ビヰ玉Ⅲ
この町の冬は体の心に響くような冷たさを持っていた。初めて宮内家で過ごす冬。芸者小屋で過ごしていたときよりも、この街の冬はずっと寒いことを七緒は最近知った。
「……」
朝は仕事の量が増える。左一や孝次が起きてくるより先に起床し、炭を燃やして部屋の中を暖め、かじかむ手で雨戸を開ける。凍りついた雨戸は何度も引っかかり、力を入れて動かさなければいけない。ガタガタと音を立てて雨戸を開けると、それまで真っ暗だった部屋の中に一筋の光が差した。息が白く染まる。
暗闇の中から現れた世界は、白銀に染まっていた。秋まで赤や黄色に染まっていた中庭の木々が、今では寂しい姿へと変化し、体に綿雪を羽織っている。獅子脅しも凍りつき、池には厚い氷が張っていた。
「……」
ふと、七緒の視線が池の上で止まる。池の上には小さな子狐が座っていた。雪がちらついているのにも構わず、体に雪がついた形跡はない。七緒は子狐をじっと見つめていたが、すぐに寒さに身震いを起して、縁側を通って向こうの和室の中へと走っていく。
障子を開ける部屋の中を覗きこむと、和室の中央に二つの布団が並べられていた。中には二人の少年の姿がある。左一と孝次だ。七緒が更に障子を開けて足を踏み入れると、外からの光で目を覚ましたのか、孝次が寝返りを打って唸り始める。
「うーん……」
七緒は先に孝次の布団の前に行くと、頭まで掛け布団を被った様子を見て、その体を揺すってやった。孝次は寝ぼけたような顔で七緒を見上げ、そしてまた布団の中に顔を隠す。
「……うるさい……」
孝次の様子に七緒は少しだけ苛立ちを覚えた。こっちは仕事とはいえ、二人よりずっと早く起きているのだ。しかし、そこはぐっと抑えて再び体を揺らす。しばらくそうしていると、孝次は不機嫌そうな顔で上半身を起した。そして開けられた障子の間から外の様子を見て、体を震わせる。
「寒っ!」
再び布団に包まろうとする孝次の頭を軽く叩いて、七緒は隣を指差した。手伝え、と視線で訴える。孝次は七緒の示した先に視線を向けると、大きく息を吐いた。隣では孝次の声を聞いても未だ深い眠りの中にいる兄、左一の姿がある。七緒も少しだけ呆れたような表情をして、左一の体を揺すり始めた。
「おーい、兄ちゃん。朝、朝」
七緒と孝次が両側から左一の体を揺するが、起きる様子はない。孝次が掛け布団から引き剥がしても、七緒が枕を取っても、瞼が動く様子はなかった。二人は大きくため息をついて、お互いに顔を見合わせる。
左一は勉強も性格も、全ての面において孝次よりも勝っている。学校でも優秀な生徒で、先生ウケもよく、友人も多い。大雑把な孝次と違って、細かいことにも長けている。しかし唯一、孝次の方が良いといえるのは、この寝起きだ。
七緒も最初は自分の声が出ないせいかと思っていたが、孝次が声をかけても起きないのだ。
「兄ちゃん、朝だって!朝!」
隣で騒がれても、幸せそうに眠る左一。仕方なく七緒と孝次は立ち上がり、珍しく共同作戦に出る。七緒が孝次の隣に来て、一緒に敷布団を引っ張るのだ。すると自動的に左一は畳の上に転がされる形になる。
せーの、という孝次の掛け声と共に、左一はコロコロと横に転がった。そこまでされて、やっと左一の瞼が動く。
「う……ん……」
「おはよう」
孝次がそう言うと、やっと眠りから覚めたのか、左一が目を擦りながら上半身を起す。辺りを見回し、孝次と七緒の姿を見つけて、ボソボソと朝の挨拶を口にした。しゃきっとしない兄の様子に孝次は深くため息を吐き、七緒は困ったような表情を浮かべる。実を言うと、左一は顔を洗うまで眠気が覚めないのだ。ひどいときは孝次が引きずるようにして顔を洗いに行かせることもある。
「ほら、兄ちゃん。顔洗いに行こう」
「うん……」
ぽやんとしたままの左一を立たせると、孝次はその手を引っ張って顔を洗いに行く。七緒はそれを見送って、ぐちゃぐちゃになった布団を畳み始めた。部屋の中にいても息が白く染まる。七緒は手に息を吹きかけながら思った。
今日も一日の始まりだ、と。
☆
この地方は雪が多い。都会育ちの七緒にとって、積雪は初めてのことだった。食事を済ませて出て行った左一達を見送って、庭に積もった粉雪を箒で掃く。しかし少し時間が経つと、庭の様子は再び真っ白に染まってしまった。
何度も何度も降り積もる雪。最初ははしゃいでいた七緒も、2日3日と経つうちに、雪かきの大変さを思い知ることとなった。
「七緒。夜になる前に、もう一度雪かきしてもらってもいい?」
買出しから戻ってきた秋代が、屋敷の掃除を終えた七緒の顔を見てそう言った。七緒はげんなりした顔で、秋代を見上げる。
秋代は七緒の表情に気付くと、苦笑を浮かべた。
「何度も雪かきして疲れちゃったのね。……でも冬はまだまだこれからよ?」
秋代の言葉に、七緒は台所から外を見つめる。窓の向こうでは垣根が真っ白に染まっていた。降り積もる雪は留まることを知らない。音も無く舞い落ちる雪は幻想的で、見ている分には綺麗だが、雪かきとなると話は別だ。
七緒はため息を吐いて、玄関へと歩いていく。外に出ると、朝に掃いた雪がいつの間にか元通りになってしまっていた。買出しから帰ってきた秋代の足跡が、白い地面を汚している。
「……」
七緒は箒を持ってくると、慣れた手つきで雪を掃き始めた。粉雪はこうして左右に払えば良いのだと、ついこの間ヨシが教えてくれた。
雪を払うと、足元から凍った地面が現れる。ツルツルと滑る場所には要注意だ。先日も七緒はこのツルツルに足をとられて、危うく転びそうになってしまった。七緒は足場に気を配りながら、玄関から垣根へと雪を払っていく。
足元ばかり見ていた七緒は、垣根の前まで来た時、誰かの気配に顔をあげた。門の前に、誰かの足がある。冬場にも関わらず膝を出した着物。顔をあげると、七緒より少し身長の大きい子供がこちらを見ている。
焼けた肌に、真一文字に結んだ口。何処かで見たことのある男の子だ。右手には紫色の風呂敷を持っている。中に何か入っているのか、風呂敷は大きく膨れて見えた。
「……孝次、は?」
大きな体の少年は、七緒を見下ろしてそう言った。その聞き覚えのある声に、七緒はやっと思い出す。
彼の名前は、荒峰眞治という。孝次と同じ尋常小学校の生徒で、孝次を中心としたガキ大将グループの仲間の一人。秋に西川の上流で起こった『肝試し』の原因の片割れだ。孝次と一緒に川に落ちて、危うく溺れそうになった。
七緒は首を横に振りながら、久しぶりに見た眞治の姿に、心の中で疑問を感じていた。そういえばあの事件以来、いつも遊びに来る悪ガキ達の中に、『肝試し』の原因になった眞治と、もう一人の少年・吉見慶吾の姿がなかった。
眞治は首を振る七緒をしばらくじっと見つめていたが、仕方なく右手に持っていた風呂敷をつき出した。首を傾げる七緒に、ぶっきらぼうに言う。
「……これ、孝次の父ちゃんに」
つき出された風呂敷を受け取ると、ごつごつとした感触が伝わってきた。おそらく野菜か何かだと七緒は思う。抱えるようにして持ち直すと、七緒はもう一度眞治を見上げた。眞治は仏頂面で身長が大きいせいか、怖そうな印象を持っていたが、門の前で俯いている様子はどことなく年相応に見えた。
眞治は足元を見つめて呟く。
「あと……」
囁くような小さな声に、七緒は首を傾げた。覗き込むようにして見つめた表情は、叱られた子供のような顔をしている。眞治は七緒と目が合うと、ふいっと顔を逸らした。
「……なんでもない」
眞治はそう言うと、七緒に背を向けて歩き始めた。畑のある方へと、来た道を戻っていく。おそらく街とは逆の方向に家があるのだろう。農家はその殆どが街とは逆の方向に位置している。そしてそちらにある家々は、決して裕福な人々のものではなかった。
七緒は雪の中、傘も差さずに歩いていく眞治の姿をじっと見つめる。庭ではしゃいでいた小狐が雪の山を飛び越えて七緒の近くに寄ってきたが、七緒の視線は道の向こうへと向けられていた。
☆
「……眞治がどうしたんだよ」
小学校から帰ってきた孝次に、七緒は身振り手振りで眞治が来たことを伝えた。持ってきた野菜は秋代に渡したが、秋代は眞治がくれたものだと聞くと、困ったように苦笑していた。
孝次は鞄を畳の上に下ろしながら、少々不機嫌そうな表情を浮かべていた。そして大きくため息を吐く。
「別に、どうだっていいだろ」
七緒の視線に、孝次はそう言って部屋を出て行った。苛立っているのか、いつもより足音が荒い。置いていかれた七緒がキョトンとした顔をしていると、二人の様子を見ていた左一が小声で七緒に教えてくれた。
「……自分で謝ってくるまで、許さないつもりみたいだよ」
思いも寄らない言葉に、七緒は目を丸くした。左一は苦笑を浮かべて肩を竦めて見せる。
「眞治くんのお家の人は真っ先に謝りに来たんだけど……眞治くんが謝ったわけじゃないって言って……」
左一の言葉に、七緒は帰っていく時の眞治の姿を思い浮かべた。農家の家柄なら、地主の息子を危ない目に合わせて、親はさぞ肝を冷やしたことだろう。彼が持ってきた野菜は、おそらく謝罪のしるし。秋代の顔を見る限り、何度も同じような品を渡されているのかもしれない。
七緒は畳の目に視線を向けた。きっと眞治も孝次に謝りたいと思っているのだろう。しかし、あの喧嘩は慶吾が眞治の家柄を馬鹿にしたことから起こったことなのだ。理不尽な気持ちもあるのかもしれない。
「……」
貧乏な者の気持ちは七緒にもよく分かった。
芸者小屋にいたころは見た目は裕福だったが、いつも邪魔者として扱われてきた。芸者小屋は接客第一のため、羽振りのいい客にはそれらしく頭を下げ、口出しすることは許されない。物心ついたことは、それが悔しくてたまらなかった。たかがお金があるだけで、と。
「……七緒?」
左一の声で、七緒は我に返った。なんでもないというように首を横に振り、孝次を追って廊下へと出て行く。中庭に通じる縁側から小狐が顔を出していたが、ぱたぱたと歩いていく七緒に首を傾げていた。
☆
雪が降ると、決まって子供たちは雪合戦や雪だるま作りを始める。帰り際、孝次を待っていた左一は下級生達が楽しそうに雪合戦をしている様子を眺めていた。丸まった雪玉が空中を行き来している。ぶつけられた者は真っ白になり、今度はぶつけてきた相手に向かって雪玉が飛んでいく。
冬は好きだと左一は思う。こうやって雪で遊べるのはこの時期だけだからだ。春が来て雪が溶けてしまうと、なんとなく寂しい思いに駆られる。だから冬がずっと続けばいいのに、と毎年思うのだ。
「あ、左一さん」
玄関の前に立っていた左一は、聞きなれた声に振り返った。向こうから小柄な女子が歩いてくる。一際目を引く上等な着物を纏い、少しだけ勝気な表情を浮かべた彼女は、真木野花江。裕福な機織屋の長女で、下には市太郎という名の弟がいる。花江は孝次と同級生で、よく家に来るので、左一とも顔なじみになった。
花江は左一と隣まで来ると、にっこりと微笑んだ。
「孝次……じゃなくて孝次さんなら、もう少し残っていくって言ってたわ」
孝次の時とは全く違う口調、そして表情。しかし左一はあまり気にしない。なぜなら、花江は左一の前ではいつもこうなのだ。もともと疎い性格の左一は、花江の本性を全く知らないと言ってもいい。
左一は孝次のいる教室に視線を向けて、肩を落とした。
「そっか……。じゃあ、僕は先に帰ろうかな」
「あら、じゃあご一緒しても良いかしら?」
弟の市太郎を引き連れている時とは別物の顔で、花江は静かにそう言った。向こうで雪合戦をしていた子供達が二人の姿を見つけ、なにやらコソコソ話をしている。その中の一人が、二人を冷やかそうとして両手を口元に当てて叫ぼうとしたが、花江に睨みつけられ、退散していった。
もちろん左一はそんなことに気付かず、素直に頷く。
「うん、いいよ。方向も一緒だし」
行こうか、と左一は花江と共に歩き出した。雪の上に二人分の足跡が出来ていく。一緒に帰る二人の姿を、退散していった子供達が、忍び笑いを漏らしながら見つめていた。
学校を出て、道沿いにある西川を下っていく。西川橋の両端には様々な店屋がならんでおり、花江の機織屋もその中の一つだ。道を挟んだ反対側には、いつも店仕舞いした状態の骨董屋がある。その小さな看板には、手書きで『巽骨董』とだけ書かれていた。
その店は、左一の父・和泉の古い友人である巽が開いている小さな骨董屋。彼は時折ふらっと街を出ていくこともあるので、その間、店は常に店仕舞いをした状態なのだ。
会話を弾ませながら歩いていた左一は、道の向こうに七緒と巽の姿を見つけた。七緒は古ぼけた看板の下で、巽の言葉に首を傾げたり、首を横に振ったりしている。
左一が走り出すと、花江も七緒の姿に気付いたようだった。
「七緒!……どうかしたの?」
駆けて来た左一の姿に七緒は顔をあげた。何かを説明しようと手を動かすが、それより先に巽が口を開いた。
「ちょっと頼みごとをしたかったんだけど……どうやらお使いの途中らしくてね……。まあ、それなら仕方が無いね」
巽は肩を竦め、苦笑しながら七緒の頭を撫でた。七緒はお使い用の財布と、夕食用に買ってきた大根と葱を抱えたまま、済まなそうに俯いている。
左一は巽を見上げて、首を傾げて見せた。
「巽おじさん、頼みごとって?」
「ん?ああ……実は、今度とあるお偉いさんが商品を見に来る予定なんだ。でもご所望の品を蔵の何処に置いたか分からなくなってしまってね。僕はこれから用事があって、隣町に行かなければいけないから、手伝ってくれる人を探していたんだ」
左一は巽の言葉に聞き入っている。追いついてきた花江が大根と葱を抱えた七緒に目を止めた。七緒もまた花江の姿に気付く。
「……」
花江は七緒と目が合うと、フイっとそっぽを向いた。七緒もまた、花江の様子を見て同じように顔を背ける。
花江が宮内家に遊びに来ると、決まって花江は七緒に嫌味を言っていた。理由は分からない。七緒には心当たりが無いのだ。しかし七緒も嫌味を言われたくらいで気落ちするような気質ではない。おかげで今ではすっかり犬猿の仲となってしまった。
巽は互いに明後日の方向を向いている七緒と花江の様子に苦笑しながら言った。
「……でも仕方が無いね。隣町にいく用事は今度に回すしかないかな」
困った様子の巽に、左一はぱっと顔を輝かせた。何かを思いついたときの表情だ。
「それなら、僕が探すよ!蔵の中から商品を探せばいいんだよね?」
「え、でも……いいのかい?」
巽の言葉に、左一ははっきりと頷いた。小学校の授業も終り、あとは家に帰るだけなのだ。時間はたっぷりある。荷物を一旦家に置いてきてからでも遅くはないだろう。七緒はヨシの言動を予想して渋い顔をしていたが、隣からやけに大きな声が聞こえてきて顔を顰めた。
「巽さん!!私も、やりますっ」
勢いよく手を挙げたのは花江だった。七緒は驚いた表情をしていたが、左一と花江の顔を見比べるとどうやら魂胆が見えてきたようで、大袈裟にため息をついて見せた。しかし花江はそれを無視して巽を見つめる。
巽は困ったように頬をかいた。
「真木野さんのお嬢さんもかい?……うーん、気持ちは嬉しいんだけど……」
「巽おじさん、大丈夫だよ。みんなでやればすぐ終ると思うし……孝次達にも頼んでみるよ」
孝次も一緒に、と聞いて七緒は再び顔を顰めた。巽の蔵に孝次を放り込んだら、骨董品を割ってしまいそうで怖くて仕方がない。しかも花江も一緒なのだ。
苦虫を噛み潰したような表情をしている七緒に苦笑しながら、巽は言った。
「それじゃあ……申し訳ないけど、お願いしようかな」
☆
食事より少し前、七緒は大きくため息を吐きながら庭の雪かきをしていた。垣根の雪を払い落とし、邪魔にならない場所に積み上げていく。自分と同じくらいの山が出来上がるのを見つめながら、七緒は再びため息を漏らした。
左一が一度鞄を家に置きに来て、また出て行くまで一騒動だった。意気揚々としている左一に、骨董品の蔵と聞いて異様に気分が盛り上がった孝次、そして巽の頼みと聞いて機嫌が悪くなったヨシと、苦笑するしかない秋代。七緒はヨシに八つ当たりされないように、自ら雪かきに出てきたのだ。
七緒は雪山から目を離し、庭の石灯籠に視線を向けた。すると、先ほど雪を払い落とした場所にこんもりと真っ白いものが盛り上がって見える。また雪が積もってしまったのかと近づいてみると、それはあの小狐だった。
「……」
七緒がじっと見つめると、小狐は可愛らしく首を傾げた。そしてすくっと立ち上がると、庭から門の方へと駈けていく。七緒は慌ててそれを追った。いくら田舎とはいえ、近くには猟師も住んでいる街なのだ。道に出て誰かに見つかったら、騒ぎになりかねない。
箒を手にしたまま追いかけようとした七緒は、門を曲がったところで急停止した。死角から黒い影が出てきたからだ。
「!」
慌てて急停止したせいで、凍った地面で足を滑らせた。バランスを崩した七緒の手から箒が滑り落ちる。七緒は反射的に目を瞑った。地面は雪が積もっているため痛くはないだろうが、転んだら間違いなく着物が濡れてしまうだろう。
ヨシに叱られるのを覚悟したその時、七緒は着物の襟を掴まれた。七緒は驚いて、伸びてきた手から相手の姿を見る。
眞治だ。
「……大丈夫、か?」
七緒は眞治の手を借りてバランスを立て直すと、安堵の息を吐いた。咄嗟に『ありがとう』と言いそうになって、慌てて両手を押さえた。もちろん声は出ず、息だけが空気を白く染める。
眞治は、別に、とだけ言って、首を横にふった。意外な反応に七緒はきょとんとする。眞治は自分の頭に積もった雪を払いながら言った。
「……口見てれば、だいたい分かる。……言葉」
「!」
七緒は驚きの表情を浮かべた。口の形で言いたい言葉が分かるとは、思いもしなかったのだろう。そんな器用なことが出来る人は初めてだ。いや、もしかすると巽もその方法で七緒の言葉を読み取っていたのかもしれない。
眞治は鼻の下を擦って、左手に持っていた風呂敷包みを差し出した。七緒は慌てて受け取ろうとしたが、秋代の苦笑と左一の言葉を思い出して、伸ばした手を引っ込める。
『眞治くんのお家の人は真っ先に謝りに来たんだけど……眞治くんが謝ったわけじゃないって言って……』
七緒は首を横に振った。その様子に眞治は顔を顰める。
「……もらってくれないと……困る」
七緒は眞治の顔を見上げた。おそらくこれを受け取ってもらえずに困るのは眞治だけではない。むしろ困るのは眞治の親なのだろう。しかし七緒は首を縦に振らなかった。
そしてその代わりに、眞治の手をとって歩き出す。雪の中をあるいてきたせいか、その手は冷たくなっていた。
「……?」
七緒は振り返ると、ゆっくりと口を動かした。眞治に分かりやすいように、しっかりと話す。空気が白く染まり、息を吐き出す音だけが聞こえた。
眞治はしばらく七緒の顔を見つめていたが、仕方なさそうに頷いた。そして七緒に引っ張られるまま、西川の方へと歩いていく。
手に持った紫色の風呂敷だけが、真っ白な雪の中をユラユラと揺れていた。
☆
「……と、いうわけで。探しものは掛け軸だからね。分かった?」
商品発掘の指揮を執ったのは花江だった。左一の他に、孝次、市太郎が蔵の前に集まっている。
巽の蔵は立派なもので、鍵もしっかりかけられていた。解錠の方法を教わった花江は、入り口の前の雪をかき分け、蔵を開ける。ゆっくりと扉を引くと、分厚い扉の向こうに薄暗い空間が見えて来た。
最初に左一が入り、次に孝次が続く。仄暗い様子に躊躇していた市太郎を引っぱり、花江も中に足を踏み入れた。
「うわぁ……凄い沢山あるんだね」
孝次がろうそくに灯りを点すと、周りに積み上げられた様々な骨董品が浮かび上がった。小柄な市太郎が入ってしまいそうな大きめの箱から、へその緒を入れる箱くらいの大きさのものまで様々だ。ふと窓際に視線をやると、二階へ続く階段がある。
「たしか、掛け軸は二階だって言ってたっけ……行ってみよう」
互いに頷き合って、花江と孝次も二階へ向かって歩いていく。ふと肌寒さを感じた市太郎は、蔵の入り口に視線をやった。
今日は学校が終わった後から吹雪が強さを増している。入り口を開けっ放しにしておくと、蔵の中に雪が入って来てしまうだろう。市太郎は非力ながら重い扉を引っ張って閉じると、姉達の背中を追って二階へと上がっていく。
蔵の二階は底冷えしていて、吐き出す空気も白く染まっていた。市太郎が顔を出すと、姉達が奥の一角に集まっている。近づいて見てみると、どうやらその辺りに掛け軸の入った箱が積み上げられているようだった。
「ああ、イチ。……巽さんが言うにはね、ここにこの形の印が押された箱に入ってるらしいんだけど……」
花江は、あらかじめ巽から渡されていた紙を弟に向かって差し出した。そこには見慣れない崩し文字が二文字書かれている。市太郎はそれを受け取ると、部屋の中央に置かれたろうそくに照らしてみた。
「姉ちゃん、これ、箱に書いてあるの?」
「そうよ。二手に分かれて、この山を両端から手分けして確認していくから、イチは孝次と一緒にお願いね」
にっこりと微笑んで、花江は奥で箱と格闘している孝次を指差した。よくよく見ると、左一と花江は右側、孝次が左側で作業をしている。市太郎が孝次を手伝い始めると、孝次は小声で市太郎に耳打ちした。
「どうせ兄ちゃんと一緒に探す気だぜ、あれ」
我が姉ながらずる賢いやり方に、市太郎は呆れたようにため息をつくしかなかった。
☆
四人が掛け軸を探し始めて、数時間が経った。両端から掛け軸の箱を一つ一つ確認していた市太郎が、ふと山の真ん中から持ってきた箱の一つに目を留めた。他の箱より随分古い。すり減っているのか、木目が指に吸い付くようだ。
市太郎は箱をひっくり返して、声をあげた。
「あった!あったよっ!!」
「でかしたっ」
半分やる気を失っていた孝次は立ち上がろうとして、バランスを崩した。どうやら寒いところにずっと座っていたせいで足が痺れたらしい。花江は弟のもとに駆け寄ると、ロウソクの灯りに箱を照らし出す。巽の残していった印の紙と見比べると、全く同じ印が箱の隅に描かれていた。
「イチ、よく見つけたわ!巽さんが言ってた掛け軸はきっとこれよ」
「でも中身まで一緒だとは限らねーだろ?」
必死に足を揉んで血行を良くしながら、孝次が呟いた。左一も市太郎と花江の側に寄ると、箱の印を見比べている。
「たしか、中身の掛け軸は……見返り美人の絵だって言ってたよね。確かめてみようか?」
「えっ、でも左一兄ぃ、破いちゃったりするといけないんじゃあ……」
市太郎が不安げに箱の中を覗き込んだ。おそるおそる箱から出すと、いかにも年代物の掛け軸が4人の前に姿を現す。紙は乾燥しているのかパリパリになっていて、4人は不安げに顔を見合わせた。
花江は大きく息を吐いて、隣にいる市太郎を肘で小突く。
「破れそうなら止めればいいでしょ。……確認しないと、中身が別物でしたなんて巽さんに悪いじゃない」
「そうだね、とりあえず確認しないと……じゃあ花江ちゃん、端を持ってもらっていい?」
左一に『花江ちゃん』と呼ばれて、花江は有頂天になって頷いた。隣にいた市太郎と、足のしびれと悪戦苦闘していた孝次が顔を見合わせてため息を吐く。それに気づいたのか、花江は後ろにいた二人をギロ、と睨みつけた。市太郎が一瞬にして固まる。
「孝次、ローソクで照らしてもらっていい?」
「おう」
孝次は片足でぴょんぴょん跳ねながら兄に近づくと、足下の灯りを拾い上げた。左一は紙の状態を見ながら、ゆっくりと掛け軸を開いていく。時折パリパリと音を立てる様子に、市太郎は姉の背中越しに掛け軸の絵を見つめていた。
掛け軸は破れることなく、4人の前に美しい見返り美人の図を露にした。紙が少々日焼けしているところを見ると、何処かの家に飾られていたのだろう。しかし子供達は誰も感嘆の声をあげようとはしなかった。4人が4人とも奇妙な顔でお互いに顔を見合わせる。
最初に口を開いたのは花江だった。次いで孝次、左一がそれに答える。
「……ねえ、見返り美人ってこうゆうものだったかしら?」
「んなこと聞くなよ。……俺知らないし」
「家にも高級な掛け軸はないから……」
姉の背中からそれを見つめていた市太郎は、ゴクッと生唾を飲み込んだ。掛け軸に描かれていたのは確かに見返り美人だが、その服装はまるで死に装束のように真っ白なのだ。
3人の心の内を、市太郎が代表したようにポツリとつぶやく。
「雪女みたいだ……」
これ以上ピッタリ合う言葉はないだろうと思うくらい、絵の中の女は雪女に似ていた。左一達はそれぞれ親から聞いた雪女の物語を思い出し、背筋に冷たいものを感じた。急に蔵の中が寒くなったようだ。
花江は声を震わせながら言う。
「ま、まさか……そんなわけないじゃない。左一さん、さっさと仕舞いましょ」
「う、うん……」
左一は元の通り綺麗に掛け軸を巻き直すと、市太郎の見つけた箱の中にそれを仕舞った。それでも4人の感じた寒気は治まらず、掛け軸の箱を持った市太郎は指先がゆっくりと体温を失っていくような、そんな感覚に陥った。
3人はとりあえず蔵の一階に降りた。2階の窓は重くて開かなかったので、外が暗くなったのかどうかも分からない。ただ蔵の中が急に冷え込んできたのは確かだった。
孝次は殆ど溶けかけたロウソクで入り口を照らし出す。
「ま、まぁ、とりあえず、これを店の中に置いて、店の鍵を閉めればいいんだよな、兄ちゃん」
「うん……早く出ようか。寒くなったし」
そう言って左一が入り口に手をかけた。しかしすぐに左一の表情が曇る。何度か片手で扉を押し、今度は両手で押した。しかし扉は動かない。確かに蔵の扉は重いが、ここに来たときは開けられたのだから自分でも開けられるはずなのだ。
「市太郎、これ持ってろ」
孝次はロウソクを市太郎に預けると、左一の隣に並んで扉を押した。びくともしない。
「う、うそ……」
二人が扉と格闘する姿を後ろから見つめながら、花江は呆然とした。外では吹雪いているのか、まるで誰かが奇声を発するような音が響いている。
孝次は扉を手で押し、今度は肩を押しつけて扉を押したが、扉はビクともしなかった。左一は何が扉を閉じているのか、足下を見つめたり、天井を見上げたりしている。
孝次は扉を押すのを止めて、花江と市太郎に視線を向けた。
「おい、市太郎も花江も、ここの手伝いのこと誰かに言ったか?」
「ううん。……だって、言ったら手伝いになんて行かせてくれなかったと思うし……」
花江の言葉に市太郎も頷いた。そしてそれは左一と孝次も同じことだった。自分たちは地主の子供であり、機織屋の子供。裕福に育ってきた彼らは家の中で誰かの『手伝い』などしたことがないのだ。花江もいつかは家事をこなすようになる日が来るだろうが、彼女は七緒とは違って寒い日に外で雪かきをしたり、朝一番に起きて、家の住人が起きる前に部屋を暖めるようなことはしなくていい。
困惑する表情を浮かべる左一に、孝次は言う。
「兄ちゃんは?誰かに、ここにいるって言った?」
「僕も誰にも……あっ!」
急に思い出したように、左一は声をあげた。その表情を見て、花江もまた手を叩く。二人が巽に掛け軸探しを頼まれたとき、側には七緒がいたのだ。
「そうだよ、七緒は僕らの話を聞いていたから……遅くなれば迎えにきてくれる」
話を聞いて安心したのか、市太郎はへなへなと床に座り込んだ。花江はぱっと顔を明るくしたものの、七緒に恩を売るのはあまり気が進まないのか、複雑そうな顔で唇を尖らせる。七緒と花江が犬猿の仲だということを知っている孝次は、ひと嵐来そうな予感に苦笑いを浮かべるしかなかった。
そういった関係に非常に疎い左一は明るい声を出す。
「僕らがここに来て結構時間が経ってるはずだから、きっともうすぐ……っ?」
ふっと、辺りが暗くなった。市太郎は突然自分の手の中にあったロウソクが消えたことに驚き、声をあげた。花江もまた、ヒッと息を詰まらせ、体を硬直させる。左一は咄嗟に、隣にいた孝次の肩を掴んだ。孝次もまた、互いを確認するように兄の背中に手を伸ばす。
「孝次、これって……」
孝次が何かを言おうと口を開いたとき、扉の向こうからコツン、コツンと音がした。とっさに臆病者の市太郎が声を上げる。
「う、うわぁっ!」
頭を抑えて小さくなる市太郎。扉の向こうの音は一瞬止み、今度は手を叩くような音が聞こえた。一定のリズムをつけて聞こえて来る手拍子の音。
パッと孝次が顔をあげた。
「七緒っ!?」
ふと手拍子が止む。そして代わりに返ってきたのは、聞き覚えのある声だった。
「……孝次……?」
「この声……眞治?眞治じゃない?」
花江がそう声を上げると、壁の向こうからは静かな眞治の声が聞こえてきた。
☆
「真木野……?他に、誰か……いるのか?」
巽の家の蔵の前で、七緒は眞治が扉と対話するのを聞きながら、思いつきとはいえ眞治を連れてきて良かったと思っていた。もしも七緒だけなら、中の様子まで話しながら確認することは出来ない。
七緒はちら、と門の外に視線を向けた。先ほどから吹雪始めたせいで、自分が蔵の外にいることを知らせるのも難しい。
「左一さんと、イチと、孝次!4人だけよ」
蔵の中から花江の声が聞こえてきた。何故左一にだけ『さん』をつけるんだ、と七緒はふと顔を顰める。すると今度は左一の声が聞こえてきた。
「掛け軸を探していたら、扉が開かなくなっちゃって……眞治くん、もしかして扉の前に何か置いてある?」
眞治は七緒に視線を向け、そして今度は上を見上げた。扉の前には雪が積もっている。しかし数時間とはいえ、こんなに積もるはずはなかった。おそらく母屋の屋根の雪が滑り落ちて蔵の前に積もってしまったのだろう。
眞治はいつもより声を大きくして、中に向かって言った。
「雪が、積もってる。……今、掻き出す」
そう言って手で雪を掘り始めた眞治に、七緒は雪を掃く道具を探した。しかし道具類も全て蔵の中にあるらしく、あたりにそれらしいものは見当たらない。七緒は眞治の隣に座り込むと、同じようにして雪を掻いては、入り口から離れたところに放った。
屋根に積もっていた雪は氷のように固く、手で雪を掻き出すのは大変だった。玄関前の雪かきで冷えきっていた指先は冷たさより痛みを感じている。七緒はふと真っ白な雪の中に埋もれる自分の指先に目を留めた。
小さな指先は、毎日の家事仕事によってあかぎれている。時々秋代が紫雲膏とかいう薬を塗ってくれるけれど、こうして自分の指先を見つめていると、なんだか悲しくなってしまう。芸者小屋にいたときは、いくら雑用とはいえ、客に見栄えがするように、ある程度小綺麗な格好をさせられていたのだ。
「……?」
手を止めた七緒に、眞治が首を傾げている。なんでもない、という意味で首を振り、七緒は再び手を動かし始めた。
中からは左一の申し訳なさそうな声が聞こえて来る。
「ごめんね、七緒、眞治くん。……外はもう日が暮れてる?」
「もう少しで、暗くなる……」
眞治は屋根の下から空を見上げた。吹雪いているせいで暗くなるのが早い。もし完全に日が暮れたら、大人を呼んできた方がいいかもしれない。七緒は雪に混じった氷を除けながらそう思った。
眞治は黙々と雪を掻いていたが、ふと扉の向こうに向かって言った。
「……孝次?」
先ほどから花江が市太郎を励ます声と、左一の声しか聞こえない。七緒も不思議に思って耳を澄ました。するとしばらくしてから、くぐもった孝次の声が聞こえて来る。
「……なんだよ」
その声色はこの間、七緒が眞治のことを話したときと似ていた。この状況にあっても、まだ眞治に対して苛立ちが治まらないのだろう。七緒はムッとした。たしかにこの間のことは眞治も悪いが、理由を聞いた限りでは喧嘩を売ってきた方がもっと悪い。
眞治は少し悲しそうに背中を丸め、雪の中に手を突っ込んだ。手が冷えきっているのは眞治も同じだ。ここまでその手を引っ張ってきたのだから、それはよく分かっている。冷たいのではなくて痛いのだろう、指先が微かに震えていた。
「この間の……。……悪かった」
「悪かった、で済むのかよ」
冷たい言葉に、蔵の中から孝次をたしなめる左一の声が聞こえて来る。眞治は静かに最後の雪を払った。七緒は見ていられなくなって、足下に視線を落として唇を噛む。
「下手したら両方死んでたかもしれないだろっ」
孝次の怒鳴り声が蔵の中で響いている。扉一つ隔てたこの場所では、冷たい吹雪が舞っていた。
「……」
眞治は無言のまま、扉に手をかける。七緒は真っ赤になった手で、力の入る限り拳を握りしめた。
誰も、生まれて来る家なんて選べない。七緒だって眞治だってそうだ。芸者の娘に生まれたくて生まれたんじゃない、百姓の子供に生まれたくて生まれたんじゃない。生まれてしまってから自分の立場を知って、その境遇に逆らうことが出来ずに生きていくしかないのだ。
百姓の子供達は赤ん坊の弟妹を背中に背負ったまま、教室の窓から授業を盗み見ていたり、中には手伝いが忙しすぎて学校に来れなくなる者もいる。もっと貧しい者は七緒のように奉公に出されたり、もっと歳上なら母のように芸者小屋に入るのだ。
「……今、開ける。……そっちから押してもらってもいいか?」
「あ、うん」
扉の向こうから、左一の声がする。七緒は後ろに下がったまま、胸の中に広がるムカムカした気持ちをどうすることも出来ずにいた。いつの間にかあの子ギツネが歩み寄ってきて、七緒の足に擦り寄った。
「せーのっ!」
☆
左一のかけ声で、蔵の扉がいとも簡単に開いた。光が見えたことに安心した左一が、ほっとしたように息を吐く。眞治が扉を大きく開くと、次いで涙でくしゃくしゃになった顔の市太郎が花江に引っ張られて出てきた。しかし臆病者のわりに、しっかりとあの掛け軸の箱を胸に抱えている。
花江は外に出て来ると、七緒の姿を見て顔を顰めた。しかし、その時の七緒に花江を睨み返す余裕はなかった。
「……孝次」
左一に呼ばれ、口をへの字に結んだ孝次が姿を現す。納得がいかない表情で眞治を睨みつける孝次の顔を見たとき、七緒の中に溜まっていた複雑に絡み合う苛立ちが、音を立てて切れた。
咄嗟に、七緒は足下に溜まっていた雪を一握り掴むと、孝次の顔に投げつけていた。
「っ……!?」
「!」
無表情な眞治が驚いた顔で七緒を振り返る。左一も花江も、そして鼻水を垂らして泣いていた市太郎までも、驚いた視線を七緒に向けた。
七緒は苛立ちで何もかもが分からなくなり、溜まっていたものを吐き出すように言った。自分の耳には、自分の言葉がはっきりと聞こえていた。
しかし、やはり声は出ず、言葉は白い息に変わる。
『なんで怒られなきゃいけないの!?謝るためにここまで来てくれたのに、なんで許してあげられないの!?孝次のわからずやっ!!』
七緒はそう叫ぶと、蔵から外へと駆け出す。唖然としている孝次の代わりに左一が声を上げた。
「あっ、七緒っ!」
誰も追いかけることが出来なかった。消えていく七緒の背中を追ってあの子ギツネが走っていくのを、孝次は呆然と見ているしかなかった。
☆
「こら、七緒っ!玄関の雪かきは……って、七緒?」
玄関に仁王立ちになっていたヨシの横を、七緒はすり抜けた。暗い表情に涙を溜めて、草履を揃えることもせずに二階へ駆け上がっていく。台所から顔を出した秋代にも何も言わず、七緒は階段を登った。
ポカンとした表情でヨシと秋代は顔を見合わせる。
「……なんだい、ありゃ」
「どうしたんでしょう……坊ちゃんにいじめられても泣かないのに」
秋代はそう言って、階段の奥に消えた七緒の姿を見上げた。ヨシは首を傾げながら、開け放された玄関の扉を閉める。そして秋代の持っている包丁と大根を手に取ると、顎で階段を示した。秋代は苦笑を浮かべる。
「さっさと行ってきな。こうゆうのはお前の仕事だろう」
「ふふ……すいません、じゃあ台所をお願いします」
珍しい事態に台所から使用人の女達が顔を出している。家事を行うのが仕事の女達にとって、騒動は恰好の話題の種である。人の不幸は蜜の味、といったところか。押すな押すなと台所から階段に視線を向ける女達を見て、ヨシはため息をついて一喝する。
「アンタ達!仕事をしなっ!!」
秋代は後ろから響く怒鳴り声を聞きながら、階段を上った。どうやら七緒はいつも自分たちが寝室に使っている部屋に飛び込んだらしい。障子を開けると、部屋の片隅で丸くなっている小さな背中が見えた。秋代には見えないが、傍らには七緒を慰めるように小さな狐が擦り寄っている。
秋代は障子を閉めると、慣れた手つきで七緒の背中をさすってやった。七緒はピクッと肩を震わせたが、すぐにまた顔を背ける。
「……どうしたの、七緒」
秋代の言葉に、七緒はゆっくりと顔をあげた。そしてパクパクと口を動かす。それは感情が高ぶっているときに七緒がよくする行動だった。声が出せないことを忘れて、口を動かしてしまう。
困ったように微笑む秋代の顔に気づいて、七緒は口を押さえた。すると目尻に溜まっていた涙がボロボロと頬を伝って流れ落ちる。口元を歪ませて泣く七緒。おそらく普通の子供なら大声で泣いているところだろう。
しかしその泣き声さえも、まるで雪に吸い取られてしまったかのように静かだ。
「あらあら……」
秋代はそう言いながら、七緒の小さな頭を引き寄せた。そしてもう片方の手で、赤くなった七緒の手を包み込む。七緒は秋代に抱きついて、出ない声をはりあげて泣いた。
秋代は励ましの言葉も何も言わなかったが、胸の奥に溜まった悲しさが消えるまで、秋代は傍らで背中をさすってくれていた。
☆
左一と孝次が宮内家に帰ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。七緒の居場所を訪ねる左一にヨシは渋い表情を浮かべた。階段から降りてきた秋代は困った表情の左一と、しおれた様子の孝次を見比べて苦笑する。
「……七緒なら二階です。泣きつかれてしまったようだから、布団を敷いて横になってますよ」
秋代の言葉にヨシが顔を顰めた。外を走ってきたようだから、体も冷えているだろう。風邪をひかれると困る、と呟いて、ヨシは夕食の盛りつけをしている使用人の一人に風呂の準備を指示した。
左一は弟の手を取って階段を登る。登るごとに孝次の足が止まるのは、気まずさと自尊心が混じり合っているからなのだろう。いつもガキ大将として走り回っている表情からは予想も出来ない沈みようだ。
「孝次、ちゃんと謝らないとダメだよ」
七緒が走り去った後、何となく気まずくなって5人は解散することにした。眞治は七緒が置いていった風呂敷を手に取ると、それを孝次に渡して背を向けた。吹雪の中持ってきた風呂敷は雪で真っ白になっていて、孝次は後ろめたい気持ちになってしまった。
孝次は眞治に声をかけようか迷ったが、結局左一に手を引かれるまま、帰ってきてしまった。
「……七緒?」
左一は七緒達が寝室に使っている和室の障子を開いて、そう言った。すると和室の奥の方に一つだけ布団が敷かれている。左一の声に反応したのか、黒髪が掛け布団のなかに潜った。
弟の手を引いて障子を閉めると、左一は布団の前に腰を下ろした。七緒は布団の中に潜ったまま顔を出そうとしない。孝次は困ったように兄と布団とを見比べた。しかし左一は助け舟を出してはくれない。孝次の言葉でしか、謝ることは出来ないのだ。
それは、自分で言った言葉。
「……あの……な、七緒?」
自分でも情けない声だと思う。しかし掛け布団の山はピクリとも動かない。孝次は自分の膝を見つめながら呟いた。
「……さっきの、あの……い、言い過ぎた」
「……」
七緒は応えない。おそらくお互いに悪いと思っているのだろう。左一は孝次と七緒を見比べながらそう思った。どちらにも正しい部分はあって、どちらにも間違った部分がある。孝次が眞治達の危険を叱ったのは間違っていないし、七緒が眞治の代わりに怒ったのは真心からだ。けれどどちらも相手を許せずにいるのは、間違っている。
孝次はしばらくうつむいていたが、まるで蚊の鳴くような声で言った。
「わ、悪かったよ……眞治のことも、七緒のことも考えてなかった」
ごめん、と呟く声が聞こえただろうか。掛け布団の中身が寝返りをうったようにもぞもぞと動き、布団から何かが出てきた。真っ白な毛並みの子ギツネだ。キツネは大きく欠伸をすると、側にいた孝次に擦り寄った。そしてピョンピョン辺りを跳ね回ると、障子の向こうにふわりとその姿を消した。
☆
朝。誰よりも早く飛び起きた七緒は、隣で眠る秋代の布団の上を飛び越えて一階へ降りた。部屋を暖め、かじかむ手で雨戸と格闘しながら開け放った。今日も庭は白銀の世界だ。獅子脅しの隣ではあの白い子ギツネがこっちを見ている。七緒はそれに手を振って、左一達の和室へと向かった。
障子を開けて部屋の中を覗きこむと、いつもの通り、和室の中央に二つの布団が並べられていた。七緒はそっと忍び込み、先に左一の布団をはぎ取った。そしていつもはしない荒技で左一を起こすことにした。
何度か肩をゆすり、今度は瞼を上と下に引っ張ってみる。ヨシがいれば拳骨一つ喰らいかねないが、まだヨシは寝ているはずだ。
「……う……ん、ん……んぅ?」
左一が目を覚ました。いつもの通りシャキッとしないが、それでも十分だ。七緒は隣で眠る孝次の布団を指差してみせる。
「んー……?ん、引っ張ればいいの……?」
左一は七緒に指示されるまま、孝次の敷き布団を掴んだ。七緒は頭の方を持ち、二人でいっせいに敷き布団をはぎ取る。
せーの、という左一の間の抜けた掛け声と共に、孝次はコロコロと横に転がった。転がりようは流石に兄弟、左一そっくりだ。しかし運の悪いことに、転がった先には勉強机の足があった。
「――――いってぇっ!!」
ガツンと盛大な音を立てて、孝次が起き上がった。その様子を見て、七緒は寝ぼけ眼の左一の隣で笑ってみせる。状況がよく分からない孝次は二人の顔を交互に見て、やっと状況を理解したかのように叫んだ。
「七緒っ、お前やったなーっ!」
腹を抱えながら逃げていく七緒に、孝次がバタバタと後ろを追いかけていく。騒ぎが遠のいていくのを感じながら、左一はころん、と自分の布団に横になった。
ヨシの怒鳴り声を遠くで聞きながら、左一は幸せそうな寝顔を浮かべる。
今日も一日の始まりだ。
Fin.
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
座敷わらし、狐に続いて今回は雪女(?)が題材でした。そして内容もちょっと現実的なお話です。
いつもよりちょっと長めになりましたが、楽しんでいただけたら嬉しいです。