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『なかったことにできる消しゴム』

掲載日:2026/04/29

『なかったことにできる消しゴム』



リリ子は、都会の一人暮らしを始めてやっと慣れてきたところでした。都会は、なにかとお金がかかるものです。今日は休日ですが節約のために、お昼のパスタの準備をしています。そんなときに、リリ子の部屋のチャイムが鳴りました。


リリ子が玄関のドアを細く開けると、そこには、真新しい背広をきちんと着こなした、真面目そうな青年セールスマンが立っていました。


「ワンダー文具の水谷と言います。実は今、新しいコンセプトの製品を開発しておりまして……」


「都会の訪問販売には、くれぐれも注意するのよ」

都会へ出るとき、実家のお母さんに何度も言われた言葉が、不意に脳裏をよぎりました。リリ子は警戒を強め、表情を硬くして言い放ちました。


「セールスなら結構です」


リリ子は相手の言葉を遮り、そのままドアを閉めようとしました。休日の貴重な時間を邪魔されたくはありませんし、なにより、今のリリ子には訪問販売から物を買えるほど、生活に余裕などどこにもなかったのです。


「待ってください! お願いです、少しだけでいいんです」

水谷は必死の形相でドアの隙間に声を滑り込ませました。

「今月、なにも成果がないと、私、会社をクビになりそうなんです……。あ、例えば! あなたが今着ていらっしゃる、その普段着の袖についている小さなお料理のしみ、この消しゴムで試してみませんか?」


リリ子は自分の袖を見ました。確かに、さっきパスタの準備をしていた時についた、ソースの小さな跡がありました。


「消しゴムで、しみが消えるわけないじゃない」

「おねがいします、一度だけ!」


あまりの必死さに毒気を抜かれたリリ子は、彼が差し出した真っ白な消しゴムを受け取り、半信半疑で袖のしみをこすってみました。しかし、しみが消える気配はありません。


「……消えないじゃない。やっぱりインチキね」

「いえいえ! 申し訳ありません、説明が足りませんでした。この消しゴムは、その出来事を、この当社の特製ノートに書いてから消していただくものなのです」


水谷が鞄から取り出したのは、立派な表紙の他には、たった一枚しかページがない、変なノートでした。

リリ子は思わず身構えました。


「ははぁ……。それで、その特製ノートが、一万円とか言うんでしょう?」


疑いの眼差しを向けるリリ子に、水谷は慌てて首を振りました。

「いえいえ! これもサンプルです。お金なんていただきません。ただ、私の首がかかっているんです。どうか、使ってみた感想だけでもいただけませんか。お願いします!」


リリ子は元来、気の優しい性格でした。困っている人や、他人の悩み事にはつい同情してしまいます。必死に頭を下げる青年の姿に、彼女の警戒心は少しずつ解けていきました。「わかりました、感想だけですよ、実はお金はあまりないですから……」


リリ子が言われるがままに、ノートの唯一のページに「袖のしみ」と書いてから消しゴムを動かしました。

すると、どうでしょう。

さっきまで確かにそこにあった袖のしみが、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えてしまったのです。


「え……嘘……」

「お気に召しましたか? 昨日の嫌な出来事や、体重のこと……何でもいいんです。このノートに書いて消せば、それは現実から消滅します。もしよろしければ、ノートとサンプルを数日お使いいただけませんか?」


リリ子は、魔法のような光景に目を奪われたまま、その小さな白い塊と奇妙なノートを握りしめていました。


リリ子は翌日から、その消しゴムの力を恐る恐る試すようになりました。

まずは、同じ日に入社した女性同僚が仕事でしてしまった手痛いミスや、その女性から相談された恋の悩みなど、周囲の「不都合な事実」を次々とノートの一枚きりのページに書いては消していきました。書くたびにページは真っ白に戻り、リリ子の周りからは小さな悩みが少しずつ消え、みんなの笑顔が増えていきました。その同期の女性とは大の仲良しになり、都会に出てきて初めての親友ができました。


リリ子が今の会社に勤め出してすぐのこと、同僚で同い年の男性社員がリリ子のミスをかばってくれたことがありました。お礼をしようと、彼のアパートへ手作りの差し入れを持っていこうと思い立ちました。お金のないリリ子には、精一杯のお礼です。実は、リリ子は彼のことが少し気になっていたのです。


以前のお礼を口実にして、手料理を持って彼のアパートを訪ねたときのことでした。

玄関から、リリ子の親友であるあの女性同僚が、彼と楽しそうに笑いながら出てくる場面に出くわしてしまったのです。


リリ子の胸は張り裂けそうになりました。彼とその女性に見つからないように、必死で走り、自分の部屋に逃げ帰りました。リリ子が作った手料理は、玄関の端に無造作に投げ捨てられました。


リリ子は、震える手で消しゴムとあのノートを手に取りました。

彼を消してしまおうか。それとも、あの女性を消してしまおうか。

一枚しかないノートのページに、彼の名前、それから親友の名前を並べて書きました。リリ子は震える手で何度も消そうとしましたが、どうしてもできません。


「そうだ、自分の心を消しちゃえばいいんだ……そうすれば、この痛みもなかったことになる」


リリ子は、彼と彼女の名前の後に、「リリ子の心」と書きました。この文字を消してしまえば、きっとすべてうまくいくはずだと、リリ子は考えました。


消しゴムの角を紙に当てた瞬間、リリ子の脳裏には彼と親友の笑い声が、頭の中に響き渡り反響しました。心がつぶされるような激痛が走ります。けれど、白いゴムが文字を擦り、紙の表面を削り取っていくにつれ、不思議とその痛みは遠ざかっていきました。


一文字、消えるごとに、胸の奥に冷たい風が吹き込みます。 最初の「リ」が消えたとき、彼への恋しさが霧のように薄れました。 次の「リ」が消えたとき、親友への憎しみが氷のように溶けました。 「子」が消えたとき、自分が誰であったかさえ、どうでもよくなりました。


最後の「心」という文字が白い粉の中に埋もれた瞬間、リリ子はかつて味わったことのない、圧倒的な解放感に包まれました。すべての感情が消え、真っ白に光る世界の中に投げ出されたようでした。


文字が消え去った机の上には、もはやリリ子の姿はありません。

そこにはただ、一度も使われていないかのように真っ白で、小さな新品の消しゴムと、たった一枚の白紙を抱えたノートだけが、ぽつんと転がっていました。


水谷と名乗ったセールスマンが玄関から入り、静かにその消しゴムを拾い上げました。彼の目が悲しいような、疲れきったような、複雑な色をしていました。


「自分を消しちゃったか……」


水谷は小さく独り言を呟くと、誰もいなくなった部屋を後にしました。




   おしまい

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