど。クラス同じだから。でもそれ以外では話もしないけど?」

なんとなく、だったけれど、天海にも流星にもあのことは知られたくなかった。思わず嘘を吐く。

「・・・そぅ」

そのときはまだ、気づかずにいた。彼の何かが崩れていっていることに。


 昔から、双子なのにどうしてこんなに違うのだろうと思うことがよくあった。その殆どは流星が優っていて、俺が劣っていた。勉強も、スポーツも、人付き合いも。でも、やっぱり双子なんだと実感することも多かった。同じ日に熱を出して寝込んだり、同じところを怪我したり。一卵性双生児で、顔も同じだった。やっぱり俺と流星とは、深いところで繋がっている、そう信じていた。


 珍しく夜中に彼が俺の部屋に入ってきたのは、6月の半ばのある夜。

 雨の音がうるさくて、眠れなかった。今日は雨雲で空が曇って星が見えないから、父さんも彗伯父さんも優子さんももう眠っているだろう。彼は突然、俺の部屋のドアをノックした。

「・・・銀河。入っていい??」

突然のことに少し戸惑った。

「・・・あ、あぁ。」

静かにドアを開け、彼は立っていた。その顔は青白く、何処か自嘲的に見えた。

「・・・どうした?」

問う俺に、笑顔を見せて流星は言う。

「なぁ銀ちゃん。」

その呼び方は幼かった頃のようで、俺は少し怖くなるのを感じた。

「明日の夜、流れ星が見えるよ。」

「・・・流れ星?」

「そう。たぶん、父さんも彗伯父さんも、気づいてないんじゃないかな。僕は結構何年も研究して見つけたんだ。」

「・・・父さんも見つけてないのに?」

信じられなかった。

「うん。流れ星。」

「・・・それを、何で俺に・・・?」

「銀ちゃんなら信じてくれるかなと思って。」

「・・・?」

異様に子供っぽい流星が、気味悪く感じた。

「・・・銀ちゃん。」

「何・・・」

「ありがとうね。」

「・・・・?」

その屈託の無い笑顔は、もう何もかもを悟りきった仙人のようで。

「流れ星っていうのはさ、人の願い事をきいて消えていくものだよね。僕は・・・昔から、流れ星が大好きだった。綺麗で、しかも人々に幸福をもたらしていくなんて、最高じゃないか。僕は、そんな名前を貰えて幸せだったよ。」

「・・・流星・・・? お前何言って・・・」

「ありがとう。」

言い放って、流星は出て行く。俺は唖然とした。


 あの時、なんで俺は気がつかなかったんだろう。


 俺は布団の中でぼんやりと、さっきの流星の言葉の意味を考えていた。そしてそのまま、深い眠りについた。

 

 紫陽花の中で、皆泣いていた。でも何故か俺だけは泣くことも出来ずに立ち尽くしている。雨が降って来て、皆黒い雨傘をさした。けど俺は、走り出した。何処かへ向かって・・・


 騒がしい声に目を覚ました。もう朝だ。妙なすがすがしさを感じながら起き上がる。窓の外には、怖いくらい綺麗な空が広がっている。紫陽花が咲き乱れていた。昨日はまだ咲いていなかったのに。何故か俺は小さな溜め息を一つ吐いた。 

 その瞬間。

「・・・っ銀河・・・!!」

天海がノックもせずにドアを開けて、俺は思わず身構える。

「ノックぐらい・・・」 

俺はそれ以上の言葉を続けることが出来なかった。天海は、堰を切ったように泣き出したのだ。声も立てずに、ただただ静かに。

「・・・?」

「・・・・・」

「・・・天海・・・?」

「・・が・・・りゅう・・せい・・・が・・・」

体中に熱いものが溢れるのを感じた。俺は部屋を飛び出す。隣の部屋の前には、4人が呆然と立っていた。

「・・銀河・・・」

俺を見つけた父さんが静かに言う。


 いつもの目玉焼きの匂いがしない。


鼓動が速くなるのを感じる。・・・何も、考えられなくなった。

父さんが何か言いかけたのを無視して、俺は流星の部屋の中を見た。

「・・っ・・・」

なんて痛々しいんだろう。そして、美しいのだろう。

嗚呼。

その儚さに俺は初めて気づいた。

血の海の赤さに比べて、彼の亡骸はあまりにも白すぎた。


 昼ごろには、警察や医師、担任の東先生や光希たちも来た。俺らは何も言うこともなく、本当に呆っと立ち尽くしているだけだった。光希も、東先生も。


 何故彼が逝ってしまったのか、だれにも分からなかった。

 遺書には、『僕は流れ星でした』という一言。そして長年の研究の結果だろうと思われる大量の資料が部屋中にまき散らされていた。父さんが言うには、相当の天才天文学者じゃないと今夜の流れ星は推測できなかったらしい。要するに、俺の弟は天才だったのだ・・・。


 俺はもう涙を流すことさえ出来なかった。昨日の夜のことが、まるで遠い昔に感じられた。

「・・・りゅう・・・ちゃん・・」

 幼かった頃のように、声に出して呼んだ。小さな声で。でもその声は自分に返ってくるだけで、決して流星に届く筈も無かった。



 その夜、天文台を使って通夜が行われた。俺は喪服姿の人形のようにただ頭を下げ、挨拶をして動いているだけだった。光希や天海、優子さんも父さんも、皆涙を拭っている。俺一人、泣くことも何も出来ない鉄仮面のようだった。

「・・・銀河・・・くん・・」

不意に声をかけられた。光希だ。泣き腫した真っ赤な眼で、俺の前に立った。

「・・・なん・・で・・・?」

嗚咽交じりの声で、俺に問うた。

「なんで・・流ちゃんは・・・・」

赤い眼で俺をじっと見つめる。

「あの時も、そうだった。」

彼女の声に、ドクン、と心臓が脈打った。体中の血が逆流するような、奇妙な感覚。

「光希・・・」

彼女の肩に手を掛けようとした―――瞬間、まるで俺の手から逃げるように光希は走り出した。そのまま階段を下りて、外に出る。俺も走り出していた―――


 夕闇の雨の中を、光希は傘も差さずに走った。俺もびしょぬれになりながら彼女を追う。多分、それはそんな長い時間ではなかった筈だが、俺には永遠とも思える時間だった。


 俺等がやっと足を止めたのは、あの公園の中の丘。光希は突っ立ったまま、声も立てずに泣いていた。雨と涙が混じって、綺麗な顔がぐちゃぐちゃに見えた。

「光希・・・」

俺は近づいて腕を伸ばした。彼女の細い肩に触れて、抱き寄せる―――もがいていた。俺の腕の中で、彼女は激しく抵抗している。哀しかった。でも俺は腕を放さず、ますます力を込める。

「・・・嫌・・っ・・離し・・・て・・・」

雨が、虚しく二人を濡らす。このまま、二人とも雨に溶かされてしまえばいい―――そうすれば、光希と一つになれる・・・。

「貴方が・・・流ちゃんを殺した・・・」

言葉が胸に刺さる。

「貴方がいなかったら・・・流ちゃんは・・・」

何も言うことが出来なかった。

「あの時も、そうだった―――いつだって貴方は、私と流ちゃんを邪魔してた・・・」

さらに腕に力を込める。

「貴方なんて・・・」

真っ赤な眼で、俺をじっと見つめる。愛しい人。俺は―――

「・・・いなければよかった。」

彼女の口から吐かれた言葉に、体中の力が抜けていく。俺の腕から逃げ出したその人は、また雨の中へ消えていった。俺を残して。

―――貴女さえいれば、それで良かった。他に何を失っても、貴女がいてくれるのならそれで良かった。だから・・・

貴女が俺以外の誰かを愛しているなんて、許せなかった。

思えば、気づいていたのだ。貴女は、俺のことを“銀河くん”としか呼ばなかった。決して―――彼奴のことは“流ちゃん”と呼んだのに―――


嗚呼。

何故気がつかなかったのだろう? 彼の苦しみに。血を分けた兄弟である彼の苦しみに。深いところで繋がっている・・・そう、信じていたのに? 

あの夜、彼が最期の言葉を託すのに選らんだのが、この俺だったというのに?

何故―――

・・・いや、気づいていたのかもしれない。

彼は、俺が光希を愛していたことを知り、そして彼女の自分への想いも知り・・・何も知らないふりをして、その狭間で闘っていた―――

優しすぎたんだ。誰を傷つけることも出来ずに、その傷を全て自分で負っていた。何も辛くないような屈託の無い微笑みで。世界は光と希望に満ちあふれているんだよ、と語りかけているようなあの微笑みの裏の傷に、俺は気づいていた・・・じゃあ何故、彼を救うことが出来なかった?

大切だった。嫉妬もしたし、劣等感に襲われることもあったが、俺はたった一人の弟を、心から大切に思っていた筈・・・なのに・・・?

己を守る為? 愛する人を手に入れる為・・・? そう。知っていた。光希が想っているのは俺じゃない・・・流星だということに。だから・・・

涙が、溢れた。

流星が逝ってしまったことが哀しいんじゃなかった。ただ、そんなことにも気がつかなかった自分が憎かった。

光希の言った通りだった。俺は流星を殺した・・・

俺は手段を選ばなかった―――

俺を、光希を、傷つけない為に流星は一人で傷を負ったのに、俺はそれ以上に彼や光希を傷つけた―――深く、深く。

ただ自分の欲望の為だけに・・・


 暗闇の中で、紫陽花の花だけがやけに綺麗に映った。俺はその紫陽花をかき分けて、さらに奥へと進んだ―――崖だ。

 そう、もうこれで何もかも終わる。俺はもうこれ以上、誰も傷つけちゃいけないんだ・・・かといって、自分で全ての傷を負えるほど俺は強くは無い。

 崖の上から見ると、遠くに流星の亡骸の眠る展望台が見えた。

 足が宙に浮いた。そう、このまま・・・何もかも忘れて深い眠りにつきたい・・・。


 腕に強い衝撃を感じた。がくん、と身体が揺れる。俺の右手はまだ崖の上だった。

「天・・海・・・」

必死に俺の右手を掴みながら、何も言わずに彼女は首を左右に振り続けていた。

「・・はな・・・せ・・・・」

「・・だめ・・・」

その澄んだ瞳に涙をいっぱいに浮かべて、俺を見つめる。駄目なんだ・・・

「銀河まで逝っちゃ・・・嫌だ・・・・」

「・・・・。」

「逝くなら・・・私も連れていって欲しい・・・」

もう、天海の上半身は崖から出ている。左手では必死に紫陽花の茎を掴んでいた。けどこのままじゃ、それも時間の問題だった。

「私も・・・」

駄目なんだ・・・。俺はもうこれ以上、誰も傷つけちゃいけない。

「・・・離せ・・・ッ!!」

右手を、力の限り振った。途端、全てが軽くなって、全ての景色が目の前から消えた。俺は堕ちていった―――



 夕暮れだった。

「なぁ光希?」

「・・・なに? 銀河くん・・・」

幼い光希は、少し淋しそうな表情で俺の顔を見た。

「向こうに行っても、元気でな・・・」

「うん・・・ありがとう。」

淋しげで、それでいて美しい笑顔を俺に向ける。

「・・・光希・・・」

「・・ん?」

「俺・・・・」

「・・・・?」

「光希のこと・・・」

「ぇ・・・?」

紫陽花が揺れている。公園の丘よりさらに奥、紫陽花をかきわけてやっと入れるこの場所は、俺たち子供4人が入ってちょうどいっぱいだった。けど今は二人しかいないから、少し広々としていた。天海と流星は、丘の上で遊んでいる。

「すきだ。」

驚いたように見開かれた光希の眼。夕陽の光をうけて、少しオレンジ色に見えた。

「・・・光希は?」

恐る恐る問う俺に、少し迷った末、彼女はこう言った。

「・・・ごめん・・・ね・・。」

一瞬、何が起こったのか分からない程だった。

「私ね・・・流ちゃんが好きなの・・・」

少し恥ずかしげに言う光希。俺はその場に立って固まったまま、動くことも出来なかった。

「光希ーっ!!」

遠くから、天海の呼ぶ声。光希は駆け出した。そして

「夕陽、見えるの?」

入れ替わりのように流星が来た。そのあまりにも幸せそうな声に、俺は身体が熱くなるのを感じる。

「―――流・・・」

「ん?」

振り向いた彼に、俺の拳が当たる。驚いて除けようとした流星はその場に転んで石で顔を切り、そこから血が噴き出した。

その赤い血を見て、俺は初めて自分が何をしたか気づいた。怖くなる。思わず後ずさりした。流星が僕に向かって何か言った・・・その瞬間には僕はもう堕ちていた―――



「・・・が・・・銀河・・っ!!」

目を覚ますと、心配そうな天海の顔がアップで映る。

「銀河!! 眼、覚めた・・・!?」

僕は白いベッドに寝かされていた。父さんや優子さん、光希、彗伯父さん、そして天海が僕の周りに立っている。

「・・・俺・・・??」

「・・っ・・・よか・・った・・・」

天海の眼に涙が溢れる。俺は戸惑った。

「お前・・・崖から落ちたんだ・・・昔一度落ちたあの崖から。」

父さんが必死に冷静を装って説明する。

「私・・・どうしようかと思った・・・銀河が・・いなくなっちゃったら・・・」

「ごめん・・・・」

その瞬間―――謝る俺の言葉を遮るように、天海と俺の唇が触れた―――

すると、まるで伝染したかのように俺の目から涙が零れ落ちる。

「・・・っ・・」

俺の胸に顔を埋めて泣く天海を強く抱き寄せた。

 涙は止まらない。でも俺はその涙を拭おうとは思わなかった。今は、泣こうと思った。自分の為だけじゃなく、流星の為にも。彼が泣けずに堪えた涙を、今俺が流そう。そして彼の分も、生きていこう。



 窓の外に目をやると、空からたくさんの星が降っていて。そしてまるで星たちを受けとめるように紫陽花が咲き誇っている。


―THE END―       


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― 新着の感想 ―
[一言] 胸が一瞬詰まるような切ない話でした。素晴しかったです。
[一言] 切ない…切なすぎました。 人と人の擦れ違いの大きさ、気持ちというモノの重さを感じました。
[一言] 切ないお話ですね。 人のすれ違いこんな悲しい結末を生んでしまったんですね。心理描写や情景の書き方が上手だなと思いました。 これからも頑張って下さい。
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